2021年2月14日

質問「お塔婆ってどんな意味があって、何のために建てるのですか?」


回答「お塔婆って何ですか?と質問されて、故人への手紙ですと答えるお坊さんが多いと聞きます。
たしかにお塔婆は表に宛名(戒名)があって裏には差出人名(施主名)がある、形式は手紙と同じです。うまい回答を考えたなと思うものの、それだけで終わらせてしまってはもったいない気がします。お塔婆には手紙的要素もありますが、実践修行の誓い及び手引きという意味合いも大きいのですから。
では、手紙的側面からお話しましょう。

塔婆は木の板棒ですから、柱の一種と見ることができます。だから塔婆を建てるとは、柱を建てるという行為と重なるのです。
そして古来より神事で重要なのは、柱を建てることでした。
諏訪大社のお祭り“オンバシラ”がまさにそれ。氏子たちが柱にまたがって急な坂を滑り落ちる“木落とし”が見せ場となっていますが、祭りの核心はそうやって長い距離を引いてきた柱を社の四方に建てることなのです。
あるいは伊勢神宮の本殿の床下には“心の御柱”という小さな柱が建っていると言われます。それこそが真の御神体で、表に見えている鏡や幣以上に大切なのだと。
柱は“はし”に通じます。橋が端と端をつなぐように社に建てた柱には天と地を、人と神をつなぐ働きが期待されるのです。
同じく塔婆を建てるという行為にはこの世と浄土、施主と故人をつなぐという意味が込められていると考えられます。確かにそれをして手紙と捉えることもできるでしょう。
ただ……お塔婆はただの板棒ではありませんよね。上部にギザギザと妙な切れ込みが入っています。あれこそがお塔婆のお塔婆たる所以なのです。という訳で、もう一つの意味については次回お話ししましょう。


2021年2月7日

安養院は三方を竹林に囲まれています。さらさらと竹の葉をゆらしながら吹き抜ける風ほど清々しいものはない。

などと風流にひたってばかりもいられません。この孟宗竹、切っても切っても生えてくる。本当に苦労しているのです。特に斜面地は厄介です。

もし、みなさんのお住まいの周りに放置竹林があったら地域で話し合ってすぐに伐採管理して下さい。竹は一度、管理を怠ると手がつけられなくなります。
どこを見ても入りこんでいない山はないというくらいはびこっている孟宗竹ですが、意外と歴史が浅いことに驚きます。
江戸中後期の風俗を記した『塵塚談』には「孟宗竹。近頃は江戸に大なる竹藪、諸所に出来たり。明和のころは、皆ひと珍しく思いし竹にてありしなり」とあります。つまりここ二百年ほどで全国を席巻した、恐ろしいまでの繁殖力を持つ植物なのです。
このままでは日本中が孟宗竹に占領されてしまいます。なんとかしなければ。


2021年1月31日

質問「墓石の脇に、埋葬者の氏名や戒名を彫った石が建っています。
   そこには“墓誌”または“墓碑”と銘打たれていますが、どう違うのですか?」

回答「墓碑が正しい名称で、墓誌と彫るのは間違いです」

理由「墓誌というのは、それが誰でどんな人物だったかを記し遺体と共に埋める石です。あの世へ持ってゆく紹介状ですね。地下に埋めるので持ち去られたり壊されたりする心配がないかわり、誰も読むことができないのが難点。
そこで皆が読めるよう地上に建てたのが墓碑なのです。だから墓石の脇に建てるなら墓碑と刻まねばならず、墓誌と刻んだなら埋めなければいけません。
土中に眠り続ける墓誌は、のちのち貴重な資料となります。たとえば2004年に西安近郊で古い墓が見つかった際、埋葬者が1300年前に36歳で亡くなった日本人留学生・井真成であることがわかったのは墓誌が一緒に掘り出されたからです。あるいは、奈良で発掘された太安万侶の墓誌によって『古事記』序文の偽書疑惑が晴れた例もあります。
そんな風にけっこう役に立つ墓誌ですが、あらゆることを中国に倣う時代が過ぎると日本ではほとんど作られなくなりました。でも墓碑はちょいちょい建てられ、そこに銘が刻まれることもしばしばでした。銘とは故人をほめたたえる韻文で、銘までついているものを墓碑銘・墓誌銘と呼びます。
銘を作ることを“銘を撰す”と言って、有名人に依頼するケースも多く見られます。夏目漱石の『吾輩は猫である』には、苦沙弥先生が親友だった曽呂崎(天然居士)の墓碑銘に頭を悩ますシーンがあります。それは初め「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食い、鼻汁を垂らす人である」だったものが推敲され「空間に生まれ、空間を究め、空間に死す。空たり間たり天然居士あぁ」に落ち着く。このように銘は他人が書きます。そりゃそうです、本人は亡くなっているのですから。
でも正岡子規は生前、自分で作っておきました。銘の最後は「……享年三十□月給四十円」と結ばれます。彼が心血を注いだ俳句研究については一切ふれていませんが、西洋のリアリズムを取り入れて江戸俳諧と決別したという短絡的な解釈をその滑稽味においてしりぞけ、病に苦しみながらも“平気で生きた”生涯が淡々とした語りに滲む名文です」


