現代人はヒマである。そしてそのヒマを持て余している!
そんなことない朝から晩まで働きづめだ、と反論なさる方も大勢いらっしゃるだろう。でも朝ごはんの仕度をするのに井戸の水汲みから始めた時代と比べると、生存のために割かねばならない時間はぐっと減った。自由に使える時間はグンと増えたのである。
けっこうなことじゃないと思うかもしれないが、喜んでばかりもいられない。たとえば近ごろ理想の生き方として喧伝されるFIREは、若くて体の動くうちに大金を貯めて引退し運用益で生活しながら自由を満喫しようというものだが、見るとこれがあまり楽しそうではない。時間はあるんだから、今までできなかった好きなことをするぞッ! と意気込んでロードレーサーを買いこみ、サイクルウェアに身を包んでヘルメットをかぶりサドルにまたがる。海まで漕いで、しばらく浜辺でぼおっとするが間が持たず、予定よりずいぶん早く帰宅する。ネットフリックスを見る。アマプラ、Hulu、ユーネクスト、ディズニープラスを見る。音楽を聴く。雑誌をめくって海釣りでも始めてみようかと思う。ならばボート二級免許を取った方がいいか。市民農園を借りて野菜作りを始めるのも悪くないな……はぁー。
みんな気づいてしまうのだ、湯水のごとく時間をかけて“したいこと”や寝食を忘れて没頭する“好きなこと”なんてなかったのだという恐ろしい事実に。
FIERほどではなくても、みんながヒマを持て余している。その証拠に今日一日、電話をかける目的以外で何度スマホを覗いたかカウントしてみてほしい。何回ヒマだなぁと感じただろう。人は退屈に耐えられないのだ。現代人は「短いはずの人生で、どうやってヒマつぶしすればよいのか頭を悩ませる」という、悲しくも滑稽な状況におちいっているのである。

IT企業というと、なんやかやネット周りのことをやってるんでしょというざっくりしたイメージしかなかったが、『メタバースとは何か』(岡嶋裕史著)を読んで理解できた。Facebookは100%、YouTubeを運営するGoogleは70%、Twitterは90%を広告収入に頼っている。ということは、利用者の滞在時間が売り上げに直結するのだ。IT企業の代表であるテックジャイアントたちは、人々の時間をどうやって奪うのか、その競争をしていたのだった。
そして、その最大の武器がSNSなのである。SNSは友だちをつなげるネットワークだと誤解していたが、本当は雑多なつながりを遮断して同質の人間を囲いこむ技術だったのだ。トランプ支持者がSNSに操られて連邦議会を襲撃したことはよく知られている。彼らは逮捕され裁判にかけられた今でも、あれは愛国的行為だったと信じて疑わない。気の合う仲間たちに囲まれてついつい長居してしまう心地良い空間がSNSなのである。
そういう意味ではYouTubeもSNSに分類される。強力なレコメンド機能によって、猫好きだと悟られようものなら一生かかっても見切れないおもしろ猫動画が数珠つなぎに提示され、中華の鍋振りテクニックに興味ありと思われたら明け方まで様々なチャーハン作り動画を視聴するハメになる。まるでフィルター付きのバブルに閉じこめられるようなものだ。
そして究極のフィルターバブルが、GAFAMが次の主戦場と見定めたメタバースなんだそうだ。メタバースとはサイバー空間における仮想世界のことで、現実世界に似せてはあるが少し違う。そこにはリアルにはつきものの面倒な手間や、嫌な思いや、争いといったものがない。利用者にとって完全に都合の良い世界なのである。
コロナ禍で世界的メガヒットとなったゲーム『あつまれ動物の森』は、コンセプト的にはメタバースに近いと言われる。そこには倒すべき敵や解かねばならない謎などの用意されたストーリーはなく、自由に遊べる広大な世界だけが用意されている。プレイヤーはただただ無人島での生活を楽しめばいい。
現実の釣りは大変だ。仕掛けを結ぶのは難しいし、ゴカイを触るのは気味が悪い、すぐ根がかりしてイライラする、待てど暮らせど当たりはこない。でも『あつ森』ではちがう。魚を釣り上げるまでに必要とされる忍耐や学習や熟練はカットして達成感だけ味わえるのだ。いいとこ取りできる夢の世界がメタバースなのである。くわえて『あつ森』には、ネットコミュニケーションにつきものの言い争いがない。そんな心地良さが皆の心をとらえたのだ。
それをより完璧かつ生活全般でしてしまおうと目論むのがメタバースで、仮想世界で働いてお金を稼ぎ、遊び、恋愛までできてしまう。目覚めている時間は食事と排泄以外ほぼそこで過ごすわけだから、究極の時間泥棒なのである。

