真言宗豊山派安養院(栃木県栃木市の寺院)

2024年6月20日

第10回自句自賛 ― 俳句で人は笑わせられるのか?


【課題】 「本日の季語・胡瓜」……胡瓜は夏の季語


【俳句ルールへのぼやき】
 ルールその一、俳句はまじめに詠まなければならない。
 それはその通りなんですけど……俳句で人を笑わせることってできるのかなあ?
 そんな不謹慎な考えが浮かんだのも、俳句の元となった俳諧は笑いをとってなんぼの遊びだったと知ってしまったからだ。あの芭蕉だって、若いころはイキの良い俳諧師として一目置かれ、ナンセンス物やダジャレ入りなど、かなり攻めた句を詠んでいたのである。たとえば、
 芭蕉三十四歳の作「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁(ふくとしる)」
 ほぉ。“河豚汁”と“福と知る”かけましたか。まあ、笑いのツボというのは時代によって変わるから。
 そんな芭蕉黒歴史のなごりは、翁が世俗的成功を断念したあともふっと顔を出して、
 同四十九歳の作「鶯や餅に糞する縁の先」
 下ネタかよ。ほんとにこんなので昔の人は笑っていたのだろうか。
 芭蕉まかせでは、早々に俳句で人を笑わせることは無理という結論になりそうなので、僕が詠みます。
 その前に、ギャグ句のレギュレーションを明確にしておかないと。とりわけ、サラリーマン川柳とどこが違うのかという点は重要だと思う。単に季語が入っているのかいないのかの違いだけでなく。
 そこで、サラ川は時事ネタ中心という点に着目して、ギャク句は、元祖・貞門俳諧の流儀を汲んで、和歌や物語や謡曲などの古典をもじって心理的落差で笑わせることにしようと思う。だから古典パロディ句とも言えるかな。
 参考までに貞門作品の例をあげると、仁徳天皇の「高き屋にのぼりて見ればけむりたつ民のかまどはにぎはひにけり」という御製をもじって「高き屋にのぼりてみればつばきはき」と詠んだりしている。だからそれ面白いか?
 かなり不安だけれども、ギャグ句を詠んでみましょう。きわめてまじめに。
 ちょうど「胡瓜」なんていう、ひねりを効かせられそうな題だし。


【俳句】   「ワル胡瓜の香々噛み〱黄昏」


【句の背景あれやこれや】
 小学四年生の僕は、香々(こうこ)のせいで大きな挫折を味わうこととなった。
 そうか、もう“こうこ”という言葉を知らない人もいるかもしれない。漬物のことだ。
 漬物にはいくつか呼びかたがあって、“香の物”なんて言えばちょっと気どった感じに聞こえるし、“おしんこ”だと、本来は古漬けに対する浅漬け、つまり新香からきているのに、なぜかやたらとしょっぱいものが出てきそうだ。くだんの“こうこ”は、もと女房詞の「香々(こうこう)」を省略して「こうこ」、あるいは丁寧に「おこうこ」となったんだそうだ。
 落語に『うなぎの幇間』という芸人のペーソス全開の噺がある。その舞台となる汚い鰻屋の二階で、幇間の一八がきゅうりの漬物を褒めそやしたりくさしたりするシーンが出てくるのだが……。
 落語研究家の興津要が編んだベストセラー『古典落語』では「香物」と書いて「こうこ」と読ませている。じゃあ実際の噺家はどう演じているのかというと、この噺をみがいて完成させたと言われる文楽は「しんこ」だ。不味い鰻屋なんだからと、物が悪い感じを出そうとしたのかな。そこへいくと志ん朝は「こうこ」で、江戸落語の名手の口から出ると、粋な通人でなければならない幇間ならそう言うにちがいない、なんて気になってくる。小三治は「きゅうりのこうこ」と、わからない人もいるかもしれないという親切心からだろう、さりげなく説明してくれる。ちなみに志ん生は、あのべらんめい調でただ「だいこん」と言うだけ。うわぁ、らしーい。
 で、一八が胡瓜の香々に毒づくセリフが「この腸(わた)だくさんのきゅうり、きりぎりすだってこんなものは食うもんか」なのである。
 それが僕にはショックだった。なんせ、わた沢山が好きだったから。以来、きゅうりの香々を食べるたびに、お前はきりぎりすだってそっぽを向くような野菜を好むヤボな子なんだ、物の味がわからない子なんだと、自分を責めるようになってしまった。一八も罪作りなことをする。
 それでも己の舌に正直に言わせてもらえば、不味い香々というのは、瘦せてひねた胡瓜に塩をぶちこんで漬けた、しょっぱいだけで酸味も旨味もないやつのことなのである。


