私は僧侶になってすぐ、守山祐弘大僧正に付いて三年間学んだ。本当にたくさんのことをご教授賜っただけでなく、折に触れ、お位牌やお塔婆を書く際に墨をする端渓の硯、錫の音が美しい五鈷杵、大切な法会でつける七條袈裟と、僧侶として必要な仏具や得体のほとんどを頂戴した。そのご恩に対して、今はもう感謝するよりほかない。ほかないといのは言葉のままで、守山先生は本山・長谷寺の執事をお努めのさなか、五十代の若さで遷化なさったので、直接恩返しすることがかなわないのだ。
その守山先生が住職を務め、私が通ったお寺を常楽院という。
実を言うと、私はその「常に楽しい」という寺名にどうしても馴染めなかった。もちろん涅槃の四徳「常楽我浄」から取ったのであろうことも、「法楽」という仏教用語も知ってはいたが、仏道とは真面目に取り組むものという浅薄な考えにとらわれていたので、山号額に踊る「楽」という字に、知床岬に建つ健康ランドくらいの違和感を覚えてしまったのだ。
あれから三十年。自分の「楽」に対する見方がどう変わったのかお話ししたい。
他の動物とくらべて、人間は豊かな感情を持つとされる。確かに、犬はちょっと撫でればオーバーリアクション気味に喜ぶし、猫は少しでも気分を害すと深刻に拗ねてみせる。でも人の感情は、それらとはくらべものにならないくらい複雑で、目まぐるしく変化するのだ。他の動物からしたら、さぞ情緒不安定な生き物に見えることだろう。
で、その感情を指して、ひと口に「喜怒哀楽」と言う。だが、よく考えると「喜怒哀」と「楽」は一括りにはできないのではないか。
なぜなら、自分にとって良いと思うことが起こった時、自分の願い通りにものごとが運んだ時に生まれ感情が「喜」。逆に思い通りにならなければ「哀」となる。そして、その度合いが強ければ「怒」が生ずるわけだ。そのように「喜怒哀」の中心には自分というものがドーンと構えている。
ところが「楽」はちょっと違うのだ。例えばスポーツ選手が「試合を楽しめた」と言うことがある。誰しも試合に臨んで目的とするのは、勝つことだ。ところが楽しいと感じている最中は、勝ちたいという自分の意志はどこかへ行ってしまっている。だからまれに、試合に負けたとしても「楽しめた」と思うケースさえ出てくるのである。
あるいは音を楽しむと書く音楽を思い浮かべてほしい。流れてくるメロディやリズムに自然と体が動き出してしまう、そんな時が一番楽しいはずだ。それは、自分の価値判断や情報分析を止めて、音に身を任せている状態なのである。
音楽評論家の吉田秀和の著書に『之を楽しむに如かず』というエッセー集がある。そのタイトルは『論語』からの引用で、孔子は「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず(ものごとを理解し知る人は、それを好きだとう人には及ばない。ものごとを好きだという人は、それを心から楽しむ人には及ばない)」と言う。たとえばそれが学ぶということなら、「知る」は知識として記憶すること。「好む」はもっと知りたいという意思が芽生え、盛んに読み聞き学ぶこと。ゆえに知識欲などという言い方がある。そして「楽しむ」は自らの意思を越えて、呼吸するのとおなじくらい学ぶことが自然な営みとなっている状態だ。
そのように自分が中心となる「喜怒哀」と違って、「楽」とは自らの意志を超えたところに生ずるものなのである。
たしかに喜怒哀という感情などひょいと飛び越えて、ただ楽しくいることができれば……まさに常楽だが、それほどの幸せはないかもしれない。
でも、そんなことができるのだろうか?
