真言宗豊山派安養院(栃木県栃木市の寺院)

2024年7月12日

第13回自句自賛 ― 家に居ながら海外の句を詠むことはできるのか


【課題】 「本日の季語・夜長」……立秋をさかいに短夜から夜長へ


【俳句ルールへのぼやき】
 岸本葉子さんがおっしゃった「季語に導かれるようにして、記憶の底に眠っていた体験、あるいはその中の一場面や事物がよみがえり、詩情が生まれ、それを十七音にまとめる。そうした試みは、一度しかない人生を二度、三度生きるようなことではないか」という言葉に背中を押されて、僕は句作を始めた。
 年齢的にもいいタイミングだった。人生はとうに半分以上が過ぎて、日々あっちが痛いこっちが動かないとなる体で、フットワーク軽く色んな所へ出かけてゆき新たな経験を積むことはむずかしい。でも頭の中で、思い出を旅して記憶の断片や感情のかけらを拾い集め、ためつすがめつすることならできる。それを句にすることが、いま・ここに湧き上がる感動を詠んだり、実景をそのまま写し取ったりする方法より劣るとは、僕は思わない。それぞれの句作法にそれぞれの意味があるのだと思う。
 そのむかし、上嶋鬼貫という俳人が紀行文をでっちあげた。家に居ながらにして、大阪から江戸へ下る十三日間の旅日記を創作してしまったのだ。まあ、でっちあげたと言っても、タイトルが『禁足旅記(きんそくのたびのき)』(禁足とは、外出や旅行を禁じてひと所に留めおくこと)なので、はなからネタばらししてるんだけど。おまけにすべてが空想というわけではなく、四年前に東海道を旅した経験と名所ガイド本を参照して書かれたものと思われる。
 本人は禁足の理由を、老いた両親がいるからと述べているが、どうだろう。事実、翌年に父親は亡くなっているものの、鬼貫は三男坊で惣領息子ではないし、それまでもそれ以降も、かなり自由にあっちへ行ったりこっちに住んだりしているのだし。やはり「こしかた見つくしたる所々、居ながら再廻のまなこをおよぼし」こそがこの本の眼目であり、架空の旅日記というアイディアの源なんじゃないだろうか。先ほどの人生を二度、三度生きるのとおなじ手法だ。
『旅記』は、地の文章の合間に発句が詠みこまるスタイルで、芭蕉の『おくのほそ道』と似ている。で、刊行されたのは『ほそ道』が書き上がる四年前だ。ならば芭蕉が鬼貫をまねたのかと言うと、そうじゃないんだよなあ。
 鬼貫は、かなり変な人だ。蕪村が重要な俳人を数えて五本指の一人とし、大祇が「東の芭蕉、西の鬼貫」とベタ褒めしたことで、世間的評価は高いけれど、当の蕪村が言う通り「世に伝る句まれ」なのである。有名な句や良い句は、ちょっとだけ。ゴメンなさい、でもほんとのことだから。明らかに作られた評判、盛られた評価なんだもの。じゃあ、なんでそんなことになったのか。
 鬼貫は、摂津伊丹に酒の蔵元の三男として生まれた。ちなみに芭蕉より十七下だ。
 八歳から俳句を始め、二十歳ごろから句集を出すようになる。二十四歳のとき地元の俳諧仲間と編んだ本のタイトルが『かやうに候ものハA・B・鬼貫にて候(AとBは仲間の俳号)』だから、インディーズバンドが『鬼貫参上!』みたいな、こっちが赤面してしまうようなタイトルのレコードを自主製作して悦に入っているところを想像すればいいだろう。
 そんな夢見る若者が親の説得にあうのは、今も昔も変わらない。おそらく、いっぱしの俳諧師気取りの鬼貫に、父親が「音楽で飯が食えるなんてのは一握りだ。まかりまちがって売れたとしても一瞬。人生は長いぞ」とでも諭したのだろう。二十五歳の鬼貫は、学問をしに大阪に出る。そこで二年ほど医術を学んだとも、ソロバン術を身につけたとも言われる。
以来、七十八歳で亡くなるまでのあいだに四たび大名家に仕官しているので、鬼貫は“士”だったとされるが、仕官先をそれぞれ二年・四年・四年・長く見積もっても六年、といった期間で辞めている。クビになった可能性も否定できない。だから士分だったのは、人生の五分の一ほどなのだ。
 注目すべきは、二度目の仕官のさなか人を殺めていること。狼藉をはたらく家来を咎めたら、向こうが刀を抜いてきたので一刀のもとに斬り倒した、という本人談が残っている。うーん。はたして剣術の腕前がそこまであったのかはさておき、家来をお手打ちにして、それを自慢げに吹聴するって……。いざ士になってみると、なんだろうこの高揚感は。自尊心が満たされると同時に特権意識が芽生える。そして武士らしくあらねばという強迫観念から、行き過ぎたふるまいに出てしまう。そんなことを想像してしまうのだが。
 士をやったりやらなかったりしながら、生涯句作に励んだ鬼貫、その人物としての特徴はふたつある。ひとつは、ものすごい“自慢しい”だったこと。
 先ほどの一太刀で切り倒した話もそうだけれど、まだ二十歳の駆け出し俳諧師だったころ、西山宗因という斯界の大ボスから「そなたは、ゆくゆく天下に名を知られん人ぞ」と予言されたと、七十七歳のときに語っている。宗因といえば、当時大スターだ。あの芭蕉でさえ、若いころ一度だけ句会に加わることができたくらいで、鼻もひっかけてもらえなかった。なのに鬼貫は激賞?
 おまけに「芭蕉? おぉあいつはな、俺の詠んだ句で開眼したのさ。どんな句かって? おほんっ“おもしろさ急には見えぬ薄哉”。良い句だろう」と本人が吹いていたという証言が、死後刊行された句集にある。その句で蕉風開眼という話が本当だとしたら、いんな意味で俳句の歴史が変わる。
 で、ふたつめの特徴だ。もうおわかりのように“やたら芭蕉にからみたがる”という点。もう芭蕉癖(マニア)と呼んでいいレベルで。
 先の『旅記』は、脱稿から刊行までを二ヶ月で終えている。かなりのスピード出版だが、急いだのにはわけがある。
 『旅記』が出たのが、元禄三年の十二月。その前年、ほそ道の旅を終えた芭蕉は、故郷の伊賀上野と行ったり来たりしながら義仲寺で年を越し、元禄三年は春から夏にかけて石山寺にほど近い国分山の庵にとどまって『幻住庵記』を執筆していた。
 その芭蕉に、どうしても『旅記』を読んで欲しかったのだ。作中こんな箇所がある。
「この所(兼平塚)より道を右にのぼりて、
       “石山のいしの形もや秋の月”
    もどりに芭蕉がいほりにたづねて、
       “我に喰せ椎の木もあり夏木立”  」
 これを読んだ芭蕉は(きっと読んだはずだ)、ぞっとしたに違いない。
 「石山の……」という句は、この四年後に完成する『ほそ道』の那谷寺の条に見える「石山の石より白し秋の風」という句の変奏だし、「我に……」という句にいたっては、妄想の中で幻住庵を訪ねた鬼貫が、翌年に出るはずの『猿蓑』に初出する「先たのむ椎の木も有夏木立」をもじって詠んだというしろもの。その内容ときたら、芭蕉の句が「才能も財産もなく、旅に疲れたわが身だけれど、ここに頼もしい一本の椎の木と、涼を与えてくれる夏木立がある」といったところなのに、「その椎の木ですけど、もう秋ですからね、うふふっ、どっさり実をつけたんじゃないすか? せっかくですから、ごちそうになりますかな。いただきやーすっ」なのだ。
「おまえ、誰やねん」
 芭蕉はそうつぶやいて、そっと本を閉じ、こわごわ部屋の隅に放って、手を洗いにたったにちがいない。
 どうやら鬼貫は、芭蕉が詠み溜めた発句や執筆中の俳文の内容を、之道という芭蕉のところに出入りしていた友人から入手したようだ。それをもとに『旅記』を書きあげ、得意満面だった鬼貫。どれだけ芭蕉に褒めてもらいたかったか。芭蕉先生の『ほそ道』は実際の行脚をもとにした紀行文になるみたいだけど、僕のは趣向を変えて妄想旅日記なんです。そりゃあ、他人の真似をして満足するような凡才じゃありませんからね、僕は。もちろん、先生へのリスペクトは絶対です。だって、先生のことならなんでも知ってるんだもの。未発表の句も、どこで何をしているのかも。って怖いわっ!
 鬼貫は自身の著作の中で、しばしば芭蕉について熱心に語っているらしいが、芭蕉の側から鬼貫について語られたことはただの一度もない。そりゃそうでしょう。そっとしておくのが一番だもの。
 と、かなり問題ある人だった可能性もあるが、鬼貫はこと俳句に関しては生涯、真剣に向き合い、工夫を怠らなかった。その事実は声を大にして言いたい。きっと、そうした真摯な姿勢や誠実な俳句論が後進らを励まし尻を叩いてきたからこそ、いまの評価があるのだと思う。やはり、大先達の一人なのである。
 そこで僕も鬼貫先生にならって、むかし旅した記憶を呼び起こして句を詠んでみようと思う。そうだな、どうせならもう四半世紀もしていない海外旅行を題材にしよう。
 考えてみれば、海外吟ってむずかしい。気候がちがうから、日本の風土に育まれた季語がマッチしにくい気がする。なにより、見るもの聞くもの刺激だらけの海外旅行中に、のんきに俳句を詠む余裕のある人なんているだろうか。まあ船旅なんてのは、のんびりしているから出来そうだけど。そうか船旅か。
 逆巻く波をのり越えて、海外吟に挑戦しよう。


