正しい食事法➃

2021年3月28日

【黙って食べる歴史】

今の“あたりまえの感覚”を手放しに信用してはいけない。それが常識であればあるほど疑ってみた方がよい。
現代の社会通念では、食事は楽しく会話をしながらすることが望ましいとされる。ランチメイト症候群を患うのも東大チームが「弧食はウツになる確率が上がる」という研究をしようと考えたのも、そんな感覚がベースにある。だが、むかしからそうだったわけではない。
八百年前、道元は出家者は「黙って食べる」と決めた。黙ってかみしめながら食べるのは、食材に対する敬意と施しを与え料理を作ってくださった方々への感謝を表現している。よそ見をしながら、あるいはだれかと談笑しながら仏を拝む人がいないのとおなじように、大切なものだからちゃんと向き合うのだ。
昔はいまのように豊かではなかった。一粒の米もおろそかにできない時代がつづいた。だから道元の食事に対する姿勢は共感を呼び、お寺の外でも皆が食材の来歴を考えながら「いただきます」と拝み、きちんと向き合うために黙って食べて、手間と労力を思いやる「ごちそう様」で終えるという食事作法を実践するようになったのだろう。

それが変わったのはいつか?
道元から三百年後、織田信長や豊臣秀吉と間近に接する機会を持った宣教師ルイス・フロイスが、当時の宴席の様子を記録している。
イエズス会の巡察師との面会を終えた関白・秀吉は、食事を用意させたので食べてゆくようにと言って自分は奥に下がってしまう。そこで、宣教師一行は、毛利輝元をはじめとする諸侯たちと食事を共にする。

   間もなく食膳が運ばれた。一人一人の前に四角い膳が置かれる。
   食事をすることも給仕をすることも、きわめて静粛に行われた。
   宴会も終わりになり、食膳が下げられるのに先立って、普段着に着替えた関白があらわ
   れ、巡察師と親しげに話を始めた。関白は種々の質問をし、満面の笑みを作った。
   (『フロイス日本史』より一部抜粋)

戦国の世でも食事は黙って行われていたのだ。特筆すべきは秀吉のふるまいで、聞きたいことが山ほどあったとみえて、膳が下げられるのを待ちきれずにあれこれ質問を始めている。逆に言えば、食事が終るまで待っていたということになる。つまり最高権力者であっても、会話で相手の食事をさまたげないという食事作法を守っていたのである。
またフロイスは、一人一人に膳が置かれたと書いている。いわゆる「銘々膳」と呼ばれる形式だ。
道元は『赴粥飯法』の中で、各自が「鉢単」と呼ばれるランチョンマットのような敷物を用いるよう指示している。それが「ひとりで食べる」ということだ。たとえ大勢でならんで食べたとしても、その結界によって、自分と料理に一対一の関係が生まれるのである。
銘々膳は隅々まで行き渡り、江戸後期に越後と信濃の国境にある秘境・秋山郷を訪ねた鈴木牧之の記録にも、山人家族が各々、栃の木で作った膳で食事をする様子が描かれている。
余談になるが、時代劇でよくテーブルに徳利や小鉢のならぶ小料理屋を見かけるが、あれはありえない。江戸時代の料理屋では、蕎麦屋でも鰻屋でも一杯飲み屋でも、畳に各自の膳や盆を置いて、その上に料理をのせて食べた。
そんな銘々膳と食事中の会話の有無には、深い関係がある。国立民族学博物館の研究グループが、食卓の変遷と食事作法の変化を関連づけた調査を行っている。
明治に入っても銘々膳や箱膳で食事をしていた時代は83%の家庭で、会話厳禁だった。道元の食べ方は六百年後も続いていたのである。
ところが、明治も半ばになると、こんなことを言う人が出てくる。

   食卓上の礼儀は西洋諸国に於て特に重んずる所ろなり、凡そ、彼の国にては、食事の
   間を甚だ楽しき時間となし……面白き談しを為て、互ひに喜び合ふ事と致せば……然る
   に我国にては、元来食事の際に物言ふを禁じ、何事も、ただ厳密に制御して、反って
   窮屈に思ハするの趣きあり。(明治二十年発行『通信女学講義録』より一部抜粋)