【弁解あるいは激賞】
 今回のギャグ句への挑戦では、川柳の「時事ネタ」に対し「古典」をもじることを条件とした。が、なにも『源氏物語』ばかりが古典ではない。オペラ界では、R.シュトラウスやプッチーニまでならクラシックなのだ。
 そのオペラだが、楽劇の神様ワーグナーが書いた『ニーベルングの指環』は、世界を支配する力を持つ指環をめぐって神と人と地下族が入り乱れ、世代を超えてせめぎ合った末、天上のヴァルハラ宮が燃え落ちて幕となる壮大な物語だ。ボリューム的にも、完成までに二十六年かかったという超大作、全四部作で構成される。それぞれのタイトルが『ラインの黄金』『ワルキューレ』『ジークフリート』『神々の黄昏』……と、壮大な知ったかぶりはこれまでにして、当句はその中の楽曲「ワルキューレの騎行」と「神々の黄昏」をもじったものである。
 しかし、単にもじっただけではない。芭蕉が突如、町名主代行という安定した職と、せっかく軌道に乗り始めたベンチャービジネスの権利を捨てて、人もまばらな深川に引っこんでしまったときに詠んだ悲し過ぎる句、
「雪の朝独り干鮭を噛み得たり」への応答句になっているのである。
「ワル胡瓜の香々噛み〱黄昏」あらためてならべてみました。
 いやぁ、絢爛豪華なオペラのタイトルを借用しながら、描くのは純和風のわびしい景色、この心理的落差たるや。しかも芭蕉へのリスペクトを忘れていない。なんたる手練れの技っ!

 ところで、当句から呼び起こされるのはどんな場面だろう?
 ある人は、芭蕉のように家で独りのわびしい食事を思い描くだろう。中には、汚い鰻屋の二階に残された一八の、女中も下がってしまったその後を句に重ねる人だっているはずだ。またある人の頭には、夕暮れ時の居酒屋が浮かんでくるにちがいない。
 ふらりと入った居酒屋。客は、カウンターの奥にじいさんが一人。目の前に置かれた瓶ビールをぼんやり見つめている。どれだけの時間そうしているのか、瓶はびっしょり汗をかいて、カウンターに水たまりができている。
 あなたは手前のカウンターの隅に座ることにする。そこなら空が見えるからだ。高い塔のようにそそり立つ夏の雲が、うっとりするような真珠色に輝いて、みるみる桃色に染まりだし、やがて茜色に燃え上がる様をながめているのが好きなのだ。
 若いが、きかなそうな顔をした亭主が、じいさんに枝豆の小鉢をさし出す。ドスのきいた声で、
「サービスです」
 じいさんはハッとわれにかえり、「頼んどらん!」と、大きな声を出す。
 亭主は、カウンター越しに坊主頭を突き出して、
「いえ、サービスですよ」
「頼んどらんてっ!」
 亭主は身振りで、お代はノー、いらない、どうぞ、と勧める。
 じいさんは、顔色をうかがいながら小鉢を引き寄せると、脇にかかえこみ、むさぼるように口へ放りこんでゆく。耳が遠いのか。
 あなたは壁のメニューに目をやる。と言っても、ながめるふりをするだけで、はなから注文は決まっている。
「ビール」
 それ以外、頼む気はない。お金がないのである。
 栓を抜いたビールとコップが、無言であなたの前に置かれる。
 だが、あなたは手をつけない。そして、探るような目で亭主を見つめる。
 向こうは察して、
「うちはお通しは出しませんよ。チャージ頂かないかわりに」
 それはそれでありがたい話だが、じゃあ枝豆はどういうタイミングで貰えるのかが気になるところだ。
 亭主が、目で催促してくる。
 しかたなく壁のメニューに目をやるあなた。でも、迷っているふりをしているだけで、一択しかないことはわかっている。
「おしんこを」
 一番、安かったのである。
 脇の冷蔵庫からダイレクトに運ばれる大根と胡瓜のおしんこ。ひと口かじってみる。やたらしょっぱい……でも、酒のアテにはこのほうがいいのか。