【俳句】   「夜長、星四(し)千年(せんねん)流す長江」


【句の背景あれやこれや】
 二十一世紀に入ってまもなく、僕は中国を旅した。三峡下りを体験しに行ったのである。重慶でクルーズ船に乗りこみ宜昌まで、三日三晩かけて長江を行くのだ。
 思いきってチケットを取ったわけは、三峡ダムができると聞いたからだ。長江をせき止めて、世界最大の水力発電所を建設するのだとか。完成したら上流の水位が上がって、多くの文化遺産が水没し、景観も変わってしまう。そうなる前に、本来の姿を見ておきたいと思った。
 船はイメージしていたよりもずっと古く、思っていたよりゆっくりと大河を下った。流れるほどの速度だ。
夜も更けてラウンジの灯りも落ちたころ、甲板へ出てみる。年季の入ったエンジンのゴロンゴロンといううなり声が響き、秋気が頬をなでる。
 と、墨絵のように真っ黒な峡谷の裂け目に、星が光った。見上げれば満天の星だ。そうか。李白が、杜甫が、劉備が、陸遜がこの河を下ったのか。にわかに実感したのは、昔のままの空と山と河しか見えぬ闇夜だったからだろう。
 たぶん白帝城へ向かうときだったと記憶している。クルーズ船から木造の小舟に乗り換えて、支流に入った。渓流の両岸は切り立ち、まだ緑もみずみずしい木々の向こうに澄んだ青空が見える。
やがて小舟は綱をかけられ、河原を歩く男たちに曳かれて、流れをさかのぼり始めた。話でしか聞いたことのない曳き舟を、ここで体験できるとは。鬼貫先生も、こうして大阪八軒家から伏見まで淀川を上ったのだ。頭の中だけど。
 遡上が終わり向きを変えた舳先に、ふたたび船頭が立って竿をふるうと、船は気持ち良くすべりだした。と、一陣の風がおこり、船頭の麦わら帽が飛ばされる。帽子は尾を引いて川面を飛ぶ。水に落ちる寸前、最後尾に座っていた僕がそれをつかまえた。手元にもどった帽子を、船頭は何事もなかったかのようにかぶり、また水底を竿でついた。そのとき僕は、渓流が本当に澄んで清らかなことに気づいた。なんときれいな水だろう。
 そのとき訪れた史跡、町、景勝、どれも印象深いが、なににもまして長江を下ったこと自体がすばらしい体験だった。
 ただ途中、うち捨てられた町をいくつも見た。無人の廃墟だ。あるいは、まさに引っ越しの最中という村もあった。ダムによって沈んでしまう両岸の人たちが、移住させられているのだ。水に飲みこまれる高さにある文化財や史跡を移動する現場も目にした。経済発展のためにはエネルギーがいる。それはわかるけれど。
 その後、三峡ダムは無事完成し、長江流域の景観は一変した。