えっ、それって問題じゃない、と思う人も当然いるだろう。
摩擦やストレスのないフィルターバブルに閉じこもるのは、他者のいない世界に暮らすようなものだから。
他者と向き合うのはめんどうだ。だから自分とちがう人間と出くわしたら、多くの場合、相手を避けようとする。それが最もエネルギーを使わなくてすむ方法だから当然だ。時に魔がさして攻撃に転じることもあるものの、勝っても負けても心に深い傷が刻まれてしまう。やっぱり避けた方が無難だったと後悔することしきり。でも回避か攻撃か、鎖国か戦争かの二択しかないなら社会は成り立たない。考えのちがう人たちでも、なんとか折り合って生きてゆくしかないのだ。
そこで鍵となるのが感情。異なる思想、信条、理屈を抱えていても、感情は共有できる。感情を以てすれば種をも越えたコミュニケーションだって可能だ。
現代人が抱える諸問題を考える際、ノラ猫というのは示唆的な存在だと思う。
日本では行政をまきこんでノラ猫の去勢・避妊活動が盛んだが、どうかやめてもらいたい。その本質は殺処分を防ぐと言うより、猫を完全にペットショップやブリーダーから買う“商品”にしようという活動でしょう。だって仮に生体売買が禁じられたとしたら、ノラ猫のご機嫌取り合戦が始まって、あっという間に殺処分などゼロになるだろうから。

ノラ猫は人間と住み分けて暮らす野生動物でも人間の完全なコントロール下にあるペットでもない、非常にユニークな存在だ。外飼いしていればフッといなくなってしまうこともざらだ。とても悲しいことだが、それはこらえねばならない。あの子らの意志で家に来て、互いの心が通じることで居ついてくれて、あの子らの意志で去ってゆく。相手を避けるでも屈服させるでも利用するでもない、感情を仲立ちとして共に生きることがそこに実現される。それは、あらゆることをコントロールしたいという欲望にとりつかれている人類にとって貴重な学びの機会だと思うのだが。
ノラ猫の糞尿や鳴き声に困っているというプレートを見るたび疑問に思う。ノラ猫は糞をするところも現物も見せない。そして、もはや“猫の恋”という季語を実感できる人がどれだけいるか。もし実際それらに困っているとしたら、それこそ地域で話し合うチャンスではないか。貴重なコモン(みんなの資源)であるあの子らをどうやって守り、どうとつきあってゆくのかを地域で決めるのだ。
地球温暖化を止めることは待ったなしの課題なのに、ほとんど進展がない。レジ袋を廃止しようが電気自動車に乗ろうが、経済構造の川下にあたる消費行動をチマチマ変えたところで効果はしれている。間に合わなければ意味がないのだ。本気で解決しようとするなら、川上の生産手段を労働者が自治・管理してコモン化するしかない、とは『人新生の資本論』で斎藤幸平先生が力説する点だ。ノラ猫問題はその先鞭をつけることになると思うのだが。
つい熱くなって脱線した。自他の感情と向き合うのはやっかいでも、先に挙げたようにそれはすばらしい能力でもあるのだ。そして人類と地球の未来はテクノロジーではなく感情にかかっている。他者のいない世界に閉じこもることは滅びにつながるゆえに、私はメタバースに否定的なのだ。
なーんて言ってみても、メタバースのヒマつぶし力はめちゃくちゃ高い。それを止める対抗策などあるのだろうか?
というわけで、ヒマと退屈についての考察『暇と退屈の倫理学』(国分功一郎著)を参照して、ヒマつぶしについて考えてみたい。


国分先生はヒマと退屈の関係を表にまとめて下さっているのだが、そこに行く前に「ヒマとは何か、退屈とは何か」言葉の定義をしておく。


 退屈     :昨日と今日を分ける事件がない状態(だからみんなニュースが好き!)
 退屈じゃない :興奮している状態(それが自分にとって良い事でも悪い事でも)
 ヒマ     :しなければならないことがない
 忙しい    :しなければならないことがある
※妄想     :いまココという現実から心が離れること


で、これがヒマと退屈の関係だ(表の構成だけ先生の案をお借りして、表内部の例などは私が勝手に書き入れた。また、当ページの技術上の問題から表が表示できないので項目として挙げる)。
 ➀ヒマ   × 退屈     ・坐禅 (妄想しない。区別もいらない)
 ➁忙しい × 退屈     ・無駄な会議/ルーティンワーク (ついつい妄想が出る)
 ➂忙しい × 退屈じゃない ・仕事が楽しい/過酷な労働 (妄想するスキもない)
               ※歩きスマホ 
 ➃ヒマ  × 退屈じゃない ・旅行(妄想はしない)
               ・映画、小説、SNS、メタバース(妄想に没入)
               ・不安や不満で頭がいっぱい(妄想にとりつかれている)  

