改めて“拝む”ことについて

2022年3月3日

私は、拝むという行為に対する意識は明治以前と以後で大きく変わったと思っています。明治維新というのは日本人が身も心も西洋人になろうとする運動だったわけですから、西洋人の意識や感覚に寄っていったわけです。
明治以前の日本人は、なんでもかんでも拝みました。朝起きればお天道様を、野に石仏があればそれが何かわからなくても拝む。神社を、田中に雷が落ちた跡に建てた祠を、しめ縄の張り巡らされた大木を拝む。
それに対し明治政府は神社合祀令を出しました。一町村一社を原則とし、小祠や淫祠を廃止・統合していったのです。その「淫祠=なんだか分からない神」という用語が本質を見事にえぐっています。なんでもかんでも拝むのはやめろと言うのです。
その結果、明治改元からちょうど百年後に生まれた私まで、見事その目論見にはまってしまったのですから恐ろしい。
私は子どものころ、年長者から「車に轢かれた猫や犬を見つけても、可哀そうだと思ってはいけない」と聞かされました。情けをかけると犬猫の怨念にとりつかれると言うのです。世は口裂け女やら地縛霊やらスプーン曲げといった心霊オカルトブーム真っ盛りでしたから、その言説はかなりのリアリティをもって頭に刻まれました。だから以降、私は轢かれた犬猫から目をそらすようになり、その習慣は坊さんになるまで続きました。だから今はせめてもの罪滅ぼしに、轢かれた猫を見つけるとタオルに包んで寺の敷地に埋葬するようにしております。
同様の心理をモチーフにしたのが、浅田次郎の小説『憑神』でしょう。淫祠を拝んだ下級武士が疫病神にとり憑かれるというお話です。これもまた、作者の意図は別として、うかつにわけの分からぬものを拝んではいけないという教訓を読者の心に残すことになりました。
それらは江戸時代とは全く違う心性です。その変化の大本が明治の西洋化にあるのです。
もちろん西洋化が全て悪いとは言いません。でもそれが、弱者から掠め取り害毒を押しつける「周辺化」を原動力とする資本主義経済において自らを優位に置くために「より速く・より強く・より効率的に」を目指して行われたことならば、再点検してみなければなりません。

西洋のように強くなろうと必死だった明治政府は、日本に欠けているのは彼らのような一神教だと考えました。そこで国家神道なるものをでっち上げた。それ以外は拝めなくしたのです。
キリスト教者にとって拝むとは、いかに純粋に唯一の神を信じているのかを表明することです。ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が被爆地長崎を訪れた際、平和祈念像は異教の偶像だという理由で平和公園に立ち寄らなかったことはご存知かと思います(平和祈念像自体が抱える問題については別の機会に述べる)。また仏式の葬儀で、弔問にいらっしゃったクリスチャンの方々が式中は外に出てしまいお焼香もなさらないこともよくあります。それは彼らの考えですから私がとやかく言うことでありません。でも、これは自分も含めてですが、八百万の思想を知り、クリスチャンでもない人が、彼らに倣うかのような心性を抱いているという点については考えてみるべきだと思います。

そこで、なんでもかんでも拝むという行為を仏教の視点から実践するとこうなるという例をあげておきます。
実を言うと、私は『法華経』というお経はいまだによく理解できていません。聖徳太子が注釈書をものされようが、道元禅師が「諸経の王」と激賞なさろうが、どうにも分からないのです。
ところが『法華経』に登場する常不軽菩薩という仏様は、心の底から尊敬、いや敬愛いや……拝んでおります。
常不軽菩薩は、誰に対してもただただ礼拝する。ののしられようが、石をぶつけられようが相手を拝む。「私はあなたを深く敬います。決して軽んじたり、見下したりしません。なぜならあなたの心の底に仏性があるからです」とおっしゃって。
臨済宗円覚寺の管長・横田南嶺老師はおっしゃいます「この人生もただ礼拝行なのだ。咲く花にも散る花にも手を合わせ、誰に会っても手を合わせる心で接する。何も得ず、何もなくさず」と。
私もそうありたいと願い、日々格闘しておるのですが……なかなか。