【弁解あるいは激賞】
 この句は「夜長、」と始まるが、単に“秋の夜長に”とだけ言っているわけではない。“人生は無明長夜である”ことも指し示しているのだ。
 ただ、無明の人間社会は絶えず騒乱・動乱にみまわれ、混乱におちいるけれども、小室直樹先生が「世が乱れると、人が輝く」とおっしゃったとおり、それを乗り越えて人は生きる。混乱の極みと言うべき三国鼎立時代に、綺羅星のごとき英雄たちが現れ躍動したように。地獄と化したガザで、パレスチナ人を救おうと命懸けで尽力する方々が途切れぬように。
 だから句意はこうなる。
秋の夜長、数えきれぬほどの星影が長江を流れて行く。その悠々たる大河は四千年にわたり、無明長夜に輝く星のような英雄や詩人たちを運んできたのだ。

 おことわりしておくが、ここはシセンネンであって、けっしてヨンセンネンと読んではいけない。
 日本語の数のかぞえかたには二系統ある。ひとつは和語の「ひ、ふ、み、よ、い、む、なな、や、ここのつ、とう」。もうひとつは中国語がもとになった「イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、ク、ジュウ」だ。
 その使い分けだが、数える対象が和語ならば和語の数詞「ひ、ふ……」を使い、字音語や硬い響きの言葉は漢語系の「イチ、ニ……」でかぞえる。
 ではどうやって和語か字音語か見分けるのかというと、その言葉が訓読みなら和語で、音読みなら字音語なのだ。
 たとえば“度”を訓読みで“たび”と読めば、「ひとたび、ふたたび、みたび、よたび……」となり、音読みで“ド”と読むと、「イチド、ニド、サンド……」という具合だ。
 ちょっと待って、その説明は怪しいぞ。「サンド」のあとも続けてみなよ、「シド」なんて言わないじゃないか、と思われるかもしれない。
 ところがどっこい、真言宗の行者が最初にする修行は四度加行と書いて「シドケギョウ」と読むのだ。つづけて「シド、ゴド、ロクド、シチド……」。シチドも違和感を覚えるかもしれないが、上方落語に「七度狐(シチドギツネ)」という噺がある。「シチド、ハチド、クド(三々九度のクドだ)、ジュウド」でおしまい。
 で、いま問題にしている「千年」だが、“ちとせ”ではなく“センネン”なのだから、漢語系で「シセンネン」とかぞえねばならない。だいたい「センエン、ニセンエン、サンゼンエン、ひとつとばしてゴセンエン、ロクセンエン……」なのに、四だけ「よんせんえん」と和語にするほうがおかしいでしょう。だから本来は、あるいは正しくは、中国よんせんねんの歴史ではなく、中国シセンネンの歴史なのです。
 もちろん言葉は時代とともに変わる。昭和天皇は玉音放送で「米英支蘇四国(しこく)に対し……」と言ったが、タモリの往年のネタは「四ヶ国(よんかこく)麻雀」だ。明治まで銀座四丁目という町名表示は「GINZA SICHOME」とローマ字ルビをふられたけれど、志村けんが歌ったのは「東村山よんちょうめ」。謡曲小袖蘇我では「時しもころは建久四年(しねん)」と発音しても、小学館の学習雑誌は「小学四年(よねん)生」だ。それはそれでかまわない。
 でもこれからも、小袖蘇我が「建久よねん」と謡われることはないし、四度加行が「よどけぎょう」になることはない。それとおなじく文語表現の力を借り、ゆかしい季語を使う俳句においては、昔ながらの発音は揺らがず守るべきところなのではないだろうか。


2024年7月4日

第12回自句自賛 ― えっ、これが季語じゃないの?


【課題】 「本日の季語・蠍座」……これから蠍座は夏の季語とします


【俳句ルールへのぼやき】
 歳時記をひくと、季節ごとに「時候」「行事」「動植物」とならぶ中に「天文」という項目がある。昼夜様々な空の景色を季語としているのだ。たとえば夏の「天文」には“油照”“夕立”“虹”“西日”“夕焼”などが挙げられている。ところが「天文」と聞いてまっ先に浮かぶはずの星座や星の名前は、ひとつも記載されていないのである。まっ先に浮かぶか? という疑問には、とりあうつもりはありません。なんせ、中学生のとき天文部に所属していた僕がそう言うのですから。
 「天文」夏の部に、かろうじて“夏の月”や“夏の星”あるいは“旱星”はあるものの、熱帯夜に空へ這いのぼる“蠍座”も、みんな大好き“織姫”ヴェガや“彦星”アルタイルさえものっていないって、おかしくないですか?
 季語として認めない理由は、「冬の星座とされるオリオンも夏の明け方には東の空に昇ってきてしまうから」らしいが、まったく理由になっていない。“ラグビー”のリーグワンは五月上旬まで試合をしているし、グリコカフェ“ゼリー”は通年食べるけれど、それぞれ冬と夏の季語にしているじゃないですか。“朝焼”も“夕焼”も一年中見られるけれど、夏の季語としているじゃないですか。それが社会的認知というものだから、それはそれでかまわないと僕も思います。ただそういうことならば、一般的な感覚として、日没を待って空に昇り深夜に沖天にある星をその季節の星とみなしているのだから、獅子座は春、蠍座は夏、オリオン座は冬でなんの問題もないでしょう。それに世界共通で、かの星があの方角から昇ったらこの季節が訪れるというふうに、特定の星が季節を指し示す役を担ってきたことは事実です。なのに、俳句界はどうして星や星座名を季語とすることを拒否し続けるのか?
 もやもやした気持ちでネット検索をかけると、俳人・橋本多佳子が“オリオン”と“天狼(シリウス)”を季語に認定してたという情報がヒットして、僕は小躍りした。『橋本多佳子全句集』の季語索引にあるというのだ。
 ところが手元にあったそれを開いて脱力してしまった。たしかにオリオンと天狼はそこに記載されている。だが、この索引は多佳子自身の手によるものではなく、おそらく版元の角川の編集者が分類整理したものだろう。その証拠に多佳子は、オリオンも天狼も季語とは考えていない。オリオンの入った句は七つあって、それぞれ“冬の”“新年”“苅田”“修二会”“野火”“露”“除夜”という季語と共に詠まれているし、天狼が登場する二句も“山焼き”修二会“という季語がきっちり入っている。考えてみれば、あんな厳しい師匠・山口誓子にさからってまで星座を季語とする義理は多佳子にはないのである。
 誓子は、かなりの星好きだった。天文随筆家の野尻抱影と『星戀』なる共著を出版したほどの天文ファンなのである。だが、こと星座は季語としないという不文律に関しては、ごりごりの守旧派だった。だから、盟友であるはずの抱影が『図説俳句大歳時記』の天文の項の監修にかかわった際、“オリオン”“天狼”“すばる”を季語とした(さすが先生!)にもかかわらず、誓子がそれを是とした記録は残っていない。そして抱影にならって旧弊を正そうという動きも、ついぞ俳句界には起こらなかったのである。なんとかたくなな人たちだろう。

