さようならオリンピック

2021年8月8日

オリンピックが終わった。
単に東京開催のオリンピックが終わったというだけでなく、近代オリンピックそのものが終わってしまった感がある。さようならオリンピック、お疲れ様、お役御免だ。
そもそもオリンピックとスポーツは反りが合わなかったのだ。そんなことを言うと、オリンピックでスポーツをせずにどうするのだといきりたつ人もいるだろうが、事実なのである。
ならば何をするのか? 遊びを見せるのだ。

ギリシャのオリンピアで行われた古代オリンピックは、神ゼウスの御前でくりひろげられる「遊戯」であった。またフットボールの起源も、中世のお祭りで行われたゲームにさかのぼる。町の住民が二手に分かれて一つの球を奪いあい、どちらが先にゴールに入れるかを競う遊びだ。ただその熱狂ぶりはすさまじく、町全体がフィールドとなって、進む側も止める側も殴り合いのとっくみあいを繰り返し、球の隠し合いなどちょっとした息抜きもありつつ、決着がつくまでに半日はかかったという。

それに対し、スポーツが始まったのは19世紀。ほんの二百年ほど前だ。
スポーツを成立させたのは、正確な時計と均質化されたフィールドだった。それによって時と場所を問わず数値化された記録を競えるようになり、普遍性を志向するスポーツが生まれたのである。
そしてスポーツは学校教育を通して急速に広まっていった。当時の教育は(今でもそうかもしれないが)良き工員や良き兵士となるための基礎を叩きこむ場であったので、スポーツがうながす身体の均質化と時計による規律化は大歓迎されたのだ。

以上がオリンピックとスポーツの歴史と本質である。だから、そもそも普遍性を志向するスポーツと祭り、そして標準記録と国別対抗戦をかけ合わせようという近代オリンピックの発想自体、無理があったと言わざるを得ないのである。
そういう意味では、今回のオリンピックにおいて“遊び”であるスケボーが脚光を浴び大人気だったことは印象深い。遊び人であるボーダーたちの国の枠を超えた連帯と祝祭感に対する熱狂的な支持は、近代オリンピックの終焉を象徴しているように見える。



余談になるが、私は学校体育による摺りこみの強烈さを日々実感している。
複数で行われる動作が揃っていないと“美しくない”と思ってしまうのである。群舞を鑑賞する際は皆の動きがきちんとシンクロしているかに目が行くし、寺の法要でも各自の所作が揃っていないとがっかりしてしまう。
だが本当は、整然と揃っているだけが美しいわけでも優れているわけでもないのだ。むしろ一糸乱れぬ動きなどつまらない、不自然だという見方だってあって良い。その証拠に歌唱におけるハーモニーはズレが生む恍惚感であって、リエゾンだけではちょっとさびしく思うだろう。
ところが小さい頃から足並みを揃えることを強要されてきたせいで、美的感覚に偏りができてしまったのである。三十年ほど前、チベット僧たちの法要を見学する機会があった。彼らの所作ときたらダラダラしているうえにてんでばらばらで、こりゃダメだと思った記憶がある。頭を均質化と規律化に毒された自分の方がよほどダメであろうに。
幕末、軍事教練を頼まれたフランスやイギリスの軍人は、日本人が行進できないことに驚いたという。それまで日本人は、皆で手足の動きを揃えて歩くなどという馬鹿げたまねなどしたことがなかったのである。
機会があれば、鳥が群れ飛ぶさまを観察して欲しい。うねるように渦を巻き一糸乱れぬ動きをしているように見えるが、必ずしもそうではない。往々にして少数のグループがちぎれてあさっての方角に分かれ飛んだり、地面に降りてしまったりするのである。それが群れを絶滅から救う安全弁にもなっているのだろう。
だからもういい加減、きちんととかちゃんととかピシッととか子どもたちに強要するのはやめてはどうか。
私は近ごろ、大相撲の千秋楽、三役揃い踏みで、三人の四股のタイミングがばらばらであればあるほど喝采を送るのである。