実はあの良寛さまが、日々心安らかに楽しく暮らす秘訣を説いていたのだ。こんなありがたい話はないので、是非とも紹介したい。
念のため記しておくが、良寛は江戸時代の僧侶で、自らの人生を「生涯、身を立つるに懶し」と表現したくらい、上手に世渡りすることに背を向けて生きた人だ。
そんな良寛が作った『起上り小法師』という漢詩がある。ちなみに起上り小法師とは、おもちゃのダルマのこと。
「人の投げるにまかせ、人の笑うにまかす。さらに一物の心地(心の本性)に当たる無し。語を寄す、人生もし君に似たらば、よく世間に遊ぶに何事か有らむ」
「おもちゃのダルマは、人に投げられても投げられたまんま。笑われたら笑われたまんまで、それに対して何の感情や妄想も起こさない。人もそのように生きることができれば、何の苦労もなくなるはずだ」
ポイントとなるのは、何の感情も妄想も起こさないということ。
ふつうは鼻で笑われたら、悲しい、悔しい、恥ずかしい、といった感情がわく。そして、あの人は絶対に悪い人だ、いつか自分もおなじ目にあうだろう、なんならやり返してやろうか、などと現実にはない妄想をどんどんふくらませる。それらが一切湧いてこないと言うのだ。そんなことが出来るだろうか?
そもそも、どうしてそんな感情や妄想が湧くのだろう。
自分のことを大事に思うからだ。それをして自我と呼ぶ。植物には自我がほとんどない。昆虫も小さい。動物はしっかり存在する。だが、それだって人間の自我とくらべたら無いに等しい。それほど人間の自我意識は強烈なのだ。
そんな自我の観点から、さきほどの「喜怒哀」という感情を説明するなら、自分で自分を祝福し、褒めてあげるのが喜び。自分を慰めるのが哀しみ。自分を守るため他を非難し、攻撃するのが怒りだ。そうやって自我を守ろうとするから、様々な感情や理屈や妄想が湧いてくるのである。
ところが実際は、自分を守るためにしたことが逆に苦しみを何度も呼び起こし、心を乱し、自分を追い詰めてしまう結果になってはいないだろうか。時に人は、自死という選択をしてしまうことがあるが、それはこれ以上自分が傷つかぬよう自らを守ろうとして導き出される答えなのだ。
では尋ねるが、そこまでして守ろうとする自分とは何なのか?
私も含めてみんな、よく分かっていない。
それなのに自分、自分で生きている。それが実情なのだ。
現実を直視すれば、思い描いているような「決まった形をした自分」などないと分かる。
年齢を重ねると身に染みるが、体は刻々と変化してゆく。昨日の体と今日の体は、あきらかに別物だ。アンチエイジングなどとて若さを人工的に保とうとしても、叶うものではない。
そして心も刻々と変化する。
諸行無常、すべては変化する。だからブッダのおっしゃる通り「無我」なのである。
無我を実感するなら、感情や妄想が湧いてきても素通りさせることができるようになる。すると、先ほどのスポーツや音楽や論語のように楽しみの世界が開けてくる。良寛さんは、そう説いているのだ。
いやいや、なんの感情も味わえない無味乾燥な人生なんてつまらないし、降りかかる出来事に自分の意志を持つことなく身を任せているだけなら生きる意味がないだろう、と思うかもしれない。
でも、「執着すべきものは何も無い」と自覚し、自分をひいきして身勝手にふるまうことがなくなれば、相手の立場になって考えられるようになる。他人を思いやり、行動するようになるのだ。
そして、なによりも人生を恐れることがなくなる。
その点では、私たちは犬や猫を見習わなければならないだろう。面倒見ていた野良猫が病を得て、さんざん苦しんだ後、死期を悟って家を出てゆく際の毅然とした態度には、いつも頭が下がる。あの子たちは決してうろたえることなく、すべてを受け入れ、堂々と行くのだ。
ただ、そうやって無我を実感し、自我への執着を断つまでには、頭で理解するだけでは足りない。体解するプロセスが必要なのだ。坐禅でもいい、礼拝することでもいい、呼吸法でもいい、とにかく日々実践することだ。
やがて自我の執着がはげ落ち、心が軽やかになって来る。そこにはきっと「楽しい人生」が待っていることだろう。