タコの時間➁

2021年6月5日

坐禅に最も適しているのは雨の日である。雨滴声を聞きながら坐るのだ。
脚を組んで坐り、腰骨を立て、体をまっすぐにさせたら軽く顎を引く。そして目を落として視界をうすぼんやりさせる。視覚が制限されると、代わって聴覚が鋭くなってゆく。
ザアザアザア。あぁ雨が降っている。篠突く雨だ。ピシャッ……雨粒がつくばいを打ち、パッとはじけるところまで脳裏に浮かぶ。シャー……車が水柱を立てて走り過ぎた。キーッ……ヒヨドリが一声をあげて木陰に飛びこむ。カチャカチャカチャリ……お寺の庫裡では食器を洗いだした。そして妄想は膨らむ。あの車はスピード出し過ぎだな。こちらの夕食はなんだったんだろう。
と、ここで呼吸を使ってでもなんでもよいのだが、ありったけの集中力を以て意識を内側に向けるのである。あちこちへ飛んで暴れ回る心を、常に“今ここ”にある体にピタッと寄り添わせる。すると、音は聞こえても雨音だ、鳥の声だ、瀬戸物の音だと情報分析にかけることがやむ。響きの中に坐っている感覚だ。さらに雨だれが心地良いとか、洗い物がうるさくて不快だとかいう価値判断も止める。好き嫌いをいったん置くのだ。
すると雨音がスーッと遠くへ遠くへ広がってゆくような、数キロ先の雨音まで聞こえてくるような気がしてくる。
この、意識が内側に向かって集中しているにもかかわらず外側に拡散してゆく精神状態というのは、実に不可思議だ。集中と拡散という相反する二つが同時に行われる、非常に矛盾した状態なのである。
頭でっかちな生き物である人間は、矛盾を嫌う。しかし坐禅中は、そんな矛盾状態にあっても心地悪いどころかなんとも言えぬ満ち足りた気分なのである。

同じ頭でっかちでもAIには決してできないのが、この相反する命令を同時に行うことだ。だから人間を考えるうえでこの“矛盾”という観念は重要なキーワードになる。
もう一つのキーワードが“時間”である。人間の心には「自己が特別で一貫した存在だ」という意識が根底にあるという。前半の「自分が特別だ」はミミズにだってある。自分という意識がなければ、土中を進みながら頭部に感じる抵抗を、自分で意識的に前進しているのか流されているのか判断がつかない。だが後半の「一貫した存在」は、おそらくミミズにはない。それは昨日、今日、明日ずっと自分は同じということなので、時間が流れるという感覚を前提にするからだ。
そうした時間の在り方については、先端物理が熱心に研究している。2019年に量子コンピューターを使った実験で「時間が逆転する現象」が初めてとらえられた。そして最先端の理論物理学を提唱するイタリアのロヴェッリは、時間という概念の存在さえ問い直そうとしている。どうやら時間とは何かが、宇宙の謎を解く鍵でもあるらしい。

時間には二通りの在り方がある。ひとつは過去、現在、未来と流れる時間だ。おなじみの原因があって結果があるという説明は、そうした流れる時間がもとになっている。
そしてもう一つは流れない時間だ。過去も現在も未来もすべてが同じ地平の上にある。ユングの言う共時性(シンクロニシティ)もこの一つとみなしてよいだろう。
さて、これから考えようとするのは、この流れる時間と流れない時間という矛盾する二つが同時にそこにあることが可能だろうかという問いだ。つまり矛盾した時間だ。