真言宗豊山派安養院(栃木県栃木市の寺院)

2021年5月30日

先日の第93回アカデミー賞で『オクトパスの神秘』というタコ映画が長編ドキュメンタリー賞をとった。主役は映像作家とメスダコ。人生に疲れた男が南アフリカの海辺に建つ家に戻り、毎日潜るうち一匹のタコと親しくなる。いや、親しくなると言うより恋をする。だが男には妻子がある。タコは……タコだ。その恋の顛末をつづっている。恋をすると相手のことが知りたくなる。たくさん知りたくなる。という訳で、悲しいラブストーリーを鑑賞しながら同時にタコの生態まで分かってしまうという所がミソなのである。
私はタコ映画が受賞したと聞いて、世間もようやくタコの凄さに気づいてくれたのかと、心底うれしかった。実は私、タコにぞっこんなのである。事実、タコと植物と粘菌の研究に多くの時間を費やしてきた。残念ながら、成果らしい成果はほとんどあがっていないが。
なぜそんなにタコが面白いのかお話するには、まず坐禅について語らねばならない。

みなさんは坐禅を体験なさったことがあるだろうか?
感想をうかがうと、「気持ちがすっきりした」「心が落ち着いた」「足が痛かった」といったコメントと共に「どうしても無になれなかった」という反省もしくは失望が聞かれる。
私はこの“坐禅=無になる”という固定観念が人々を坐禅から遠ざけていると思うのだが、どうだろう。また余談ながら“坐禅=叩かれる”という思いこみも一度リセットした方がいい。坐禅会に参加すると、最初から最後までパンパンパンパンと警策の音が鳴りやまない。おそらくみなさん「せっかく坐禅するのだから、棒をもらって精神を叩き直してもらわないと」とお考えなのだろう。しかし、警策はアントニオ猪木の精神注入ビンタではない。それを事前によ-くお伝えしておくべきではないだろうか。
余談はこれくらいにして、ではこの坐禅、一番よく坐れるのはどんな時だと思いますか?
払暁、白昼、薄暮、深夜、暑い日、寒い日、さあどれ?


【ヴィーガンとは?】

ヴィーガンとは徹底した菜食主義のことで、肉や魚だけでなく卵も乳製品もとらない。
そんな食生活、とてもではないが単に健康のためとか流行りのライフスタイルといった軽い気持ちで始められることではない。
修行僧でもなければ誰かに強制された訳でもない普通の人たちが、なにゆえそれほどまで厳しい制限を自らに課すのか?
そこには資本主義に対する嫌悪、反抗、異議申し立てといった強い意志があるのだ。

スーパーで売っている卵は、狭い檻に閉じこめられた鶏が超ハイペースで産まされたものだ。
鶏たちはぎゅうぎゅう詰めでストレスがたまり、隣同士でつつきあう。だからヒヨコのうちに嘴を切り落としておく。そして産ませるだけ産ませたら、熱湯で殺してドッグフードにする。
牛乳は、歩けないくらい大きな乳房に改造された牛から搾り取る。出が悪くなったら百円バーガーだ。
そうした工場式畜産の裏にあるのは、人間は動物より強くて賢いのだから彼らを自由に利用してよいという思想。
ヴィーガンを選ぶ人は、それにノーを突きつけるのである。

際限なく作り出し際限なく消費させるという工場式畜産を回すのは、資本主義経済システムである。
資本主義は、常に外部を必要とする。労働力や資源を途上国という空間的周辺から掠め取り、放射性物質や気候温暖化がひきおこすツケを次世代という時間の向こう側に回す。
もう強者が弱者を支配し搾取するのはやめよう、そんなメッセージをヴィーガンは発信している。

ヴィーガンに向けられる批判でよく見られるのが、工場式畜産ではなく広々として健康的な農場で育てられた肉ならば食べても良いのではないか、むしろまともな農家を応援するために食べるべきではないのかというもの。そしてもうひとつが、資本主義にあらがおうとしても、その意見や思想自体がネットでも本でも資本主義システムの中で“消費”されてしまうのだから自己満足にすぎないというもの。
後者の指摘に対抗する新しい思想が紹介されたので、次回はそのお話を。なんでもかんでもからめとってしまう資本主義とはまことに恐ろしいものなれど、いい加減なんとかしなければ。



 
 




【出家者の食事、その歴史➁】
肉でも魚でも施されたものならなんでも食べたブッダの時代から数百年後。
インド社会では、菜食主義を標榜する宗教者が評価されるようになっていた。「平気で肉を食べる仏教者より、菜食のジャイナ教やヒンドゥー教の方が立派ではないか。美味追求の欲を抑え、自らを律しているのだから」と。
そこで仏教者の間でも、肉食をやめようという意見が出始める。

出家者は、瞑想修行に専念するため生産活動を一切行わない。現代的な言い方をすれば、生産性ゼロの人間たちである。
それでも存続できたのは、競争社会とは別の視点を提示することで心を癒すという機能に加えて、社会から外れても生きられるというセイフティネットの機能も期待されていたのだろう。
そうしたロールモデルはリスペクトされる存在でなければならない。だから肉食が軽蔑されるのであれば、やめねばならなかったのだ。