 飲みこんで、コップのビールをあおる。
「ぷはーっ」
 冷ったいや。
 外に目をやると、ホームの陰になった駅前はすでにうす暗く、まだ青さの残る空とのコントラストが鮮やかだ。自然美、調和、人間の愚かさ、もろさ、憂い、嫌悪、執着、様々な感情がない交ぜになったあなたは、うっすら涙を浮かべる。そして無性に歌いたくなる。でもカラオケに行くお金はない。いや正直ないことはないが、もったいない。
 ここで歌っちゃおうか?
 客は一人も同然なんだし。
 カラオケが普及する平成の世まで、宴席でも銭湯でも酒場でもいきなり誰かが歌い出すのは当たり前の光景だった。感極まったら歌うのは、ミュージカルの中だけではなかったのだ。
 あなたは目を閉じる。そして背筋を伸ばし、情感たっぷりにうなりだす。
「〽お酒はぬる……」
「お客さん!」
 間髪入れず制止された。
 驚いて目を開けるあなたを、亭主がしたり顔でさとす。
「ほかのお客さんの迷惑になりますんで」
 あなたはじいさんに目をやるが、枝豆はとうに食いつくして、ふたたびビール瓶とにらめっこをしており、こっちを気にするふうはない。
 非常に不本意ではあるが、亭主とケンカしてまで歌いたくはない。あなたは、コップに注いだビールをぐびっとやる。
 と、じいさんが大声で、
「あぶったイカっ!」
 じじい、聞こえてるのか?
 亭主はイカをあぶり始める。
 もやもやをふり払うように、あなたは胡瓜の香々を口へ放りこみ、カリカリ噛む。うわぁしょっぱい。ビールがすすむ。いかんいかん、お代わりはできないのだからセーブしなければ。
 表を見ると、帰宅時間とあってロータリーは混雑し始めた。
 うほぉ雲の塔に火がまわり始めたぞお。心が高揚すると同時に、一句ひらめいた!
 あなたは胸ポッケからボールペンを抜いて、箸袋に書きつける。そして、しげしげとながめるのだ。納得のいく出来だった。会心の作と言ってもいい。
 読みあげてみようかな?
 だってこれは、ひとり言といっしょだし。
 あなたは背筋を伸ばし、箸袋を遠くに構え、朗々と吟ずる。
「夏がゆく燃えろよ燃えろ空の塔」
 もう一度、吟じるのが習わしだ。
「夏がゆ……」
「ほかのお客さんの迷惑になるんで!」
 さっきよりも強い口調だった。
 これには、さすがに黙っていられない。
「俳句を披露するくらい、いいじゃないか」
「短歌派のお客様もいらっしゃいますからね」
 にらみ合いの間げきを縫って、じいさんが妙な抑揚でうなりだす。
「焼けぼっくいにぃ、火がつきし哉ぁ」
「えっ?」
 思わず聞き返すあなたを無視して、じいさんはくり返す。
「焼けぼっくいにぃ、火がつきし哉ぁ」
 あなたはワナワナとふるえだす。なんと見事な付句だろう。さっき詠んだ炎が天宮の大火災のそれだと読み解いたうえで、その火元はブリュンヒルデとジークフリートの愛情のもつれであると指摘しているのである。
「おじいさん、あなたひょっとして……」
「サービスです」
 割って入るように、亭主があなたにおしんこをさし出す。
 あなたは、まだまるまる残っているおしんこと、追加で増えたおしんこを見比べて、
「できれば別のものが……」
「色々あるけど、頑張りましょう」
 亭主は有無を言わさぬ迫力でうなずく。
 だが、あなたも中々にしぶとい性格とみえ、
「枝豆とかあれば……」
「頑張りましょうよ。おたがいに」
「……」
 あなたは香々を噛む。噛む。涙のようにしょっぱい香々を。
 外はすっかり暮れてしまった。そこにあるのは夏の闇。濃密な闇だ。
 ……とまあ、ここまでのやりとりが、さきほどの句の中に中に詠みこまれていたのである。