2021年1月23日

質問「仏像について教えてください」
回答「仏教の開祖である釈迦牟尼仏からお話ししましょう。臨済宗や曹洞宗など禅宗のお仏壇にご本尊としてお祀りされます。
そのお釈迦様の身体には32の特徴があったというのは有名な話。完全無欠の偏平足だったとか、舌先が髪の生え際まで届いたとか、肩まで届く超々福耳だったなどなど。その中に大直身相というのもあります。尋常でなくデカかったというのです。
そこから生まれたのが丈六という仏像の規格でした。お釈迦様の身長とされる一丈六尺に仏像の大きさを合わせようというわけです。ちなみに坐像の場合は半分の八尺で丈六とされます。
ただ、ちょっと待って下さい。一丈六尺は十六尺でしょう、一尺は30.3㎝だから、お釈迦様の身長は……485㎝ッ! さすがにそれは。そんな巨人が托鉢に回ってきたらみんな逃げますよ。
ならば、仏像は実際の倍のサイズにしたのだという説を採ると、お釈迦様の身の丈は八尺となり=242㎝か。ぎりぎりありえなくはない。ありえなくはないけれど、プロレスラーのジャイアント・シルバでさえ230㎝ですからねえ。威圧感があり過ぎて、説法もさっぱり頭に入って来ないと思うなあ。合間に舌で生え際をお舐めになるわけだし。
こうなったら発想を変えましょう。そもそも一尺=30.3㎝という換算が違うのではないか。
尺という単位の起源は、古代中国にさかのぼります。字形は、親指の先から中指の先までいっぱいに広げた様子で、その長さは古代中国人も現代日本人もたいして変わらず18㎝くらい。もともとの尺は今よりずっと短かったのです。それは多くの度量衡の単位に言えることで、次代が下るにつれ徐々に長く大きくなってゆきます。人類は技術の進歩と共に自己評価をどんどん上げていったのですね。実際、中国に仏教が伝来した後漢当時の一尺は23㎝まで伸びていました。それをもとにあらためてお釈迦様の身長を測れば8×23㎝=184㎝ということになる。普通に大きいですが、尋常でなくデカいという表現にはあたらない。けど、渡辺謙や滝田栄くらいの身長ということでまぁ良いサイズ感ではないでしょうか。うん、決定!」


2021年1月17日

質問「戒名に使う漢字について教えてください」

回答「戒名をお作りする際、どんな漢字を使おうかといつも頭を悩ませます。故人のやさしい人柄を表すためにストレートに「慈」という字にしようか、それともやわらかな光にたとえて「月」という字をあてようかといった選択だけでなく、どういう字形を採るのかという問題もあるのです。つまり「壽」と「寿」、「眞」と「真」どちらの字を使うのかということです。
決断するには単に「旧字と新字」という認識だけでは不充分で、長く深く複雑な漢字の歴史を知らなければなりません。

漢字の母国である中国の国土は広大なので、放っておくと文字はどんどん形を変えてたくさんの異体字が生まれてゆきます。そこで国家統一を果たした王朝は、度量衡と同様に文字も統一しようとします。しかし、歴代王朝でそれを実行できたのはたった三つしかありません。なぜなら正字を定めるというのは、字義や歴史的考証にくわえて彫琢され進化を続ける字形からひとつを選び出すということで、その王朝の知識と見識、財力に熱意、そして美意識を総動員して取り組まねばならない大事業だからです。
ということで、正字の歴史をふりかえってみましょう。
モノの始まりはなんでも始皇帝。最初に文字を統一した秦は「小篆」を正字としました。のちに編まれた篆書字典『説文解字』は漢字の聖典です。
次は後漢で「隷書」を正字と定めました。
最後の唐が正字としたのは「楷書」です。そして唐王朝が編纂した『干禄字書』は、「禄を干む」つまり科挙合格のために必須という意味で、楷書のスタンダード化の切り札でした。でも、この『干禄字書』には問題がありました。編纂した顔家一族には、数百年かけて進化し初唐の三大書家が完成させた楷書を『説文解字』をもとに無理やり篆書に近づけようという目論見があったのです。
そして宋代からは木版印刷の時代に入ります。使われる活字の字形は「干禄形」で、篆書風の楷書が定着しました。
さらに十八世紀の清によって編まれたのが有名な『康熙字典』です。これがまた相当に問題のある字書だったのです。『干禄』以上に『説文』化を徹底した上に、随分とおかしな改変も行われました。「来」はヒトヒト形「來」に、「者」には余計な点がつき̪、「青」は月の中が丄の「靑」に、そして二点のシンニョウが現れます。その『康煕』が、日本を含む活字の正字となってしまったのです。

こうした字形の変遷をふまえたうえで、日本の事情を考えてみましょう。
いま私たちの選択肢となる字形は「旧字」と「戦後略字」と「その他異体字」の三つに分けられますが、今回は旧字と戦後略字にしぼって考えます。
旧字は昭和三十年代くらいまで新聞や雑誌などの印刷物で使われていた漢字で、先に述べた通り『康煕字典』の字形がもとになっています。
それに対して戦後略字というのは、手書きする際の略体をもとに作られた新字形です。だれが作ったのかというと、文部省の役人と漢字を廃止しようとする勢力です。当用漢字、つまり漢字を全廃するまでの間「当分用いる」という言葉がすべてを物語っています(廃止後はローマ字、カナモジ、英語、フランス語など意見は様々)。

以下は私見ですが、問題の『康煕』がもとになっているわけですから旧字が絶対良いとは思いません。しかし、過去の王朝が厖大な労力をかけて行ってきた正字の選定を、きわめて低い見識のもと戦後のドサクサに乗じて行った戦後略字は、見るも無残な字形だとと言わざるをえません。多すぎる欠陥の一例として「教」の字をあげます。なぜ教えるという字に孝行の孝が入っているのか不思議に思うでしょう。その通り、元の字形は「敎」で左側は「孝」ではなく「メナ+子」だったのです。「敎」も「學」も「覺」も「メナ」部は「まじわる」ことを表します。その字形だからこそ、教えるのも教わるのも、学ぶのも、覚るのも全てコミュニケーションなのだと納得できるのに。
そういうわけで、ご遺族とコミュニケーションをとりながら一字一字、吟味して漢字を選んで作られるのが戒名なのです」