 ところで、そもそも季語は誰が選んでいるのか。歳時記の編集者である。で、その任にあたるのは俳人や文学者だとされるが、実際のところはどこの誰なのかよくわからない。本来なら、見識と美意識とをそなえた選考委員を選び、オープンな会議を開いて、取捨選択の理由を添えて選考結果を発表するくらいのことをしたってバチは当たらないだろうに。
 それはそれとして。新しい言葉が季語として認められるには、その言葉を使ったすぐれた俳句作品が広く知られることが不可欠だとされる。ならば僕が一肌脱ぎましょう。手始めに“蠍座”を詠んで夏の季語としたい。なぜ蠍座かって? 僕の誕生日が十一月だからです。
 蠍座は俳句ではあまりお目にかからないけれど、漢詩ではときおり題材にされてきた。
たとえば劉兎錫が白楽天に送った「天静かにして火星流(くだ)る 蛩(こおろぎ)響(な)きて偏(ひとえ)に井に依り」という詩はどうだろう。「火星」は蠍座のアンタレスで、「流る」は秋になって西へ下った様だ。
 また作者不詳だが「天高うして気象秋なり 海隅雲漢転じ 江畔火星流る」というのもある。海に天の川(雲漢)がそそぎこみ長江にアンタレスが落ちかかる、上海にほど近い潤州の夜景を描いている。
 このように漢詩の世界では、蠍座が西に傾いたら秋がやって来るというのがお約束なのである。ということは、アンタレスが高くにあるうちは夏も盛り、そんな感覚は日本も中国も共通しているのである。
 では新しい季語とするべく蠍座で一句。


【俳句】   「蠍座(さそり)天へ鯨のごとき島を釣る」


【句の背景あれやこれや】
 三十年ほど前のことだ。お盆休みに丹後伊根町の知人宅を訪ねた。知人宅と言っても、ただの家ではない。舟屋だったのである。二階建て家屋の下半分が海につかっていて、そこには船が収まっており、いつでも漕ぎ出せるようになっている例のあれだ。
 夕方、一緒にお墓参りへ出かけた。古びた共同墓地は、遠く海を見はるかす丘の上にあって、夕間暮れの沖には、たくさんの電球をまばゆいばかりに灯したイカ釣り舟が数隻、網を下ろしていた。あの夕照と電球の光は、いまでも脳裏に輝いている。
 日は暮れて、家人の歓待を受けた僕は、少しは遠慮すればいいのに、たらふく呑んで食べて、いつの間にか眠りこけてしまい、深夜に目が覚めるという失態を演じてしまった。とにかく、のどが渇いてしかたない。でも、深夜に台所へ行ってごそごそするのは気がひける。そこで、ジュースの自動販売機を求めて外へ出ることにした。
 海辺の町はまっくらで、見上げると星がぴかぴかまたたいている。
 うへえ、天の川ってあんなにくっきり見えるのかとあきれるほどに。
 そのとき、あるかないかの波が舟屋を洗って、ちゃぷんと音をたてたのである。

  「夏銀河とぷん舟屋を漱ぎしか」

 船着き場まで行ってみようと思った。そこなら販売機がありそうな気がしたのである。
 川瀬巴水の版画のような藍色の空に黒々と沈む大地。星明りの道をたどる自分が、だんだんと昔ばなしの中の人物のように思えてくる。
 船着き場に着いた。生ぬるいけれども頬に風を感じる。その風がやって来る沖に目をやりギョッとした。
 まんまるい鯨のような島影が、ヌッと海から浮かびあがったように見えたからだ。
 そしてその上には、巨大な弧を描く釣針が輝いていたのである。
 ポリネシアではマウイがニュージーランドを釣り上げた針だとされ、瀬戸内では魚(うお)釣り星あるいは鯛釣り星と呼ばれる蠍座。でも伊根では、鯨釣り星以外の名前はまず考えられない。ひとりうなずいた夜だった。


【弁解あるいは激賞】
 俳句は「てにおは」が大事だ。情報伝達の面からも、句から受ける印象の面からも。当句でいうと「天に」とするか「天へ」とするか。
 どっちでもいいように思うかもしれないが、「に」だと「天に昇って」の意味と「天にあって」の二つの可能性が出てきてしまう。でも「へ」なら「天へ昇って」に限定されるので、夜天をめぐる星々の動きを詠まんとする作者の意図が明確になるのである。


2024年6月25日

第11回自句自賛 ― やっぱり俳句で爆笑は取れないのか?