 で、結論。
 僕の句で爆笑を取れるかと言うと……。
 俳句には、苦い笑いが合っているようである。


2024年6月12日

第9回自句自賛 ― それ捏造ですけど、なにか?


【課題】 「本日の季語・秋」……秋はもう、どう転んでも秋の季語


【俳句ルールへのぼやき】
 この企画は、季語を見て何が浮かぶのか、そこにどんな感情が動くのかを詠むというもの。なので、課題の季語が「桜」で時が春ならば花見に出かけることだってできるけれど、季節が違えば過去の記憶を呼び起こして語り直すしかない。そこで、こんな疑問がわいてくる。
 経験していないことを詠んでもいいのだろうか?
 小説のようにドラマを創作することはゆるされるの?

 その人は怖い顔になって、「俳句ってのはね“いま・ここ”に生まれた感動を詠むものなんだよ」と、僕をにらんだ。
 わかったようなわからないような顔で「はぁ」とこたえると、肩をつかまれて「だからあ、その目ん玉で見たまんまを写生するしかないんだって。空想を遊ばせて作るなんて、ぜったいにゆるさんからな」と、首がガックンガックンなるほど揺さぶられるのだ。
 とまあ、実際にそんなことされたわけじゃないけど、俳句本やネット情報を読んでいると、それに近い気分になってくる。俳句の指導者って、なんか怖い。だいたい仲間の集まりをどうして“結社”なんて呼ぶのだろう。血判でも押さなきゃ入れてもらえなさそうじゃないか。けどそうして敷居が高いわりには、結社はよく分裂して、いがみあうみたいだ。趣味人どうし仲良くすればいいのに。くわえて、くだんの「いま・ここの感動を詠めっ」である。
 でも僕は、たとえ権威の言うことでも鵜呑みにはできないヒネた人間なのだ。
 で、調べてみると“俳句いまここ論”の根拠は正岡子規の「写生説」にあるらしい。それは子規の唱えた俳句の方法論で、西洋絵画のように実景をありのままに写し取ること、と説明されるけれど……そこからして違うんじゃないかな?
 子規の写生説って、映画にたとえれば「ドキュメンタリーを撮ろう」ということだと思う。それも、うんとカメラポジションにこだわって、研ぎ澄まされたショットを連ねたやつを。
 子規に言わせれば、それまでの俳句はフィクション作品だったのだ。芭蕉の『奥の細道』に代表される、歌枕を訪ね史跡をめぐり先達ゆかりの地を踏んで詠む手法は、過去の物語やコンテクストの上に石を積むようなものだ。それはともすれば、ハリウッド三幕法にのっとった型通りの娯楽作品や、予定調和のエンディングを迎えるヒーロー活劇のようにマンネリ化、図式化におちいりかねない。いや、芭蕉から二百年たった明治の時代では、実際そうなっていたのだろう。子規が不満に感じたのは、リアリティの欠如だった。もっとひしひしと、ヒリヒリと、生々しく!
 そんなとき、西洋に学んだ坪内逍遥らの小説が出る。そこには、それまでの芝居脚本や草紙にはない、語りかけるような文体と、生き生きとした人間のリアルな会話が描かれていた。子規は、俳句でもそれをやろうと思ったんじゃないかなあ。芝居臭さを排除して、ありのままを写しとるのだと。そう言えば、新聞「日本」紙上で死にゆくわが身におきる出来事を日々レポートした『病牀六尺』は、まさにドキュメンタリーだったじゃない。
 ただし、ドキュメンタリー映像だって現実そのものではない。たとえ作り手が己の価値判断を持ちこまないという意志でのぞんだとしても、カメラの方向によって主張は偏り、編集によって物語は作られる。だから天に唾することになりかねないので、フィクション作品を否定するドキュメンタリー作家などいないのだ。なのに俳句界だけが、どうしてこうもフィクションに不寛容なのだろう。
 本家本元の子規は、その俳句論『俳諧大要』の修行第二期の項でこう言っている。
「俳句をものするには空想によると写実によるとの二種あり」
 なんだい、先生だって空想で作ることを否定してないじゃないか。そりゃそうでしょう、たとえフィクションだろうと、そこに一片のリアリティさえあれば心を動かされるんだから。
 そして、先生はこう続ける。
「初学の人おおむね空想によるを常とす。空想尽くる時は写実によらざるべからず」
 頭の中からひねり出そうとしても、すぐにネタは尽きちゃうだろ。だから大いに観察して取材して経験しないとね、というわけだ。
 ということは、ネタが浮かぶうちは空想で詠んでもいいわけだ。
 と、先生のお墨付きを得たところで、完全なるフィクション句を。


【俳句】   「元カレとボート漕ぐ秋おと澄みて」


【句の背景あれやこれや】
 秋の日。
 陽は傾いて、光は淡く柔らかになる。
 不忍池でボートに乗る、あなたとわたし。
 こうしておしゃべりしてると、やっぱり楽しい。三年前に別れてるのにね。
 え? 待って、どういうつもり?
 急にそんなこと言うから、何も言えなくなっちゃうじゃない。
 悲しげな空の青さが、水面に映る。
 押し黙ったままの二人。
 と、あなたのオールがたてた波紋に水鏡は割れる。
 白さを増した秋に、水音は澄んでゆく。
 ねえ、わたしたち……。
 ※本句はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

 いま・ここを詠む句には、ライブでしか生まれない味わいがある。
 そしてフィクション句には、計算された緊張感やドラマがある。
 やっぱ創作って楽しいな。


【弁解あるいは激賞】
 最後の「澄みて」は「澄みてをり」の省略のつもりなんだけど、そこで切ってしまうことが許されるのだろうか。あまり自信がない。
 ちなみに「~てをり」は、継続を意味する文語的表現で、「いずれは終わりが来るかもしれないけど、今はまだ……」という意味あいなんだとか。この句のラストシーンにぴったりじゃない。
 そしてまた今回も、「秋」と「ボート」が季重なりの季違いになってしまった。
 けど、どうしても「ボート」を夏に限定することに賛成できないんです。
 だって「波乗」がそうだったように、貸しボートにも春夏秋冬それぞれにドラマがあると思うから。春の千鳥ヶ淵は花見、夏の軽井沢は夕涼み、秋の嵐山はデート、それから江戸川放水路のハゼ釣りも、冬の芦ノ湖はワカサギ釣り、と盛りだくさんなんだもの。


2024年6月4日

第8回自句自賛 ― K・I・G・O重なったっていいじゃない!


