2021年1月10日

安養院の本堂は、先々代の時に焼失してしまいました。以来、ご本尊は仮本堂にお祀りしております。
ただ、簡素で設備も整ってはいませんが、お檀家様の暖かなお気持ちの詰まった良いお堂なのです。
たとえばお寺の本堂につきものの天蓋。インドで貴人にさしかけられる日傘が元になった仏具で、豪華な彫り物やきらびやかな装飾のついた蓋を本堂の天井から吊るします。このように→

天蓋

でも、それが安養院となると……

天蓋がなければ寂しかろうと、お檀家さんが千代紙と厚紙で作って寄贈して下さいました。
こんなに心のこもった立派な天蓋は見たことがないと、私は思っております。


2021年1月3日

質問「ちかごろ葬儀のやり方がだいぶ変わってきました。どう思いますか?……の続き」
回答「葬送法は時と共に変わってゆくものです。でも、守ってゆきたいことはあります……の続き」
理由「故人とお別れするにあたり、弔いの儀式を行うのは意味あることだと思います。
 かつて米国人のアン・リンドバーグは『日本語のサヨウナラは珍しい言葉だ。そして美しい言葉だ』と書きました。
 どこが珍しいのか? 世界中に別れの言葉はあまたあるが、だいたい三つに分類できる。➀グッドバイ=神は常にそばにいてくださいますよ➁再見・シーユー=またお会いしましょう➂フェアウェル・安寧ヒゲセヨ=お元気で、である。ところがサヨウナラ・サラバ=そうであるならば……という接続詞なのだ。まったく私たちのご先祖は何を考えていたのだろうか、“だから、けれど、それにしても”なんて接続詞で人と別れるなんて。
 では何が美しいのか? ③は別れそのものについては何も語っていない。親の肩を揉みながら元気でいてね、そんな別れとは無関係の場面でも使える言葉だ。➁は別れはふまえているもののまた会えるという希望で悲しみを打ち消そうとしている。①は神様に丸投げだ。ところがサヨウナラは、別れを正面から受け止めた上でソウデアルナラバ私はどうする……というその人の意思が入ってくる。だから美しいのだと。ふむ、なるほど。
 では、別れを受け止めた上でどうするのか? ひとつの方法が弔いではないでしょうか。“とむらふ”は二つの“とふ”が合わさって出来たと言われます。故人の元を訪いお会いする。そして故人に問いかけ対話する。そして故人から聞いた話を一つの物語りとして作り上げる。それが弔いです。
 人間には物語が必要です。物語がなければ人は恋愛することも喧嘩することもできない。人は物語によって流儀を学び、かようにも面倒くさい恋愛や喧嘩をするようになる。日本では『源氏物語』が珍重されてきました。それはきっとあの本が、出会いの物語りであり別れの物語りだったからでしょう。人はこうして出会い別れるのだとみんな学んだのではないでしょうか。
 だから物語を聞き作り上げる大事な機会である弔いの儀式は、今後も守ってゆきたいと思うのです」


2020年12月27日

質問「ちかごろ葬儀のやり方がだいぶ変わってきました。どう思いますか?」

回答「葬送法は時と共に変わってゆくものです。でも、守ってゆきたいことはあります」

理由「例えばお墓の形式は、世につれどんどん変化します。
 古来より、土葬が多かったこともあって、個人ごとに埋葬しその塚の上に塔婆や石碑を立てる形が一般的でした。それは明治時代まで踏襲されます。例えば正岡子規のお墓は、真ん中に子規の細い石碑が立ち、その左手にお母さんの細い碑が、右手に妹と郷里より移した先祖を祀る碑と、三本の石碑が並んで立っています。
 その後、大正時代くらいから“○○家の墓”と刻んだひと棹の下に家族が眠る形が流行し、現代に至ります。
 最近は“樹木葬”といって石の代わりに樹を植える形が広まってきましたが、実は大変に古い形がリバイバルしたと見ることもできるのです。奈良時代の律令に“これ以降、塚に樹を植えてはならない”という変てこな法律が出てきます。というのも、日本でも中国でも大昔は樹木葬が一般的だったからです。
 同じく葬送法も変わります。例えば現在の葬儀では棺をお花でいっぱいにする“お花入れ”という儀式を行いますが、それが始まったのが明治時代。先ほどの正岡子規は随筆に書いています、郷里の松山では座棺(座って入る棺)で、中の遺体が動かぬようおが屑を入れた紙袋をすき間に詰めたと。ところが東京に出て友人の葬儀に立ち会ってみると、おが屑の代わりに樒を詰めた紙袋だった。さすが東京はあか抜けたことをする、と感心しています。それから二十年ほどたって夏目漱石が知人の葬儀に出た際は、寝棺(現代の寝て収まる棺)の中に菊を供えたとあります。そして「有る程の菊投げ入れよ棺の中」と詠みました。西洋の風習を真似たお花入れのはしりですね。
 ただそれとても、五万年ほど遡ったネアンデルタール人は埋葬した遺体の脇に花を供えていたそうですから、古い古い形が復活したと見ることもできなくはないでしょう。
 このように葬送法は時と共に変わります。でも変えずに守りたいこともある。そのお話はまた次回」