やがて肉食を禁ずる内容が盛り込まれた経典が見られるようになる。
たとえば『楞伽経』には、鳥獣は輪廻転生した父母かもしれないから食べてはいけないとある。もはや肉食自体が罪となったのだ。
中国に伝わったのは、そうして完全菜食主義になった仏教だった。
さらに中国の禅宗において、食事は独自の展開をみせる。
禅宗では、土中の虫を殺してしまうという理由でブッダが禁じた農耕を行い、自給自足を始めた。それにともない修行という概念の大転換が図られる。正しい心でのぞむなら、農作業だろうが諸々の雑役だろがすべての行為が修行になると説いたのである。
そこで禅林では、畑仕事、食材の管理、調理、食べ方、後片づけなど食事全般に目を配るようになった。精進料理の始まりである。


【出家者の食事、その歴史➀】


お寺で食される精進料理は、生臭ものを避けることからヴィーガン(肉、魚、卵、乳製品をとらない)の一種だと紹介されることもある。
確かに見た目は同じだ。でも根底にある思想はどうだろう。重なるのかそれともズレがあるのか、考えてみたい。

まず仏教教団における食事の変遷を追ってみよう。
ブッダの時代、仏教教団では何を食べるかは重視されなかった。
食事に関する決まりは二つで、托鉢で施された物しか口にしてはいけない、午前中しか食べてはいけないというもの。
たった二つとは言え、施された物しか口にしないというのは重い決断だ。世間から施しを与える価値がないと判断されたら生きてゆけないところまで、自分たちを追いこんでいる。
そんな状況では選り好みする余裕はない。肉をさし出されれば肉を、魚を施されれば魚をと、なんでもありがたく頂いたのである。
肉食に関して、初期経典『スッタニパータ』にこんなやりとりがある。肉を食べるブッダの弟子に、異教徒が疑問を投げかけるのだ。
(問い)おいしい鶏肉と米飯を味わって食べながら、あなたは「私はなまぐさ者を
    ゆるさない」と言う。あなたは、なにを「なまぐさ」だと考えるのですか?
(答え)生き物を殺すこと、盗むこと、嘘をつくこと、他人の妻に近づくこと、
    これをなまぐさと呼ぶ。肉食することがなまぐさいのではない。

出家者にとって殺生は最大の罪だ。だから虫を殺さないよう布で濾した水を飲むとか、自分に施すために殺したと聞いた肉は食べてはいけないとか、食にまつわる殺生に関わることを避けようとした。でも、肉や魚を食べること自体が罪だという考えはなかったのである。


2021年4月11日

安養院はほんとに小さくて貧しいお寺ですが、なんと、少し離れた場所に“山林”を所有しているのです。
まあ所有していると言っても、寺から離れていますし利用予定もないので、現地がどこなのか確認もせぬまま放置してきました。
でも、このコロナでアウトドアに目覚め自分専用のキャンプ場として山林を購入なさる方もいらっしゃると耳にして、にわかに興味が湧いたのでございます。正直に申せば、下心を持ちました。
で、古株のお檀家様に頼んで案内してもらいました。現地は山裾から少し上った場所で、広さは150坪ほど、整地してあって平らです。ただ平らは平らなのですが、天高く梢を伸ばした樹木が生い茂り、荒れ放題に荒れております。
そのどうにもなりそうもない藪を眺めて、「……なるほど」とひとりごち、目を伏せて踵を返そうとしたところ、一人の老婆が近寄って来るではありませんか。
聞けば、すぐ下の家に住んでいらっしゃって、屋根に覆いかぶさるように枝を伸ばした大木を見上げては、台風で折れて落ちてきやしないか、地震で崩れた崖もろとも樹に押し潰されるのではないかと日々、気をもんでいらっしゃるとのこと。
空を覆う樹々を見上げてまた、「……なるほど」と呟きます。
こうなったら仕方ありません。早速、業者に頼んで見積もり出してもらいました。
驚きました。樹木の伐採には、こんなにもお金がかかるものなのかと。重機を入れる道をつけ、樹をクレーンで吊って、寸断してゆきます。その費用ときたら数十万円です。
とはいえ、怯えるお婆さんをこのままにはしておけない。泣く泣く伐採をお願いした次第です。お陰様できれいな更地となりました。

これを機に、不要な山林の処分方法を調べてみたので参考までに載せておきます。
まず思い浮かんだのが、国や地方自治体に寄付してはという考え。財産が増えるのだからもろ手を挙げて歓迎されるものと思いきや、国だって市だって利用価値のないものを貰ったらりしないとのこと。そりゃそうですよ。今回のように出費ばかりかさむなんてことになりかねない訳ですから。
では売却は出来ないのか。山林買い取り業者のホームページで確認すると、もっと広い面積がないとお話にならないんだそうです。しかも材木になる樹が生えていたり、太陽光発電用地にできそうだったりと、何かウリがないと。こんな猫の額ほどの山では、とてもとても。
ならば独りキャンプ用地としてキャンパーに売るというのはどうか。それも炊事に便利な川が流れているなどの条件が整っていないと厳しいとのこと。なによりも自然を満喫するのが目的ですから、真下に民家の灯りが見える場所ではねえ。

今後、跡を継ぐ人がおらず廃寺になるお寺がたくさん出ると言われます。そうなれば、こうして放置された地所や境内地の問題だけでなく、伽藍そのものが危険な老朽家屋となってしまうところも現れるでしょう。そうなる前にどう処分してゆくのか、それとも再建するのか、住職の責任が問われています。