事程左様に、明治とは日本人が身も心も西洋人になろうとする運動だったのである。お雇い外国人ベルツの日記には、当時の空気がよく表れている。

   またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと「われわれ
   には歴史はありません。われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しまし
   た。(『ベルツの日記』明治九年十月二十五日より)

ご一新の明治の世を生きる人々には、それまでのすべてが無価値に思えた。そして西洋はきらきらと輝くあこがれだった。だから西洋人の食べ方を目にした人は、これこそが文明的なマナーであって、日本の食事作法は遅れていると卑下してしまったのである。ただ、そのころの西洋が実際にどうだったのか別だが。それは後述するとして、食事作法改善運動は明治の末とうとう学校教育に取り入れられる。当時は「修身」といって、道徳や立ち居振る舞いを教えこむ科目があった。その教科書の「食べ方」の項目を見ると、挿絵入りなので変遷がよくわかる(以下は表真美先生の研究による)。
明治二十五年の『尋常小学校修身』の教科書では、銘々膳での食事風景が描かれている。上座にはいかめしい顔つきの父親が座る。ひげなどはやして、いかにも家父長然とした態度だ。父に見下ろされる形で子どもたちが座っている。父親近くに兄、その次が妹の順だ。二人ともうつむきかげんで、黙ってご飯を口に運んでいる。なんともつまらなそうな食卓である。
ところが明治三十八年の『尋常小学修身書』になると、がらりと変わる。ちゃぶ台をみんなでかこんで座っている。上下関係は曖昧で、父のそばに妹がおり、兄は父親と対面する位置にいる。そしておどろいたことに「今日学校でこんなことがありました」と嬉しそうに話す兄に、「ほう、それは愉快だね」と父親が目を細めて応えている。楽しくにぎやかな食卓に変わっているのである。この「楽しい食卓像」は、大正、昭和、そして戦中まで一貫して掲げられた。
黙って食すことから会話する食事へ、その流れは明治半ばの平等主義者の啓蒙活動に始まり、政府が学校教育に取り入れたことで広まってゆく。
断っておくが、政府は子どもたちのためを思ってそうしたわけではない。国家を構成する最小単位として家族を想定した政府にとって、家族内がばらばらになって統制が取れなくなることが一番こまる。そこで、家族の精神的結びつきを強める手段として食卓を利用しただけのことだ。
そしてそれを可能にしたのが、「ちゃぶ台」の普及という空間的要素と、都市部のサラリーマン家庭に「主婦」が生まれたという人的要素だった。
だが、政府が考える「楽しい食卓」の実現には、けっこう時間がかかった。戦前は、自由に話をすることがゆるされた家庭は37%にとどまる。32%は、それまで通り黙って食べ、残りの家では静かになら良いとか、必要なことなら良いとか、なんらかの制限がついた。半分以上の家では、静かに食事をしていたわけだ。
だが戦後になると教育の定着、高度成長による中流家庭の拡大、テーブルの普及、そしてアメリカのテレビや映画の影響によって「楽しい食卓」は急速に広まる。七十年代には食事中に会話をしない家庭は天然記念物的存在で、黙って物を食うのはそれこそ寺か監獄くらいしかなくなってしまった。もはや会話のない食事は、苦行か懲罰なのである。

ところが、理想の食卓は三十年も続かなかった。生活の個別化が思ってもみないスピードで進んだからだ。一九八二年のNHK特集「こどもたちの食卓/なぜひとりで食べるの」という報道をきっかけに、「弧食」が問題視される時代に入る。
そこでまた政府の出番だ。そんな〝社会統合の失敗〟につながりかねない家族の分裂を見過ごすわけにはいかないとばかりに、新しい教育プログラムを組む。
中央教育審議会は、一九九八年の答申以降何度も「家族一緒の食事の大切さ」を訴えてきた。提言の要点は「子どもの肉体的かつ精神的発育に、食事は大きく影響する。食事に関して中心的役目を担うのは家庭だ。親は、栄養があってバランスの良い食事を与え、食卓で豊かな会話をして子どもたちに安らぎを与えねばならない。そして食を通じて、礼儀作法と多くの人への感謝の心を教えるのだ」といったところ。その前提にあるのが「生活行動の多様化によって、家族が共に食事をし団欒の時を過ごす機会が減少している」という、良き伝統がくずれてしまうことへの危惧なのである。だがそれは、幻想と誤解をもとにした議論だと言わざるをえない。
会話のない食卓に家族に団欒はなかったのだろうか。もちろん、そんなことはない。前述した鈴木牧之の『秋山紀行』に、こんな記述がある。

