真言宗は、仏教のジャンルでは密教に分類されます。
密教と聞くと、加持祈祷を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。炎の揺らめく護摩壇で祈りを捧げるそれです。『平家物語』にも真言密教の東寺・信済と、天台密教の延暦寺・恵亮が、皇位継承をめぐって祈祷合戦を繰り広げるシーンが登場します。対決はスリリングに展開し、最後は劣勢に立たされた恵亮が独鈷で自らの頭をかち割り、流れ出した脳髄を乳木に塗りたくって護摩を焚くという、荒業と申しますか、ほぼ黒魔術のような手を使って勝利をおさめ決着します。それが中世の人たちが密教に対して抱いていたイメージであり、そうした呪詛や雨乞いへの期待が薄れた現代でも密教系寺院では厄除け、家内安全、商売繁盛、合格祈願は盛んに行われているわけでして、その立ち位置は中世の延長線上にあるように思われます。
もちろん、祈祷が真言密教の全てではありません。ならば、ほかに何があるのか?
「……」
お恥ずかしい話ですが、私は自分が真言密教をどれくらい理解できているのか自信がないのです。もちろん学び続けてはいますが、いまだに人様に説けるレベルではありません。
それはひとえに、開祖・空海が大き過ぎるからだと思います。教義が広大で深過ぎて、奥底がどこまであるのか見当もつかない。

ただ、そうは言っても、真言宗の芸術宗教としての側面ならばビジュアル一発、響きそのもので感じ取ることができます。たとえば東寺のほの暗い講堂に足を踏み入れて、大日如来を中心とした立体曼荼羅を目のあたりにすると、そのサイズ感、並び方、陰影、表情に息をのみ、たちまちのうちに得心致します。声字実相を説く空海の澄んだ声が、脳裏を閃光の如く駆け巡るのです。
『声字実相義』は真言密教の核を構成する重要な著作で、顕教が「悟りの境地は言葉にできない」とするのに対し、空海は「言語を超えたものをコトバで語ることができる」と言い切りました。それこそが真言=大日如来が語るコトバであり、すべての存在はそこから発生する。ゆえに「存在はコトバである」と。
そうなのです。かみ砕いて要約しても難解です。ましてや原文は「五大に皆響きあり、十界に言語を具す、六塵ことごとく文字なり、法身はこれ実相なり」ですから。
ところが立体曼荼羅を見上げた瞬間、巨大で金色に輝き全てを見通すかのような大日如来の口から「ア」という声が漏れ聞こえてくるのです。存在の根源であるアの音が、たしかに。

同様のことは、最も重要な著作である『即身成仏義』についても言えます。とても難しい。即身成仏は真言密教のキャッチフレーズとも言えるのですが、その説明となると「六大無碍にして常に瑜伽なり、四種曼荼各々離れず、三密加持すれば速疾に顕る、重々帝網なるを即身と名づく、法然に薩般若を具足して、心数心王刹那に過ぎたり、各々五智無際智を具す、円鏡力のゆえに実覚智なり」なのです。
それをなんとか「三密加持によって仏と己が感応しあえば、仏と自己の身体が一になった状態が瞬時に顕れ、また心も同様で、この世の真理を見通す仏の智慧がそなわる」と解釈し、理解したとしても、どうやってそこに辿りつけばよいのかが分からない。
事実、往昔の先徳ならいざ知らず、現代で密教的体験としてそうした実覚智にたどり着けた方がどれほどいるのか、疑問に思う真言僧は少なくないはずです。
包み隠さず申せば、真言宗に欠けるのは悉知に至るための実践法と指導法です。空海没後、千二百年間、巨大な宗祖に首を垂れるのみで、たとえわずかなりとも空海に近づこうとする実践法を編んで磨くことを放棄してしまった。それは否めないと思います。
 私が、他人に真言密教を語ることができない理由もそこなのだと思いました。密教修行を通じて思いがけず降ってくる空海が説いた「何か」をどう位置づけ、他人に伝えればよいのかが見つけられずにいたのです。


 そこで私は、禅を学ぶことにしました。なぜなら真言宗と禅宗は、思想的背景に華厳経や如来蔵を持つという点では共通していますし、禅宗は子弟育成システムが非常に練られているからです。彼らは不立文字と言いながら語録、問答、公案、禅語など文字や語りにあふれ、それらを手がかりとしながら坐るという実践をします。また、明恵上人や雷斧大僧正など他宗の僧侶が禅を学んだ例にも勇気づけられました。
 私は禅寺に通って坐禅の手ほどきを受け、老師の提唱を拝聴し、一般の方々と共に坐禅合宿に参加し、そして独りで坐り続けました。すると徐々にではあるけれど、禅を補助線として空海の様々な教えが腑に落ちていったのです。