【課題】   「本日の季語・月光」……月光は秋の季語


【季語に言いたいこと】
一句の中に季語はひとつだけ、それが俳句の大原則なのだとか。知らなかった。
うっかり二つ以上入れようものなら、「季重なりよっ!」と、サンダルにパンストの女子を発見したピーコのような顔で詰め寄られるらしい。こわい。
季重なりの中でも、異なる季節が混在するのは「季違い」と呼ばれ、真冬の茶事にヘソ出しルックで現れたギャルも同然、門前払いされてしまう。それは自業自得。
でも、どうなんでしょう、万を超える数の季語があるんだし、メインに据えた季語以外に、シチュエーション説明に必要な名詞がたまたま季語だったってケースは、けっこうあるんじゃないかなあ。
それに、素人考えながら「髪洗ふ」という日々の営みとか、「ボート」なんて四季ごとにドラマ性のある小道具を、季語として一つの季節に限定してしまうだけでもどうかと思うのに、季を異にするワードと組み合わせてはいかんと言うのでは、あまりに器が小さい……いや狭量……えーと教条主義的……うーん厳し過ぎかも。
もちろん「一句中一季語」の原則はできるかぎり守るので、季重なりに対してはもう少しおおらかに接してもらえませんかねえ。浴衣にカンカン帽が意外と違和感なかったり、セーラー服に機関銃を持たせたら大ヒットしたように、過剰さやミスマッチだって詩が生まれる契機になるんだもの。
名吟とされる中にもけっこうあるよお、凄いのが。山口素堂「目には青葉(夏)山ほととぎす(夏)初鰹(夏)」の夏三連発とか、久保田万太郎「ばか、はしら、かき(冬)、はまぐり(春)や春の雪(春)」の冬足す春の二乗とか。
というわけで、しれっと季重なりを詠んじゃおう。


【俳句】     「月光を巻く波に乗りつ 潮騒」


【句の背景あれやこれや】
学生時代に始めてから二十年、僕は海に通って波に乗り続けた。海外も含め、全国のサーフポイントを巡っては、日の出前の灰色の海に飛びこんで、波頭が夕日に染まるまで上がらなかった。だから上手ってことじゃないんだけどね。海の上から見る景色が、ほんとに好きだっただけ。
それでも、夜の海に入ったことはたった一度しかない。
あれは八月末の外房だった。僕と友だちは、車を止めて夜の海をながめるともなくながめていた。時刻は十時を過ぎていて、まんまるの月は冲天にあった。それはそれはさやかな光で、すべてが祝福を受けリラックスしているように見えた。そんなピースフルなバイブスは僕らにも伝染して、聞かれればキャッシュカードの暗証番号だって教えてしまいそうなくらい大らかな気持ちになっていたんだ。だから、どちらからともなくムーンライトサーフの話が始まり、はずみで、ならやってみようとなっても、一ミリの疑いもわかなかった。
板を抱えて波打ち際に立つ。暗くて沖の様子はわからないけれど、脛に当たるしぶきと、遠く響く潮騒からして、サイズは腰胸くらいはありそうだった。胃のあたりがチクッときたけど、心地良い緊張感というやつだ。
ならんで沖へと漕ぎ出す。水はぬるい。とは言え、ひと掻きごとに陸から離れてゆく心細さで、とたんに唇がふるえだした。正気が戻ってくる。
こんなバカなまねはやめて帰ろ……遅いっ、闇の向こうから轟音が押し寄せてくる。とっさに腕を杭のように突っ張らせ、板を沈めて波の下をくぐる。
何度目かのダックダイブでアウトに出たときには、けっこう横に流されていたと思う。
板に腰かけて波を待つ。陸をふり返ると……けっこう遠くまで出ちゃったな。
友だちはどこへ行ったのか、いつまで待っても現れない。
えっ? ひとりぼっち? 真っ暗な海に?
急に風が冷たく感じられ、奥歯が鳴りだす。落ちつこうと息を吐いてみるが、顔はみるみるひきつってゆく。ハワイじゃムーンライトサーフ中、サメに足を食いちぎられるなんてざらだってね。さっきした会話が頭をよぎる。それも御免だけど、いま海の中にある足、その下にはもっと不気味なナニカがいたり……しないよね? そおっと足をひき上げて、板に腹ばいになる。
潮が動き出した。早くこんな気味の悪いところとおさらばしたい、その一心でトライするが、体がこわばっているせいか波においていかれてしまう。
帰れないじゃん。心臓がドクドク音をたてはじめる。大声で助けを呼びたくなるが、そのせいでナニカが目を覚ましたらまずいので我慢する。と言うか、叫んだところで助けなんて来やしない。乗るしかないんだ。
こんなとき映画なら、目を閉じて波のエナジーを感じてビックウェイブと一つになったりするんだろうけど、現実はそうはいかない。
ところが……やみくもに、ぶざまに、ジタバタとあがいているうちに運良く、たまたま、偶然、乗れてしまった。
サイズは? 割と大きめ!
小さくボトムターンして波の腹へと戻る。
と、行く手にスーッと光の道が開けた。それはまっすぐに、遠く遠く続いている。
波の斜面に月の光が反射しているのだ。
僕は波に乗っていることも忘れて、ささやかな、でもすばらしい魔法に見とれた。
ガラスのようになめらかな波のフェイス。轟は背後へ背後へと飛ばされて、無音の世界が現れる。月光を巻きこみながら走ってゆく波。
気がつくと、浅瀬まで運ばれていた。
僕は沖をふり返り、そして月を見上げる。とたんに潮騒が戻ってきた。
ムーンライトサーフ……二度とするかっ!