【課題】 「本日の季語・蛸」……蛸は夏の季語でよいのだろうか


【俳句ルールへのぼやき】
 ルールその二、俳句はまじめに詠まなければならない。
 それは重々承知しておるつもりですが……。
 前回、まじめに笑いをとりにいったにもかかわらず苦笑い止まりだったことが、どうにも不本意でしかたない。やっぱり爆笑を取らないと、笑わせたことにはならないと思う。というわけで、もう一度だけ無謀なチャレンジを許して欲しい。
 まあ、そうして無茶しようとするからには、秘策がないわけでもない。コメディとホラーは紙一重という理論を利用しようと思うのだ。
 一見、笑いと恐怖は対極にあるように思える。ところが両者は、構造が驚くほど似ているのである。
まず笑いは、緊張が緩和することによって生まれる。テンションをかけられた空気が、ボケることで緩み、プッと吹き出してしまうのだ。ならばボケとは何かと言うと、意外性なのである。こう来るだろうとふんでいたら、あさっての方角から来たみたいに。
 では恐怖はどうか。それは緊張の高まったところで、異常な何かがドーンと現れることで精神がザワつくことだ。異常な何かというくらいだから、ボケと同様、常識を外れれば外れるほど、意外性があればあるほど怖さは増す。ただし、あまりに逸脱の度が過ぎると、怖さを通り越して笑いに変わってしまうから匙加減が難しい。たとえばサム・ライミ監督の『スペル』のように、受難者であるはずの女性が、あまりに不屈のメンタルを持ち闘争心むき出しで屈強だと、もろコメディになってしまうのである。
 そこらへんに注意しつつ、笑いと恐怖がない交ぜになった爆笑句を詠んでみようと思う。

 それはそれとして、季語への疑問を。今回のように具体的な生物でありブツである季語の場合、季語認定者が想定するモノや過去の俳人が詠んだそれと、現時点で詠みこまれたモノとの間に重大なズレが生じるケースが、近年特にありはしないだろうか。
 たとえば“韮”はどうだろう。春の季語のニラだ。実家ではよく、包丁片手に庭先に出てニラを刈り、卵でとじて吸い物にしたが、取れたてだから香り豊かで、食欲がないときでもスッと口に入った。でもそうして香りが強いわりに舌触りはやわらかで、胃腸にやさしく感じたものだ。
 ところがここ二十年で、商品としてのニラはまったくの別物になってしまったのである。全然、嚙み切れないのだ。そうしていつまでも繊維が残る理由は、おそらくF1種だからだと僕はふんでいる。かつて加藤秋邨は「忘れんや韮噛んでわかれゆきし日を」と詠んだらしいが、もしこれが昨日今日作られた句なら、秋邨はニラをずーっと噛み続け、それでも噛み切れず、夜になってあきらめてペッと吐き出したということになるだろう。ある意味、忘れ得ぬ記憶かもしれないが、句のおもむき、味わいは決定的に変わってくるのではないか。
 おなじことが蛸にも言える。現在、日本で消費される蛸の六割は輸入品で、はるばるモロッコあたりから来たものなのである。それを蛸あるいは章魚と表記してこれは夏の季語です、と平気な顔で言ってよいものやら。
 なにも国産品でなきゃ食わないぞとか、現代農業はなっとらんということではなく、いま少し季語とされるモノの中身の変化と、そのことによる共通イメージの変容に敏感になって、それらを通して社会のありかたを考えることも大事なんじゃないのかと思うのだ。初学の者だからこその正直な感想である。
 と、大上段に振りかぶったあとで非常に気まずいけれどもしかたない、爆笑句を詠みましょう。


【俳句】   「歯に海苔が、教える君の歯にタコが」


【句の背景あれやこれや】
 ひとに、あやまちや不都合な事実をしらせることは難しい。僕は苦手だし、大多数の人もそうなんじゃないだろうか。
 その証拠に、スカートの片方がパンストに挟まって半分お尻が見えている女性をたまに目撃することがあるけれど、みんな見て見ぬふりをするのだ。きっと、その人があわててトイレに駆けこんだところや、その後の顛末を想像してしまい、どう伝えたところで恥をかかせることになると、二の足を踏んでしまうにちがいない。
 ましてやそれが、向こうから先に「ズボンのチャックが全開ですよ」と耳打ちしてきたのだとしたら、もう絶対に「そう言うあなたはお尻まる出しですけどね」とは言えないのである。
 だったら……やっぱり先に教えてあげたほうがいいのか。そして万が一、向こうから先に指摘を受けたとしても、ひるまず事実を告げようではないか。たとえ頬を打たれようとも、世界を敵にまわそうとも。
 むかし、皮肉屋のイギリス人がこう言った。
「遠い呼びかけには、精一杯大きな声で応えよう。沈黙というのは、とてもさみしいものだから」


【弁解あるいは激賞】
 この句のポイントは、相手の歯に何を挟ませるのか、である。
 もし「教える君の歯にアリが」だと、純粋な恐怖しかわいてこない。ホラーになってはいけない。
 ここはタコだからこそ、俳味が出るのである。タコが季語だということではなく。
 海苔(青ノリ)とタコときたら、二人が食べたものはタコ焼き以外に考えられない。それくらいシャーロックホームズでなくともわかるはずだ。ならば舞台は大阪だろう。で、あなたの歯についた青ノリを見て眉をひそめる彼女に、そう言う君の歯にはタコが挟まってるよと、指摘できるのかがここでは問われているのだ。この場合、教えても教えなくても大変なことになるのは目に見えている。けれども指摘しなければならないのである。彼女を本当に愛しているなら。でもなあ、やっぱり心配だよなあ。
 大阪、夏、人間関係のもつれとくると、文楽『夏祭浪花鑑』の幕が開く。語りは六代目竹本織大夫にお願いしたい。泥まみれになって義父を惨殺する田七。刺青、血糊、遠く近くだんじり囃子が響き、暗闇に祭りの灯がちらつく。まるで、あなたと彼女の運命を暗示するかのようだ。いかん。どうしてもホラーになってしまう。
 ギャク句の壁は厚い。


2024年6月20日

第10回自句自賛 ― 俳句で人は笑わせられるのか?