➀の(ヒマ×退屈)から説明しよう。
とりたててしなければならないことがないうえに、事件がなにも起こらない状態だ。
人はそれに耐えられないから、この状態でいつづけることはあまりない。また、だからこそ20世紀以降の資本主義社会では文化産業(暇潰しのためのあれこれ)と呼ばれるセクションが巨大化したのである。
坐禅については後述する。

続いて➁の(忙しい×退屈)。
しなければならないことの最中なのに事件を求め、その願いがくじかれている状態だ。
いつ終わるともしれない無駄な会議や無味乾燥なルーティンワークがそれ。
そんな時、人の心は妄想を始め、いまココという現実とかけ離れた場所へ飛んで行く。アフターファイブの居酒屋や週末の遊園地そして、いっそ直下型大地震がおこらないかなぁなどとカタストロフを求めたりする。

次は➂の(忙しい×退屈じゃない)へ行こう。
しなければならないことがあり、それに集中している状態だ。
好きなことを仕事にしている人。逆にあまりにも過酷だったり危険な仕事に就いている人。
※で挙げる“歩きスマホ”は厄介だ。目的地まで歩くというしなければならないことの最中なのに、そのこととは別の気晴らしを楽しんでいるのだから。このマスと左下のマスの両方にまたがっている状態である。この表にはまだ改善の余地があるということだろう。

そして➃の(ヒマ×退屈じゃない)だ。
しなければならないことがなく、大いに興奮している状態。
旅行は日常の枠を破り新鮮な経験をもたらす。小説や映画を楽しみ美味しい料理を味わうことで、大いに感情が刺激される。フィルターバブルの繭の中で心地良い時間を過ごすのもここで、お客様を退屈させないよう様々な仕掛けが用意されている。
で、忘れてはいけないのが、不安や不満で頭がいっぱいの状態もこのマスに当てはまるという点だ。頭は熱くのぼせ次々と様々な妄想が起こりグルグルとループする。少しも退屈ではない。

ふぅ、やっと坐禅について話せる。
坐禅をしていれば、することがなくても退屈しない。昨日と今日を分ける事件を欲したりしない。ヒマな状態にとどまっていられるのだ。ご理解いただくために、先ほど挙げた妄想で頭がいっぱいの状態を考えて欲しい。それは、退屈はしていないけれど苦しい時間ではないだろうか。それとは正反対の状態なのである。
人の心は放っておくとすぐに妄想を始める。そして妄想が苦しみを生む。心がいまココという現実から離れて未来へ飛んで行くと不安という苦しみが、過去へ飛んで行くと後悔が、理想と現実の差へ向かうと怒りや嫉妬がわきおこる。
そして坐禅の目的は、心を“いまココ”という現実に置いて妄想を止めることにある。
最初の訓練としては、脚をがっちり組んで坐り体に動くことをあきらめさせてしまう文字通り“坐禅”が最適だが、徐々に行住坐臥あらゆる場面で坐禅してゆくのだ。
ブッダは言う「前を見る時も、後ろを見る時も、よく気をつけている。腕を曲げる時も、伸ばす時も、よく気をつけている。食し、飲み、噛み、味わう時も、よく気をつけている。大小便をなす時も、よく気をつけている。行き、住し、坐し、眠り、めざめ、語り、沈黙している時も、よく気をつけている(『大パリニッバーナ経』)」と。常にまっすぐな正身でいるよう姿勢を気をつけ、まっすぐな呼吸を心掛け、正しく歩き坐るよう注意する。妄想を止めるには、そうして常に現実世界にある自分の身体に心を寄り添わせておくことだ。
でもヒマなのに退屈しない理由は、常に気をつけねばならないという“せねばならないこと”があるからだけではない。
禅定の中では時の流れが日常とちがう。それについては以前書いたタコの時間を読んでもらいたい。ゆえに昨日と今日を区別する必要もない。ヒマをヒマとして味わうことができるのである。

というわけで、「どうやってヒマつぶしするのか」という問題を考えるにはまず、いま自分がどの状態にあるのか分析して自覚することだ。ヒマで退屈しているのか、妄想で忙しいのか、しなければいけないことの最中なのに気晴らしをしているのか。
そしてどうありたいのかを考える。その時、そこに坐禅という選択肢が入るとぐっと世界が広がることは間違いないでしょう?
そこまで言うならやってみるか、と決意なさったあなたにアドバイスを。
良い師匠につきなさい。そして良い師匠は探さなければ見つからない。昔の禅僧が全国を行脚したように。