【弁解あるいは激賞】
「月光」は秋の季語で「波乗」は夏の季語。
「だからそれ季重なりよ!」
「しかも季違いじゃない!」
「おまけに月光と波乗、どっちもメインテーマだもん、季語同士の主従がはっきりしてるからセーフなんて言い訳は通用しないからねっ!」
そんな金切り声が聞こえてきそうだが、落ちつけ、グレタ(ⓒドナルド・トランプ)。
サーファーは一年中、波に乗る。なかには、映画『エンドレスサマー』のように終わらぬ夏を追いかけて世界をまわる数奇者もいるけど、大多数は『ビックウェンズデー』のように、短パンにラッシュガード→ロングスリーブ→フルスーツにブーツと、いでたちを変えながら折々の波を味わっている。なのに「波乗」を夏限定にしてしまったら、台風一過の青空と大波、赤とんぼ泳ぐ浜での午睡、堤防から飛びこむ氷の海、それをどうやって季重なりを避けつつ詠めと言うんですか。そこは季節の移ろいを楽しむ俳人なら、わかってくれるでしょう。だって「吟行」は季語に入れてないじゃないですか。
というわけで提案です、「波乗」は季語から外しましょう。そのかわり「岡サーファー」を夏の季語として差し上げますから。ねっ、単に「そば」では季語にならないけど、「新そば」は秋の季語になるのとおなじ要領です。決まりっ!

季重なりが解決したところで、まずは言い訳から。
やっぱり文語の「乗りつ」ってのはどうなんだって、言われる気がする。
でも口語で、たとえば「月光を巻く波に乗る……潮騒」としたら、「乗る」は瞬間的な動作をとらえているにすぎず、「……潮騒」との関係が宙に浮いてしまうだろう。だからと言って「月光を巻く波に乗った 潮騒」では、潮騒が波に乗ったよう(?)にも、潮騒を聞いて遠い昔に波に乗った記憶がよみがえったようにもとれるし、やっぱり両者の関係がはっきりしない。こんなときこそ、繊細な時間表現を持つ文語の助動詞に力を借りずしてどうするの。
 ただそこで、動作の完了を表す助動詞「つ」と「ぬ」のどちらを使うかが問題なんだよなあ。
概して「つ」は意志的・作為的な動作を表す語に付き、「ぬ」は無意識的・無作為的な動作を表す語に付くとされる。
この句の動作である「波に乗る」は、通常通りなら意識的行為だが、詠み手は「乗ってしまった」もしくは「波に勝手に運ばれてた」という思いが強いので、作為性は弱い。
そのようにどちらも使える場合は、完了を表現したいなら「つ」を、開始なら「ぬ」を採用するんだそうだ。たとえば平知盛が「見るべきほどのことは見つ」と言い放ち壇ノ浦に飛びこんだのは、この世の天国から地獄まで見尽くしたという意味だし、ホトトギスの忍び音を耳にして「夏は来ぬ」とうなずくのは、夏が始まったという意味なのだ。
当句の場合、動作は完了しており、本人はもう絶対に沖へなんか戻りたくないのだから、やはり「つ」がふさわしいだろう。
そして「乗りつ」のあと空白をおいて「潮騒」が耳に戻ってくるのである。なんたるドラマチック句。


2024年5月29日

第7回自句自賛 ― 大事なことは全部『サザエさん』が教えてくれた


【課題】  「本日の季語・当季雑詠 其の二」


【季語に言いたいこと】
ひき続き「当季雑詠」ということで、春の景を詠みます。


【俳句】      「 燕風のごと吹き返し返しぬ 」


【句の背景あれやこれや】
喉の良さで言えばウグイスでも、飛ぶ姿の美しさならツバメだろう。
田んぼのまんなかに小さな外墓地があって、面倒を見ている。そこでひとり、のらくら草むしりをしていると、現れるのがヒバリとツバメ。ヒバリは空高いところにとどまって点にしか見えないかわりに、声はひびく。一方ツバメは大地に近く、春の陽気に湧いて出た虫を、身をひるがえしひるがえししながら捕食する。その黒く光る飛行軌跡は自在で、じつに小気味良い。
そうやってツバメを追い、ヒバリを見上げ、遠山をながめしているから、草むしりはちっともはかどらない。でも、こののどかさが良いんだよなあ。
そう言えば、朝日新聞に連載された『サザエさん』にツバメの登場する回があって、これが心にしみるの。四コマを順に紹介しよう。ちなみに掲載は昭和31年の梅雨のこと。