たとえば、そもそも空海の著述はどうにも分かりづらいという点。それは禅の「活句」だと見ることはできないだろうか、と思うようになりました。
これは臨済禅の育成カリキュラムですが、師家はまず弟子に活句を与えます。意味や論理に落としこめない言葉を投げかける、それが活句です。ちなみにその反対は、理屈にからめとられた言葉で「死句」と呼ばれます。活句によって、その者が社会生活の中で積み上げてきた知識や分別はことごとく否定されます。足場を失った弟子は、精神的に追いこまれる。そうしてまる裸の存在となって、問いをとことんまで問いつづけてゆくと、徐々にそしてパッと意識の変容がおこる。すると無事であること(外に求めない)に気づくという具合に修業は進みます。
空海の狙いもそこにあったのではないでしょうか。行者を追いこむために、人間語の枠に収まりきらない表現を多用する。まるで大日如来が、人間世界の言語の根源となる異次元のコトバを語るように。

また、空海の「即身成仏」が土台としたのは大乗仏教の如来蔵思想であり、それは禅も同根です。
空海より60歳ほど年長の馬祖道一を祖とする臨済禅の系譜では、「即心即仏」だと説きます。「あなたの心がそのまま仏なのだ」と。
また「作用即性」とも言います。それは「心身の働きはすべて仏性の現れなのだ」という意味です。
そして「平常無事」を旨とします。「自分の外の何かに依りかからず、そして外に対して余計な意味づけ価値判断をしない」こと。
実を言うと、空海も全てが活句だったわけではありません。平易な言葉もたくさんあります。たとえば『般若心経秘鍵』には「それ仏法ははるかにあらずして、心中にしてすなわち近し」とあります。それは「即心即仏」と重なりはしないでしょうか。また同著にある「三界は客舎のごとし。一心はこれ本居なり」という一節は、「平常無事」に通じるものを感じます。
臨済禅師はこう語りました「心と仏と衆生とは一つであると華厳は教える。仏と衆生とは心をもって一つとなる。この一心こそが一切の存在の元となる。これが心地の法だ。その一心を私たち皆が持っている。その絶大なパワーをなぜ激発させぬのか。仏も法も、まさにそこから生まれ出るのに」と。
私はおぼろげながら即身成仏への道が見えてくるような気がしました。



 とにもかくにも基本は呼吸法です。なにしろブッダは「入出息念定(正しい呼吸をすることで悟りに至れる)」とおっしゃったのですから。
 せっかくなので正しい呼吸法をご紹介しておきます。
 心を静めるための正しい呼吸の要点は二つ、静かな呼吸そして深い呼吸をすること。
一般的には、心が乱れた時に深呼吸をしましょうと勧められます。でも残念ながら心は落ちついてくれません。なぜなら深呼吸は荒い呼吸だからです。あるいは鼻で吸って口で吐きなさいと教える方もいます。でも、口呼吸は浅い呼吸なので心を静めるには不向きです。そもそも口は消化器官であって、呼吸器官ではないのですから。
というわけで、正しい呼吸は鼻呼吸かつ腹式呼吸でなければなりません。鼻で吸って鼻から吐く、そして息を吸いながらお腹をふくらませて息を吐く時お腹をへこませます。女性は腹式呼吸が苦手だとされますが、横になった状態なら自然とできるようになるので、最初は仰向けに寝た体勢で行って下さい。
正しい呼吸の要点は三つ。まっすぐな体、まっすぐな呼吸、まっすぐな心です。
では実際にやってみましょう。
1.まっすぐな体になる
仰向けに寝て、体がまっすぐになっているか確かめて下さい。
鼻とおへそ、顎とみぞおち、それがまっすぐな線に乗っているか?
その線と頭が、両肩が、両足が平行に交わっているか?
何十年たつと、どうしても人の体にはゆがみが生じます。日々の暮らしでついてしま
った身体のクセをここで整えます。
※たとえば初期大乗を代表する経典『金剛般若経』を開くと、「ブッダは両足を組んで坐
ると、身体をまっすぐに正され(rjum=正身)、精神を集中なさった」という表現が出てきます。
2.まっすぐな呼吸をする
まず鼻の頭に羽毛がついている、と想像します。
その羽毛が動かないくらい静かで細く息を吸います。一本の絹糸のような細い息をスーッとまっすぐに引いてゆきます、鼻→喉→胸→お腹へ。息を吸うと同時にお腹がドンドンふくらんでゆきます。
お腹がいっぱいにふくらんだら、今度はそれをへこませながら息を吐きます。その時も絹糸のよう細い息でまっすぐに、お腹→胸→喉→鼻へ。
鼻から吐き出す時、やはり羽毛が動かないくらい静かで細い息で。
3.まっすぐな心へ
まっすぐな呼吸を続けます。すると身体の芯にまっすぐな息の管がイメージできるようになります。その管に自分の意識をまっすぐに重ねてゆくのです。
実は意識も思っている以上にゆがんでいます。それを少しずつ少しづつ調整しながらまっすぐに直してゆきます。
そうして体、呼吸、心のまっすぐが重なっている状態が正しい呼吸です。
 なお、座位や立位では更に「立腰=仙骨を立てる」というポイントが付け加わります。