2020年12月21日

質問「数え年って“満年齢に、お母さんのお腹の中にいた一年を足したもの”だって聞きました。本当ですか?」

回答「明らかな間違いです!」

理由「日本に満年齢が入ってきたのは明治時代、欧米で用いていた太陽暦と共にです。
ということは、千年以上前から使ってきた数え年の中に、明治になって入って来た満年齢の概念が入っているなんておかしいですよね? 満年齢に一歳を足すだなんて。
満年齢は誕生日ごとに歳を取りますが、日本で使っていた太陰太陽暦ではその誕生日というやつが厄介な存在だったのです。
太陰太陽暦は約三年に一度は閏月がありますし、何月が大の月(30日)で小の月(29日)なのかも毎年ランダムに変わりました。だから月末に生まれた人などは、いったい何年後に誕生日が来るのやら、それすらおぼつかなかった。そんなわけであまり誕生日を意識することがなく、新年を迎える際みんな一緒に歳を取るというイメージでした。そういう暦の制約と、モノは一からかぞえ始めるという慣習から(リンゴがゼロ個あるとは言わない。それは無いと言う。だから生まれているのにゼロ歳なんて道理に合わないという考え)必然的に数え年になったというわけです。
数え年とは、その人が過ごした年を全部数えます。令和元年12月31日の生まれなら、過ごしたのがたとえ一日だとしても令和元年からカウントします。
あぁそうでした、亡くなった方の数え年ですが、満年齢と比較した場合“亡くなった年に誕生日が過ぎている方は満年齢+一年(満年齢ではゼロ歳としてかぞえない生まれた年を加える)”となり“亡くなった年に誕生日が来ていない方は満年齢+二年(生まれた年と、満年齢では誕生日が来ていないということで切り捨ててしまう亡くなった年を加える)”となります」


2020年12月15日

質問「お位牌の裏側に故人の年齢が書いてあるけど『享年とあるなら満年齢が、行年ならば数え年が記してある』と聞きました。本当ですか?」
回答「まったく根拠のない言説です」
理由「享年は年を享ける(授かる)という意味です。仏教界隈で使う行年の由来は、残念ながらよく分かっていません。ただ、どちらも古くから中国で使われてきた故人の年齢を表す言葉です。
中国や日本では、モノは一からかぞえ始めるという原則と太陰太陽暦の制約から、年齢は数え年でかぞえてきました。だから享年も行年も当然、数え年でした。
それが日本では明治時代、西洋化の一環として役所で満年齢を使い始めます。でも庶民はまだまだ数えの方がしっくりきたらしく、小学校に上がる年齢を“七つゆき”“八つゆき”などとわざわざ数えに換算していました。
日本で満年齢が定着したのは、敗戦後の昭和二十五年に『公文書では満年齢を使う』と法律に定められてからのことです。
それ以降、行年として満年齢を適用するお寺がパラパラと出だします。仏教界全体で何か取り決めをしたわけではないので、それぞれのお寺の判断で行いました。だから現在では数えを使う寺と満を使う寺が半々くらいと、非常に混乱した状況にあります。
一方、新聞やテレビなどのマスコミも享年に満年齢を適用するようになります。ただし、やはり明確なルールがある訳ではなく、新潮文庫を開くと夏目漱石は『享年・数え』で川端康成は『享年・満』で記載しています。そこで、亡くなったのが戦前か戦後かで分ける方針なのか?と尋ねたところ、『特に規定はなく、出版物ごとに編集者が決めている。過去に数えで記載した人物を今後、満に改める可能性もある』との回答で、仏教界と同じくテキトーであることが露呈しました。
そのようにどこもかしこも混乱した状況なので“享年は満、行年は数え”という謎の言説が入りこむ余地が生まれたものと推察しますが、そこになんの根拠もないことはお判りいただけたかと思います」