➀傘をさす男と合羽を着た少女が、雨の道を歩いている。
横からのショットで、二人の間には距離があり、どちらの顔も見えない。
➁雨脚は強い。うつむきがちな二人を、後ろから捉える。
➂再び横向きのショット。そこにツバメが、声をたてて飛び来る。
思わず見上げたのは、波平とワカメ。
➃傘の下に、並んで歩く背中。ワカメ「なんだ、おとうさんだったの」

セリフは最後のひと言のみ。雨音やツバメの鳴き声など、効果音も一切ない。この上なく静かな作品である。でもそうして多くを語らぬからこそ、父娘の深い情愛がにじみ出て、じんわりあたたかな余韻が残るんじゃないだろうか。
芭蕉は「言ひおほせて何かある」と諭したそうだ。俳句はすき間や余白が命なのだから、描きすぎてはいけないのだ。その極意をサザエさんから学ぶことになろうとは。やっぱり大事なことは全部、マンガから教わるんだろうなあ、現代の日本では。
そんな静寂に満ちた四コマ中、唯一のセリフ「なんだ、おとうさんだったの」、そこに僕は、作者・長谷川町子の父親に対する強い思慕を見てとる。と言うのも、『サザエさん』の連載初期では、無邪気で溌溂としたワカメがとりわけ印象的で、作者の少女時代が投影されていると思われるからだ。
気になって調べてみると、町子のおとうさんは、彼女が十三歳のとき、五年におよぶ闘病の末、病死していた。そのことをふまえたうえで読み返すと、味わいはより深まる。


【弁解あるいは激賞】
 そりゃ本人だって、いいのかな? と思ってますよ。ええ「吹き返し返しぬ」です。
句意としては、ツバメが身を翻し、また翻しながら飛ぶ様を、くるくると向きを変える風に譬えただけです。月並みな句です。でも、ただ譬えただけでなく、むしろ風そのものなのだから身体を「翻す」のではなく風が「吹き返す」だろうと表現したところが、オリジナル? なのかな?
散文にすれば「燕は風のように吹き返しては、また吹き返す」とでもなるだろうか。それを口語俳句で「燕風のごとく吹き返し返す」と詠むと、なんか変だ。理由は説明できないけれど、良くない気がする。
で、文語表現を使ってみようと思った。ところが勉強してみると、文語には時間を示すたくさんの助動詞があるという事実が判明してしまった。口語が「た」と「ている」だけで済ませている時間を、もっと繊細に感じ、表現していたのだ。うわぁめんどくさそう。
ところが、どの助動詞が一番ぴったりくるのかという試行錯誤は、洋服選びにあれこれ迷う楽しみと似ていたのである。そこへいくと口語って、ユニクロを着るかしまむらを着るかだけのように思えてくる。
で、現在進行しつつある事実を表すなら「ゐたり」を用いる。ここでは「吹き返し返しゐたり」となる。
そして、ある状態が続いていることを示すのが「り」と「たり」だ。「吹き返し返せり」とするか「吹き返し返したり」か。
あるいは、完了の助動詞ではあるけれども、その状態が続くというニュアンスを持つ「ぬ」を使うこともできる。「吹き返し返しぬ」だ。
本句の場合、意味から選ぶことは難しい。どれにもそれなりに理があるならば、字余りを避けることができる「返せり」か「返しぬ」の二つに絞ろうか。そうなれば、リズム的に「……し……せ」より「……し……し」のほうがきれいなので、「ぬ」に軍配が上がるのかなあ。
今回は、文語を使うって案外、楽しいとわかった。それだけでも自分を褒めてやりたい。