   秘境・秋山郷を旅する牧之は、寒村には珍しい塗り壁の家を見つけて、ひと夜の宿を
   お願いする。山人は遠慮がちに、「ようこそおいでなさいました。ただ、わが家には
   米がありません。粟飯ときのこ汁でよければ、お出しできないこともありませんが」
   と、答えた。
   牧之は、「いえいえ、私どもは米も味噌も野菜も持っております。本当に宿さえ貸して
   くださればそれでけっこうです」と、上がらせてもらう。
   外見はある程度の家かと思われたが、入るとやはり貧しい。それにひどく寒かった。
   牧之と、案内人として同行した桶屋は、先に食事を始める。鍋に湯を沸かし、鰹節をつ
   かみ入れ、そこに舞茸と味噌漬けを入れる。これが、すこぶる美味かった。白米を炊い
   てもらったら、慣れぬせいかぐじゃぐじゃにしてしまい、ため息をつく。と、そこへ
   「お菜にどうぞ」と、汁椀を出してくれた。里芋と大根の細切りが入った味噌汁で、
   底に小判型の餅のようなものが入っている。あとで聞いたら秋山名物の粉豆腐というも
   のらしいが、硬くてまずくて咽を通らない。
   牧之たちが食事を終ると、炉の向こう側で家族の食事が始まる。まん中に大きなお櫃を
   置いて、そのまわりに家族が輪になる。脇には煮物の鍋が置かれた。
   彼らは大きな椀で、粟と稗とわずかな小豆を入れた飯をうまそうに食う。また牧之が食
   えなかった粉豆腐も、うまいうまいと味わっている。その楽しげな様子は、とても里人
   のおよぶところではない。

当然のことながら、ごはんを食べるというのはそれだけで楽しみなのである。食事中、牧之たちの間に、そして山人家族の間に会話があったのか特に記述はないが、おそらくなかったのだろう。たとえば牧之は、おそろしく不味い豆腐の正体を翌日隣村へ向かう道すがら桶屋に聞いて知る。いまならその場で豆腐をつまみあげて「これなんだろね」と尋ねるにちがいない。いかに当時の人が黙って物を食べたかがこのエピソードからもうかがい知れる。
もちろん団欒もあった。食事のあと、囲炉裏をかこんで会話をしたのだ。おそらく昔の人に意見をもとめたら、食事と団欒を一緒にすませてしまおうという発想は、両方に対して不誠実なのではないかと首をかしげるのではないか。
中教審は「生産者への感謝の心を育てる」と言うが、ろくに味わいもせずに感謝が生まれるだろうか。昔から教師は、ラジオを聞きながら勉強する〝ながら勉強〟はいけないと咎めてきた。意識が分散すると、どちらも等閑になってしまうからだ。なのにおなじ口で、話ながら食べることを推奨するのはおかしいではないか。むしろ子どもたちに食材の知識や生産者の情報を伝えたうえで、黙って味わうことを勧めるべきではないだろうか。

ところで、明治の日本がモデルとした欧米の食卓は、実際にはどうだったのだろう。
なんのことはない、五十歩百歩だったのだ。食卓を囲む団欒が始まったのは十九世紀後半、ビクトリア時代のイギリス中流家庭においてとされる。ところが労働事情、住宅環境、男女差別もあって、新世界アメリカでさえそれが広まることはなかった。アメリカで「楽しい食卓」が実現したのは、戦後それも五十年代に入ってからだった。
ところが日本と同様、すでにそれは崩壊している。たとえ家族そろって食べたとしても、みながテレビの方を向いて食べる、あるいはスマホをいじりながら食べるというのが一般的な食事風景なのだから。アメリカでもフランスでもオーストラリアでも、「家族の食卓の崩壊」を憂える言説があとをたたない。