 さて、以上の正しい呼吸法を読んで、真言僧なら思うところがあるはずです。真言宗の身口意の三密を加持するとは、身は手に塔印を結び、口では鑁明を誦し、心で我は大日だと観ずることですが、身体と呼吸と心という三つをまっすぐに整えることでその下準備をすると捉えられはしませんでしょうか。



 次が礼拝行です。
 なにを今さら、加行(前段修行)で散々やらされた初歩の初歩じゃないかと思わるかもしれません。ところが、良寛は『法華経』に登場する常不軽菩薩をして「僧はただ万事はいらず。常不軽菩薩(ひたすら拝むだけの仏)の行ぞ殊勝なりける」とおっしゃっています。礼拝は基本にして、深奥なのです。
 では改めて拝むということについてお話ししましょう。
 まずは言葉の成り立ちから。
 “おがむ”という言葉は、古くは“おろがむ”と言っていたそうです。そして、おそらくそれは“おろ”と“がむ”が合わさったと考えられます。“おろ”は“おる”で、腰や膝や身体を折るの意。“がむ”は“ぐむ”で手を組む、合わせるの意。つまり“おろがむ”とは手を合わせて腰を折ること。
 次にその姿勢が意図するところを考えてみます。
拝むという行為には、いくつかの思いが込められています。ひとつは、拝む対象を敬いぬかづいて、尊崇の念を表すこと。ほかには「とむらう」という意味もあります。とむらうとは、相手を訪うて、問う(対話する)こと。また、拝み倒すという表現があるように「〇〇でありますように」とか「〇〇してください」と、自分の意思を叶えて下さいとお願いする場合も多いかもしれません。
 でも行として拝む場合は、そのどれも当てはまらいのです。そもそもブッダはこう言っています「拝めば願い事を叶えてくれる、信ずれば救われる、そんな都合の良い神様はこの世には存在しない。もしあなたが苦しいのならば、その苦しみがどこから湧いてくるのか、そのメカニズムを理解したうえで、自分の心を改善してゆく実践修行を日々続けなさい」と。礼拝行も、そうした実践修行の一つなのです。
 私は、礼拝行とは「無我」であることを実感し、心身に沁み込ませるための行だと思っています。
 無我とは我は無いと書きますが、我などというものは存在しないという意味ではなく、自分が自分だと思いこんでいるようなものは無いという意味です。
 人は誰も、自分というモノを想定しながら生きています。でも、ためしに「あなたはどんな人間ですか? 説明してください」と問われ、「私はこんな身体で、こんな性格、心です」と説明したところで、身体は日々変化します。私も間もなく六十になりますから、目が見えない、膝が、腰が、足が痛い、その日の調子で全く違います。心はもっともっと速くて、一秒一秒ごと、コロコロコロコロ変わります。そんな風に常に変化してゆく自分から湧き上がってくる様々な感情や、考え、あるいは自分そのものに必死にしがみつく必要はないのではないか。それが無我です。
 典型が、怒りの感情です。怒りとは、自分の思い通りにいかないことが起こった時、傷ついた自分を守るために、相手を非難し攻撃する理屈をならべたてることです。そうやって湧きおこった荒々しい感情を人は抱えこんでしまい、ついつい相手にぶつけてしまう。するとネガティブな塊が心に焼きついて、何日でも何か月でも、下手をすると何年でも残ってしまう。
 でも考えてみれば、傷ついた自分を守ると言っても、その自分はもうどこにもない。自分にまつわるあらゆるものが、その時とは変化している。なのに何を守ろうというのでしょう。嫌な思いを引きずるくらいなら手放してしまう方がいいのに。と言われても、実際にそうすることは難しい。そこで礼拝行の実践です。
 おろがむ、つまり腰を折る姿勢にも、手を合わせる姿勢にも、それぞれちゃんと意味があります。
 拝む時、腰を折るのは、ああしよう、こうしたいという己の意思を小さく折り畳んでしまうことの象徴です。そうして心を空っぽにしたうえで、手を合わせるように、拝む対象と心を合わせる、一つにする。
 常不軽菩薩は、笑われても、罵詈雑言を浴びせられても、石をぶつけられても、相手にほほ笑んで礼拝なさったと言います。それに倣って、怒りが湧いたらそうしてみて下さい。きっと怒りを抱えこまなくなります。それだけでなく、段々とですが拝んでいる対象の向こうに、自己を超える大きなものが感じられるようになってくるはずです。
 私は、空海の説く「三密加持によって仏と己が感応しあえば、仏と自己の身体が一になった状態が瞬時に顕れ、また心も同様で、この世の真理を見通す仏の智慧がそなわる」とは、そうした礼拝行の先にあるものなのだと思うようになりました。やはり、加行で礼拝行に励む意味はあったのです。