2024年5月22日

第6回自句自賛・「当季雑詠」其の一   要注意!春を急がす俳句界

【季語注釈】
遅ればせながら、頭の整理がついた。句の作りかたには二通りあるのだ。うん、本当に遅いけど。
自分で選んだ季語や内容を詠むのが「自由詠(雑詠)」で、提示された題をもとに詠むのが「題詠」である。題として出されるのは季語が多いものの、“家族”や“老い”なんてテーマだったり、“正”という漢字を入れで詠めなどと無茶ぶりされることもあるらしい。
それからすると、この企画は自分で季語を出題するので「自由題詠」だけれど、たまには今現在に季節を限定する「当季雑詠」に挑んでみようかな。
まずは、当季を詠むのだから、今がどの季節なのか分かっていないと。ほほう、俳句の世界では、二十四節気をもとに季節を区切るのか。立春から立夏の前日までが春、そこから立秋の前日までが夏、立冬の前日までが秋、立春の前日までが冬なんだと。
んっ待てよ、そうすると本稿執筆日は4月29日で立夏は5月5日だから、あと六日したら春の季語は使えなくなっちゃうじゃない。夏なんて、8月6日には終わっちゃうんだよ。だいじょうぶか俳句界? まあたしかに、たくさんのデコボコ・利害・清濁を呑みこまないと自然界に線を引くことなんてできないのだから、仕方ないけどね。
今年の春は、あと六日。ならば行く春を惜しみつつ、当季の景物を詠み尽くしてしまおう。というわけで、二句続けて掲載する。


「  鶯のケキョほめちぎり「切」ボタン     陽高」


【句の背景】
鶯は、本当に良いノドをしている。終演間際の能舞台に響く笛のように、澄んで良く通る声だ。そいつであの「ケキョケキョケキョ」という谷渡りを、しかもながーく引っ張られた日には、どうしたって聞き入ってしまう。鳴きだすたびに「いい声だなーっ」とひとりごちて、仕事の手が止まるのだ。
そうやって生き物の存在を感じていると、独りでいてもさびしくない。さらに言うと、それは命のぬくもりを持たない日月星辰でもおなじで、かつて李白は「月と影とを伴うて行楽すべからく春に及ぶべし」と独り飲みを楽しみ、平賀元義は「大公(おほきみ)の御門(みかど)國守(くにもり)萬成坂(まなりさか)月おもしろしわれ一人ゆく」と、女郎屋までの暗い道のりを鼻歌交じりに歩いた。敬愛する野尻抱影先生は、南アルプスの谷川に寝転んで夜空をながめていたら、ふと山奥に一人なんだと気づいてにわかに心細くなった。が、山峡に青白く輝くヴェーガを見つけて、「お前、そこに来ていたのか」と、頬をゆるめたのだそうだ。
そのように大自然がもたらしてくれる安らぎは、残念ながら人工的環境からは生まれない。生まれないどころか、歴史も浅くなんの思いも込められていないしろものの、あまりの空虚さに慄然とした経験がある。
ある金曜日、ゆえあって横浜に泊まらなければならなくなった。あわてて宿泊先を探したが、どこもびっくりするくらい高い。そんな中、高島町駅を最寄りとする格安ホテルを見つけた。高島町? 知らないなあ、と住所を見れば“みなとみらい”とある。そこって、夜景がきれいなおしゃれスポットなんじゃないの。しかも高島町駅って横浜駅と桜木町駅のあいだなんだ。泊まらせていただきます。
夜七時過ぎにチェックインして、どこかでご飯を食べようとホテルを出たのが八時前。いきなり不穏な空気が漂う。あたり全体が暗い。街灯はついているものの、高速道路と電車の高架が壁となって二方向をさえぎり、残りの空間はやたらデカくて愛想もなにもないビルが背を向けてならんでいる。そのビルの灯りはほとんど消えており、ひと気がないのだ。まだ八時だよ。いくら働きかた改革と言ったって……。
あてもなく歩きだす。それにしても、人いないなあ。会社帰りとおぼしき数人が、足早に駅へ向かうのが見えるだけ。角を曲がる。さらに暗い。闇に赤ちょうちん一つ灯らず、虚ろな目をした巨大なビルがぼおっと佇っている。なんだこの街は、実質的な廃墟じゃないか。黒くモヤモヤしたものが喉の先まで湧いてくる。そのワンブロック、八百メートルほどを一周する間に見た人間は一人。車は、仮眠中のタクシーと休憩中の清掃車の二台きりだった。
私はホテル脇のコンビニで、とろろ蕎麦を買って部屋に戻った。
災害や戦争で瓦礫となった街を見てショックを受けるのはわかる。でもまさか、窓ガラス一枚割れていない街から、ここまで心を傷つけられるとは想像もしなかった。
警告。テクノロジーこそが人類を希望にあふれる未来へ導いてくれると信じる人は、一度“みなとみらい”へ行ってみるといい。夜に。きっと、みらいが見えるよ。


【句評あるいは激賞】
句褒めを手短に。
説明不要、ストレートな自然賛歌である。
ふふっ、表記を工夫したな。カギカッコの中に“切”と入れることで、それが機械のスイッチだと視覚的に分かる仕掛けだ。
その機械が掃除機でも、草刈り機でも、テレビでも、スマホの呼出し音でも、そんなものは全部切ってしまって、皆で鶯の歌を聞こう。