儀礼という視点から国葬を考える

2022年9月28日

なんたる偶然か九月の後半、エリザベス女王に安倍元首相と、滅多にあることではない国葬がたて続けに行われました。女王のそれが彼岸入りの前日で、元首相が彼岸明けの翌日と、ちょうど秋の彼岸会を挟むようなかたちになったので「ほほぅこれは」と、ひとり感心しておりました。日本国政府はいざ知らず、イギリス人がお彼岸を避けるいわれもないので、この日程こそ全くの偶然でありましょう。あたりまえか。
さて、このたびの国葬には様々な意見が出ましたが、日ごろ葬儀にたずさわる者として、私はそれぞれの式次第とそこに込められた意図という角度から考えてみます。

エリザベス女王の葬儀は、宗教と軍事という二本の柱で構成されていたように見受けられます。
全体を通して強調されたのは、女王の信仰です。イギリス国王はイギリス国教会の長も兼ねるので当然とも言えますが、式場はウェストミンスター寺院、進行はホイル主席司祭、そしてたくさんの聖歌が奉唱されました。参列した各国要人の席順についての報道がなされなかったのも、神の前では皆が平等という理念からだと言われます。
そして信仰と同じくらい濃く漂っていたのが軍事色でした。王室を離脱したハリー王子が着用を許されず、モーニングでの出席を余儀なくされた件で注目を浴びたように、チャールズ国王やウィリアム皇太子など王族はみな軍服でした。
おそらくそれは、高い地位にある者はそれに応じた責任と義務があって、その最たるものが兵役だというノブレス・オブリージュの表明なのでしょう。とはいえ、イギリスの国葬と軍事が直結していることは紛れもない事実です。
たとえば国王以外で国葬の対象となった人物に、ウェリントンとチャーチルが挙げられます。ウェリントンはナポレオンを破り、チャーチルがナチスに勝利したように、国を守った英雄というのが選考基準となっているのです。
以上、イギリス国葬を儀礼面から読み解いて見えてくるのは、大英帝国を支えているのはキリスト教と軍事力だという信念ではないでしょうか。

では、日本の国葬はどうだったのか。
日本国憲法では政教分離がうたわれていますから、宗教色を出すわけにはいきません。かといって単なるお別れの会形式では国葬としての重みが出せないし間ももたないと心配したのか、軍隊葬とでも言うべき形でした。
式中で儀礼と思われるのは、武道館のガラス窓を震わせた弔砲十九発、軍楽隊による国家奉奏、儀仗隊の捧げ筒、ほかは黙祷と献花でしょうか。改めて見ると、かなり軍事の印象が強かったように思われます。まあそれはそれとして、問われるのは、その儀礼にどんな信念が込められているのかということです。
どう考えても平和憲法を掲げる国家にふさわしい表現とは思えません。まして国葬を行うにあたり、テロという暴力に屈しないという理由をあげたのであればなおさら、力に対して力で立ち向かうのではないと、なにか別の形で表明できなかったのだろうかと残念でなりません。
もちろん、これはあくまで儀礼としての話で、現実世界はまた違うことは承知しています。だからこそ国会を開いて議論を尽くし、正当な手続きを経て意思決定することがなによりも大事なのだと思ってやまないのです。