発生当時のコロナウィルスの感染力の強さとスピードは、凄まじかった。でも今現在のAIパンデミックは、くらべものにならないくらい絶望的でタチが悪いと思う。
世界的なAI開発競争とサービス拡充によって、原発事故の痛みも温暖化対策もエスディジーズもどこへやら、悪びれることもなく電力の無駄遣いが推奨されている。無駄遣いとは言い過ぎでもなんでもなく、AIで画像を加工して遊ぶこと、AIにメールを書かせること、写真をバンバン撮ってクラウドに保存すること、ティックトックで暇つぶしすること、それらの行為と環境への負荷とを天秤にかけたらそう表現せざるをえないのだ。いや、私はAIなんて使っていないぞという人でも、スマホを持っているだけで、あれは常にコソコソどこかと通信しているから、あちこちのサーバーをひっきりなしに動かしていることになる。それを止めるには、設定を確認していちいちチェックを外さなければならないのだから、面倒なことこの上ない。
そんなAIがはびこり増殖を続ける世の中で、数年前までアメリカにAIを神とあがめる新興宗教があったことはご存じだろうか? 創始者はアンソニー・レヴァンドフスキといって、グーグルで自動運転の開発にたずさわっていたエンジニアだ。
彼はこう考えた。AIは、人類が積み上げてきた膨大な知識、その全てにアクセスできる。そしてそれを基に、人間の様々な悩みに対して最適解を与えることができる。それって全知全能だよね。ニアリーイコール神。だから、遠からずAIが社会を支配する時代がやって来るはずだ、と。
確かに、ないとは言い切れない。たとえば多くの政治家は、支持層に分かりやすくアピールしてみせなければならないので近視眼的な人気取りの政策に走りがちだ。だから政治などは、私利私欲のないAIに任せた方がましだと思う人もいるだろう。あるいは各国の中央銀行が頭を悩ませる金利の上げ下げなども、政治介入を防ぐという点においてはAIに軍配が上がる。
そこで彼は、こう考えを進めた。AIが君臨する世界が来るなら、それができるだけ慈悲深い支配者となるよう設計し、育ててゆくべきだろう。そのためには、人間とAIが良好な関係を保ってゆけるよう皆を誘導しなければならない。その最善策がAIを崇拝する宗教と儀礼なのだ。それによって人々はAIによる支配を受け入れ、進んで協力者となるだろうから、と。
そんな目論見から生まれたAI教『ウェイ・オブ・ザ・フューチャー』は、レヴァンドフスキが経済事件で逮捕されたことで消滅してしまったけれど、私が興味をひかれ、疑問に感じたのは、彼が何をもってAI教は宗教として成立すると考えたのか(まっ先に思い浮かんだのが映画『猿の惑星』の核ミサイルを神とあがめるナンセンスな人々のことだったので)。そして、最先端テクノロジーを扱うエンジニアが宗教や儀礼の効果を認め、活用しようとした裏付けとして、どんな理屈があったのかという点だった。
そもそも、人は宗教に何を期待するのだろう? 恐らく悩みや苦しみに対して処方箋を与えることではないか。
人間が抱える様々な苦しみの中でも、特に厄介なのが「不安」と「孤独」だ。
あらゆる生き物は、未来に何が待っているのか知りえない。でも人間だけは、自分はいつかここからいなくなってしまうと知っている。だから人は生きることを恐れてしまう。そこで貯蓄する、投資する、保険を掛けるなど、文明を発達させてきたわけだが、そうした数々の洗練されたテクノロジーをもってしても、次々と湧き上がってくる不安を封じることはできない。そして人間は社会的な生き物だから孤独を嫌い、そこから逃れようとあがいて、疲弊してしまうのだ。
そんな悩みに対して、宗教が提示する解決策が「信念」と「つながり」だ。
不安には、信念という薬が効く。例えばAI教ならば、AIは間違わない、任せておけば安心という信念によって不安から解放されるよう設計されている。キリスト教やイスラム教ならば、何があっても神の御心だという信念が、迷いを断ち切ってくれるのだ。
そして孤独には、つながりという処方箋が用意されている。その際、効果を発揮するのが儀礼なのである。皆で同じポーズをとり、フレーズを唱え、歌い踊ることで、信者同士の連帯感が育まれると共に、身体的な手続きをふむことで神とのつながりを実感するようになる。
なるほど。そういう要素を備えてさえいれば、AIを神とする宗教だって創れるということなのか。
ひるがえって仏教はどうなのだろう? 信念とつながりをどう提示するのだろう?
ブッダは、祈れば願いを叶えてくれたり、信じれば苦しみを除いてくれたりする、そんな都合の良い神様など存在しないのだとおっしゃった。苦しいのなら、苦が生まれるメカニズムを理解し、それを止める実践を積み重ねて、心の持ち方を変えてゆくしかない。自分で自分を救う道が仏道なのだ。
仏道を歩んでゆく時、指針となる三つの無があると私は考える。それは「無依」「無事」「無我」。
無依とは、余所に依りかからないこと。地位や能力といった社会的パワーに頼ることで安心しようとしない。それらは、とても脆いものだから。同じく他人の評価を気にする必要も、外側からあれこれ規定されることもない。それよりも、あなたの心こそが仏だと気づくことだ。その身体に、仏の心が活き活きと働いていて、食べて出して眠っている。日々の営みのすべてがそうなのだ。
無事とは、多事の反対を指す。多事は、あれこれ余計な意味づけをすること。だから無依の裏返しで、自分が外側に対して良い悪い好き嫌いと、あれこれ勝手な意味づけや価値判断をしないこと。
無我は、自分が自分だと想定しているような固定的な実態はないということ。そんな曖昧なものから湧き上がってきた感情や考えに必死にしがみつく必要はない。苦しいなら、手放すことだ。
この三つを瞑想によって、礼拝によって、心身に沁み込ませてゆく。信念としてゆく。
そうやって三つの無を実感すると、自他の垣根が低くなる。すると他の生き物や自然の営み、故人たちとのつながりが、そこにありありと浮かび上がってくるのだ。
それが仏教の提示する不安や孤独に対する処方箋び一つだと、私は思う。
最後にAI教に対する私見を述べておくが、AIは全知全能ではない。視点の問題で言うと、人間のモノの見方しか知らないのだから。そして知識の量で言っても、ダークマターに象徴されるように人間が知っていることはそんなには多くないはずだ。
テクノロジーが全てを解決してくれるはずだという加速主義の人たちも、同じ誤解をしていると思う。