【課題】 「本日の季語・胡瓜」……胡瓜は夏の季語


【俳句ルールへのぼやき】
 ルールその一、俳句はまじめに詠まなければならない。
 それはその通りなんですけど……俳句で人を笑わせることってできるのかなあ?
 そんな不謹慎な考えが浮かんだのも、俳句の元となった俳諧は笑いをとってなんぼの遊びだったと知ってしまったからだ。あの芭蕉だって、若いころはイキの良い俳諧師として一目置かれ、ナンセンス物やダジャレ入りなど、かなり攻めた句を詠んでいたのである。たとえば、
 芭蕉三十四歳の作「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁(ふくとしる)」
 ほぉ。“河豚汁”と“福と知る”かけましたか。まあ、笑いのツボというのは時代によって変わるから。
 そんな芭蕉黒歴史のなごりは、翁が世俗的成功を断念したあともふっと顔を出して、
 同四十九歳の作「鶯や餅に糞する縁の先」
 下ネタかよ。ほんとにこんなので昔の人は笑っていたのだろうか。
 芭蕉まかせでは、早々に俳句で人を笑わせることは無理という結論になりそうなので、僕が詠みます。
 その前に、ギャグ句のレギュレーションを明確にしておかないと。とりわけ、サラリーマン川柳とどこが違うのかという点は重要だと思う。単に季語が入っているのかいないのかの違いだけでなく。
 そこで、サラ川は時事ネタ中心という点に着目して、ギャク句は、元祖・貞門俳諧の流儀を汲んで、和歌や物語や謡曲などの古典をもじって心理的落差で笑わせることにしようと思う。だから古典パロディ句とも言えるかな。
 参考までに貞門作品の例をあげると、仁徳天皇の「高き屋にのぼりて見ればけむりたつ民のかまどはにぎはひにけり」という御製をもじって「高き屋にのぼりてみればつばきはき」と詠んだりしている。だからそれ面白いか?
 かなり不安だけれども、ギャグ句を詠んでみましょう。きわめてまじめに。
 ちょうど「胡瓜」なんていう、ひねりを効かせられそうな題だし。


【俳句】   「ワル胡瓜の香々噛み〱黄昏」


【句の背景あれやこれや】
 小学四年生の僕は、香々(こうこ)のせいで大きな挫折を味わうこととなった。
 そうか、もう“こうこ”という言葉を知らない人もいるかもしれない。漬物のことだ。
 漬物にはいくつか呼びかたがあって、“香の物”なんて言えばちょっと気どった感じに聞こえるし、“おしんこ”だと、本来は古漬けに対する浅漬け、つまり新香からきているのに、なぜかやたらとしょっぱいものが出てきそうだ。くだんの“こうこ”は、もと女房詞の「香々(こうこう)」を省略して「こうこ」、あるいは丁寧に「おこうこ」となったんだそうだ。
 落語に『うなぎの幇間』という芸人のペーソス全開の噺がある。その舞台となる汚い鰻屋の二階で、幇間の一八がきゅうりの漬物を褒めそやしたりくさしたりするシーンが出てくるのだが……。
 落語研究家の興津要が編んだベストセラー『古典落語』では「香物」と書いて「こうこ」と読ませている。じゃあ実際の噺家はどう演じているのかというと、この噺をみがいて完成させたと言われる文楽は「しんこ」だ。不味い鰻屋なんだからと、物が悪い感じを出そうとしたのかな。そこへいくと志ん朝は「こうこ」で、江戸落語の名手の口から出ると、粋な通人でなければならない幇間ならそう言うにちがいない、なんて気になってくる。小三治は「きゅうりのこうこ」と、わからない人もいるかもしれないという親切心からだろう、さりげなく説明してくれる。ちなみに志ん生は、あのべらんめい調でただ「だいこん」と言うだけ。うわぁ、らしーい。
 で、一八が胡瓜の香々に毒づくセリフが「この腸(わた)だくさんのきゅうり、きりぎりすだってこんなものは食うもんか」なのである。
 それが僕にはショックだった。なんせ、わた沢山が好きだったから。以来、きゅうりの香々を食べるたびに、お前はきりぎりすだってそっぽを向くような野菜を好むヤボな子なんだ、物の味がわからない子なんだと、自分を責めるようになってしまった。一八も罪作りなことをする。
 それでも己の舌に正直に言わせてもらえば、不味い香々というのは、瘦せてひねた胡瓜に塩をぶちこんで漬けた、しょっぱいだけで酸味も旨味もないやつのことなのである。


【弁解あるいは激賞】
 今回のギャグ句への挑戦では、川柳の「時事ネタ」に対し「古典」をもじることを条件とした。が、なにも『源氏物語』ばかりが古典ではない。オペラ界では、R.シュトラウスやプッチーニまでならクラシックなのだ。
 そのオペラだが、楽劇の神様ワーグナーが書いた『ニーベルングの指環』は、世界を支配する力を持つ指環をめぐって神と人と地下族が入り乱れ、世代を超えてせめぎ合った末、天上のヴァルハラ宮が燃え落ちて幕となる壮大な物語だ。ボリューム的にも、完成までに二十六年かかったという超大作、全四部作で構成される。それぞれのタイトルが『ラインの黄金』『ワルキューレ』『ジークフリート』『神々の黄昏』……と、壮大な知ったかぶりはこれまでにして、当句はその中の楽曲「ワルキューレの騎行」と「神々の黄昏」をもじったものである。
 しかし、単にもじっただけではない。芭蕉が突如、町名主代行という安定した職と、せっかく軌道に乗り始めたベンチャービジネスの権利を捨てて、人もまばらな深川に引っこんでしまったときに詠んだ悲し過ぎる句、
「雪の朝独り干鮭を噛み得たり」への応答句になっているのである。
「ワル胡瓜の香々噛み〱黄昏」あらためてならべてみました。
 いやぁ、絢爛豪華なオペラのタイトルを借用しながら、描くのは純和風のわびしい景色、この心理的落差たるや。しかも芭蕉へのリスペクトを忘れていない。なんたる手練れの技っ!