 そして坐禅は宗派を問わず行うべきだと思います。
 そう具申すると、真言宗にだって阿字観や月輪観などの瞑想法があるではないか、とおっしゃる方がいます。しかし、そこから悉知へと至る道筋が示され、指導法が確立されているという話を私は聞いたことがない。おそらく誰も知らないでしょう。
 かつて真言教学の高名な先生に「覚鑁の記した懴悔文に『(近ごろの真言僧は)心意散乱して坐禅せず』とあるが、それは真言僧も坐禅すべきだ、そして本来は真言僧も坐禅に励んでいた、という事実を物語っていないでしょうか」と尋ねたことがあります。するとその先生は「それは、いわゆる坐禅ではなく、真言宗の作法のついた坐禅ですから」と、お答えになった。その表情には、テコでも禅宗のような坐禅はしないという強い意志がにじみ出ており、正直たじたじとなりました。
 でも、そんなかたくなになる必要はないはずです。もし先生のおっしゃるように、当時の真言僧が禅宗とは違う形の坐禅を行っていたとしても(様々な流派の禅がありますから可能性はあります)、それが残っていない以上、別の坐禅をするしかない。偽作の可能性は高いとは言え空海の御遺告にも「深く穀味を厭い専ら坐禅す」とあるのは、やはり坐禅が真言宗においても一つの柱であったことを物語っているのですから。
 ならばどうしましょう?
 華厳宗の明恵上人は「自宗において適切な指導者がいないなら、他宗であっても優れた師について学ぶべきだ」とおっしゃって、栄西禅師に坐禅を学んだと言います。私たちもセクト主義は捨てて、坐禅修行を再開するべきです。
 足を組んで坐り、耳を澄ませる。そうして生命という働きを観ずることは、『理趣経』で展開される大日如来の目を通したホロニックな世界観にきっと通じるはずです。



 そして、決して忘れてはいけないことがあります。弘法大師が、即身成仏の先には利他があると強く念じていらっしゃった点です。
 円覚寺管長・横田南嶺老師の『延命十句観音経』の現代語訳にこうあります。
「観世音   観音様、どうか人の世の苦しみをお救いください」
「南無仏   人の苦しみを救おうとなさる、その心こそ仏様の御心であり、私たちの拠
 り所です」
「与仏有因  この仏様の心が、私たちの持って生まれた本心であり」
「与仏有縁  様々なご縁にめぐまれて、この心に気づくことができます」
「仏法僧縁  仏様と、仏様の教えと、教えを学ぶ仲間とによって」
「常楽我浄  私たちはいつの世にあっても変わることのない思いやりの心を知り、苦し
み多い中にあっても人のために尽くす楽しみを知り、この慈悲の心を持って生きること
が本当の自分であり、汚れ多き世の中で清らかな道であることを知りました」
「朝念観世音 朝に観音様を念じ」
「暮念観世音 夕に観音様を念じ」
「念々従心起 一念一念なにをするにつけても、この思いやりの心から行い」
「念々不離心 一念一念なにをするにつけても、観音様の心から離れません」

 私は「念々従心起 念々不離心」であるために即身成仏の行をするのだと思っています。