 ところで、当句から呼び起こされるのはどんな場面だろう?
 ある人は、芭蕉のように家で独りのわびしい食事を思い描くだろう。中には、汚い鰻屋の二階に残された一八の、女中も下がってしまったその後を句に重ねる人だっているはずだ。またある人の頭には、夕暮れ時の居酒屋が浮かんでくるにちがいない。
 ふらりと入った居酒屋。客は、カウンターの奥にじいさんが一人。目の前に置かれた瓶ビールをぼんやり見つめている。どれだけの時間そうしているのか、瓶はびっしょり汗をかいて、カウンターに水たまりができている。
 あなたは手前のカウンターの隅に座ることにする。そこなら空が見えるからだ。高い塔のようにそそり立つ夏の雲が、うっとりするような真珠色に輝いて、みるみる桃色に染まりだし、やがて茜色に燃え上がる様をながめているのが好きなのだ。
 若いが、きかなそうな顔をした亭主が、じいさんに枝豆の小鉢をさし出す。ドスのきいた声で、
「サービスです」
 じいさんはハッとわれにかえり、「頼んどらん!」と、大きな声を出す。
 亭主は、カウンター越しに坊主頭を突き出して、
「いえ、サービスですよ」
「頼んどらんてっ!」
 亭主は身振りで、お代はノー、いらない、どうぞ、と勧める。
 じいさんは、顔色をうかがいながら小鉢を引き寄せると、脇にかかえこみ、むさぼるように口へ放りこんでゆく。耳が遠いのか。
 あなたは壁のメニューに目をやる。と言っても、ながめるふりをするだけで、はなから注文は決まっている。
「ビール」
 それ以外、頼む気はない。お金がないのである。
 栓を抜いたビールとコップが、無言であなたの前に置かれる。
 だが、あなたは手をつけない。そして、探るような目で亭主を見つめる。
 向こうは察して、
「うちはお通しは出しませんよ。チャージ頂かないかわりに」
 それはそれでありがたい話だが、じゃあ枝豆はどういうタイミングで貰えるのかが気になるところだ。
 亭主が、目で催促してくる。
 しかたなく壁のメニューに目をやるあなた。でも、迷っているふりをしているだけで、一択しかないことはわかっている。
「おしんこを」
 一番、安かったのである。
 脇の冷蔵庫からダイレクトに運ばれる大根と胡瓜のおしんこ。ひと口かじってみる。やたらしょっぱい……でも、酒のアテにはこのほうがいいのか。
 飲みこんで、コップのビールをあおる。
「ぷはーっ」
 冷ったいや。
 外に目をやると、ホームの陰になった駅前はすでにうす暗く、まだ青さの残る空とのコントラストが鮮やかだ。自然美、調和、人間の愚かさ、もろさ、憂い、嫌悪、執着、様々な感情がない交ぜになったあなたは、うっすら涙を浮かべる。そして無性に歌いたくなる。でもカラオケに行くお金はない。いや正直ないことはないが、もったいない。
 ここで歌っちゃおうか?
 客は一人も同然なんだし。
 カラオケが普及する平成の世まで、宴席でも銭湯でも酒場でもいきなり誰かが歌い出すのは当たり前の光景だった。感極まったら歌うのは、ミュージカルの中だけではなかったのだ。
 あなたは目を閉じる。そして背筋を伸ばし、情感たっぷりにうなりだす。
「〽お酒はぬる……」
「お客さん!」
 間髪入れず制止された。
 驚いて目を開けるあなたを、亭主がしたり顔でさとす。
「ほかのお客さんの迷惑になりますんで」
 あなたはじいさんに目をやるが、枝豆はとうに食いつくして、ふたたびビール瓶とにらめっこをしており、こっちを気にするふうはない。
 非常に不本意ではあるが、亭主とケンカしてまで歌いたくはない。あなたは、コップに注いだビールをぐびっとやる。
 と、じいさんが大声で、
「あぶったイカっ!」
 じじい、聞こえてるのか?
 亭主はイカをあぶり始める。
 もやもやをふり払うように、あなたは胡瓜の香々を口へ放りこみ、カリカリ噛む。うわぁしょっぱい。ビールがすすむ。いかんいかん、お代わりはできないのだからセーブしなければ。
 表を見ると、帰宅時間とあってロータリーは混雑し始めた。
 うほぉ雲の塔に火がまわり始めたぞお。心が高揚すると同時に、一句ひらめいた!
 あなたは胸ポッケからボールペンを抜いて、箸袋に書きつける。そして、しげしげとながめるのだ。納得のいく出来だった。会心の作と言ってもいい。
 読みあげてみようかな?
 だってこれは、ひとり言といっしょだし。
 あなたは背筋を伸ばし、箸袋を遠くに構え、朗々と吟ずる。
「夏がゆく燃えろよ燃えろ空の塔」
 もう一度、吟じるのが習わしだ。
「夏がゆ……」
「ほかのお客さんの迷惑になるんで!」
 さっきよりも強い口調だった。
 これには、さすがに黙っていられない。
「俳句を披露するくらい、いいじゃないか」
「短歌派のお客様もいらっしゃいますからね」
 にらみ合いの間げきを縫って、じいさんが妙な抑揚でうなりだす。
「焼けぼっくいにぃ、火がつきし哉ぁ」
「えっ?」
 思わず聞き返すあなたを無視して、じいさんはくり返す。
「焼けぼっくいにぃ、火がつきし哉ぁ」
 あなたはワナワナとふるえだす。なんと見事な付句だろう。さっき詠んだ炎が天宮の大火災のそれだと読み解いたうえで、その火元はブリュンヒルデとジークフリートの愛情のもつれであると指摘しているのである。
「おじいさん、あなたひょっとして……」
「サービスです」
 割って入るように、亭主があなたにおしんこをさし出す。
 あなたは、まだまるまる残っているおしんこと、追加で増えたおしんこを見比べて、
「できれば別のものが……」
「色々あるけど、頑張りましょう」
 亭主は有無を言わさぬ迫力でうなずく。
 だが、あなたも中々にしぶとい性格とみえ、
「枝豆とかあれば……」
「頑張りましょうよ。おたがいに」
「……」
 あなたは香々を噛む。噛む。涙のようにしょっぱい香々を。
 外はすっかり暮れてしまった。そこにあるのは夏の闇。濃密な闇だ。
 ……とまあ、ここまでのやりとりが、さきほどの句の中に中に詠みこまれていたのである。

 で、結論。
 僕の句で爆笑を取れるかと言うと……。
 俳句には、苦い笑いが合っているようである。


2024年6月12日

第9回自句自賛 ― それ捏造ですけど、なにか?


【課題】 「本日の季語・秋」……秋はもう、どう転んでも秋の季語


【俳句ルールへのぼやき】
 この企画は、季語を見て何が浮かぶのか、そこにどんな感情が動くのかを詠むというもの。なので、課題の季語が「桜」で時が春ならば花見に出かけることだってできるけれど、季節が違えば過去の記憶を呼び起こして語り直すしかない。そこで、こんな疑問がわいてくる。
 経験していないことを詠んでもいいのだろうか?
 小説のようにドラマを創作することはゆるされるの?

 その人は怖い顔になって、「俳句ってのはね“いま・ここ”に生まれた感動を詠むものなんだよ」と、僕をにらんだ。
 わかったようなわからないような顔で「はぁ」とこたえると、肩をつかまれて「だからあ、その目ん玉で見たまんまを写生するしかないんだって。空想を遊ばせて作るなんて、ぜったいにゆるさんからな」と、首がガックンガックンなるほど揺さぶられるのだ。
 とまあ、実際にそんなことされたわけじゃないけど、俳句本やネット情報を読んでいると、それに近い気分になってくる。俳句の指導者って、なんか怖い。だいたい仲間の集まりをどうして“結社”なんて呼ぶのだろう。血判でも押さなきゃ入れてもらえなさそうじゃないか。けどそうして敷居が高いわりには、結社はよく分裂して、いがみあうみたいだ。趣味人どうし仲良くすればいいのに。くわえて、くだんの「いま・ここの感動を詠めっ」である。
 でも僕は、たとえ権威の言うことでも鵜呑みにはできないヒネた人間なのだ。
 で、調べてみると“俳句いまここ論”の根拠は正岡子規の「写生説」にあるらしい。それは子規の唱えた俳句の方法論で、西洋絵画のように実景をありのままに写し取ること、と説明されるけれど……そこからして違うんじゃないかな?
 子規の写生説って、映画にたとえれば「ドキュメンタリーを撮ろう」ということだと思う。それも、うんとカメラポジションにこだわって、研ぎ澄まされたショットを連ねたやつを。
 子規に言わせれば、それまでの俳句はフィクション作品だったのだ。芭蕉の『奥の細道』に代表される、歌枕を訪ね史跡をめぐり先達ゆかりの地を踏んで詠む手法は、過去の物語やコンテクストの上に石を積むようなものだ。それはともすれば、ハリウッド三幕法にのっとった型通りの娯楽作品や、予定調和のエンディングを迎えるヒーロー活劇のようにマンネリ化、図式化におちいりかねない。いや、芭蕉から二百年たった明治の時代では、実際そうなっていたのだろう。子規が不満に感じたのは、リアリティの欠如だった。もっとひしひしと、ヒリヒリと、生々しく!
 そんなとき、西洋に学んだ坪内逍遥らの小説が出る。そこには、それまでの芝居脚本や草紙にはない、語りかけるような文体と、生き生きとした人間のリアルな会話が描かれていた。子規は、俳句でもそれをやろうと思ったんじゃないかなあ。芝居臭さを排除して、ありのままを写しとるのだと。そう言えば、新聞「日本」紙上で死にゆくわが身におきる出来事を日々レポートした『病牀六尺』は、まさにドキュメンタリーだったじゃない。
 ただし、ドキュメンタリー映像だって現実そのものではない。たとえ作り手が己の価値判断を持ちこまないという意志でのぞんだとしても、カメラの方向によって主張は偏り、編集によって物語は作られる。だから天に唾することになりかねないので、フィクション作品を否定するドキュメンタリー作家などいないのだ。なのに俳句界だけが、どうしてこうもフィクションに不寛容なのだろう。
 本家本元の子規は、その俳句論『俳諧大要』の修行第二期の項でこう言っている。
「俳句をものするには空想によると写実によるとの二種あり」
 なんだい、先生だって空想で作ることを否定してないじゃないか。そりゃそうでしょう、たとえフィクションだろうと、そこに一片のリアリティさえあれば心を動かされるんだから。
 そして、先生はこう続ける。
「初学の人おおむね空想によるを常とす。空想尽くる時は写実によらざるべからず」
 頭の中からひねり出そうとしても、すぐにネタは尽きちゃうだろ。だから大いに観察して取材して経験しないとね、というわけだ。
 ということは、ネタが浮かぶうちは空想で詠んでもいいわけだ。
 と、先生のお墨付きを得たところで、完全なるフィクション句を。


【俳句】   「元カレとボート漕ぐ秋おと澄みて」


【句の背景あれやこれや】
 秋の日。
 陽は傾いて、光は淡く柔らかになる。
 不忍池でボートに乗る、あなたとわたし。
 こうしておしゃべりしてると、やっぱり楽しい。三年前に別れてるのにね。
 え? 待って、どういうつもり?
 急にそんなこと言うから、何も言えなくなっちゃうじゃない。
 悲しげな空の青さが、水面に映る。
 押し黙ったままの二人。
 と、あなたのオールがたてた波紋に水鏡は割れる。
 白さを増した秋に、水音は澄んでゆく。
 ねえ、わたしたち……。
 ※本句はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

 いま・ここを詠む句には、ライブでしか生まれない味わいがある。
 そしてフィクション句には、計算された緊張感やドラマがある。
 やっぱ創作って楽しいな。


【弁解あるいは激賞】
 最後の「澄みて」は「澄みてをり」の省略のつもりなんだけど、そこで切ってしまうことが許されるのだろうか。あまり自信がない。
 ちなみに「~てをり」は、継続を意味する文語的表現で、「いずれは終わりが来るかもしれないけど、今はまだ……」という意味あいなんだとか。この句のラストシーンにぴったりじゃない。
 そしてまた今回も、「秋」と「ボート」が季重なりの季違いになってしまった。
 けど、どうしても「ボート」を夏に限定することに賛成できないんです。
 だって「波乗」がそうだったように、貸しボートにも春夏秋冬それぞれにドラマがあると思うから。春の千鳥ヶ淵は花見、夏の軽井沢は夕涼み、秋の嵐山はデート、それから江戸川放水路のハゼ釣りも、冬の芦ノ湖はワカサギ釣り、と盛りだくさんなんだもの。