自句自賛12

2024年7月4日

第12回自句自賛 ― えっ、これが季語じゃないの?


【課題】 「本日の季語・蠍座」……これから蠍座は夏の季語とします


【俳句ルールへのぼやき】
 歳時記をひくと、季節ごとに「時候」「行事」「動植物」とならぶ中に「天文」という項目がある。昼夜様々な空の景色を季語としているのだ。たとえば夏の「天文」には“油照”“夕立”“虹”“西日”“夕焼”などが挙げられている。ところが「天文」と聞いてまっ先に浮かぶはずの星座や星の名前は、ひとつも記載されていないのである。まっ先に浮かぶか? という疑問には、とりあうつもりはありません。なんせ、中学生のとき天文部に所属していた僕がそう言うのですから。
 「天文」夏の部に、かろうじて“夏の月”や“夏の星”あるいは“旱星”はあるものの、熱帯夜に空へ這いのぼる“蠍座”も、みんな大好き“織姫”ヴェガや“彦星”アルタイルさえものっていないって、おかしくないですか?
 季語として認めない理由は、「冬の星座とされるオリオンも夏の明け方には東の空に昇ってきてしまうから」らしいが、まったく理由になっていない。“ラグビー”のリーグワンは五月上旬まで試合をしているし、グリコカフェ“ゼリー”は通年食べるけれど、それぞれ冬と夏の季語にしているじゃないですか。“朝焼”も“夕焼”も一年中見られるけれど、夏の季語としているじゃないですか。それが社会的認知というものだから、それはそれでかまわないと僕も思います。ただそういうことならば、一般的な感覚として、日没を待って空に昇り深夜に沖天にある星をその季節の星とみなしているのだから、獅子座は春、蠍座は夏、オリオン座は冬でなんの問題もないでしょう。それに世界共通で、かの星があの方角から昇ったらこの季節が訪れるというふうに、特定の星が季節を指し示す役を担ってきたことは事実です。なのに、俳句界はどうして星や星座名を季語とすることを拒否し続けるのか?
 もやもやした気持ちでネット検索をかけると、俳人・橋本多佳子が“オリオン”と“天狼(シリウス)”を季語に認定してたという情報がヒットして、僕は小躍りした。『橋本多佳子全句集』の季語索引にあるというのだ。
 ところが手元にあったそれを開いて脱力してしまった。たしかにオリオンと天狼はそこに記載されている。だが、この索引は多佳子自身の手によるものではなく、おそらく版元の角川の編集者が分類整理したものだろう。その証拠に多佳子は、オリオンも天狼も季語とは考えていない。オリオンの入った句は七つあって、それぞれ“冬の”“新年”“苅田”“修二会”“野火”“露”“除夜”という季語と共に詠まれているし、天狼が登場する二句も“山焼き”修二会“という季語がきっちり入っている。考えてみれば、あんな厳しい師匠・山口誓子にさからってまで星座を季語とする義理は多佳子にはないのである。
 誓子は、かなりの星好きだった。天文随筆家の野尻抱影と『星戀』なる共著を出版したほどの天文ファンなのである。だが、こと星座は季語としないという不文律に関しては、ごりごりの守旧派だった。だから、盟友であるはずの抱影が『図説俳句大歳時記』の天文の項の監修にかかわった際、“オリオン”“天狼”“すばる”を季語とした(さすが先生!)にもかかわらず、誓子がそれを是とした記録は残っていない。そして抱影にならって旧弊を正そうという動きも、ついぞ俳句界には起こらなかったのである。なんとかたくなな人たちだろう。

 ところで、そもそも季語は誰が選んでいるのか。歳時記の編集者である。で、その任にあたるのは俳人や文学者だとされるが、実際のところはどこの誰なのかよくわからない。本来なら、見識と美意識とをそなえた選考委員を選び、オープンな会議を開いて、取捨選択の理由を添えて選考結果を発表するくらいのことをしたってバチは当たらないだろうに。
 それはそれとして。新しい言葉が季語として認められるには、その言葉を使ったすぐれた俳句作品が広く知られることが不可欠だとされる。ならば僕が一肌脱ぎましょう。手始めに“蠍座”を詠んで夏の季語としたい。なぜ蠍座かって? 僕の誕生日が十一月だからです。
 蠍座は俳句ではあまりお目にかからないけれど、漢詩ではときおり題材にされてきた。
たとえば劉兎錫が白楽天に送った「天静かにして火星流(くだ)る 蛩(こおろぎ)響(な)きて偏(ひとえ)に井に依り」という詩はどうだろう。「火星」は蠍座のアンタレスで、「流る」は秋になって西へ下った様だ。
 また作者不詳だが「天高うして気象秋なり 海隅雲漢転じ 江畔火星流る」というのもある。海に天の川(雲漢)がそそぎこみ長江にアンタレスが落ちかかる、上海にほど近い潤州の夜景を描いている。
 このように漢詩の世界では、蠍座が西に傾いたら秋がやって来るというのがお約束なのである。ということは、アンタレスが高くにあるうちは夏も盛り、そんな感覚は日本も中国も共通しているのである。
 では新しい季語とするべく蠍座で一句。


【俳句】   「蠍座(さそり)天へ鯨のごとき島を釣る」


【句の背景あれやこれや】
 三十年ほど前のことだ。お盆休みに丹後伊根町の知人宅を訪ねた。知人宅と言っても、ただの家ではない。舟屋だったのである。二階建て家屋の下半分が海につかっていて、そこには船が収まっており、いつでも漕ぎ出せるようになっている例のあれだ。
 夕方、一緒にお墓参りへ出かけた。古びた共同墓地は、遠く海を見はるかす丘の上にあって、夕間暮れの沖には、たくさんの電球をまばゆいばかりに灯したイカ釣り舟が数隻、網を下ろしていた。あの夕照と電球の光は、いまでも脳裏に輝いている。
 日は暮れて、家人の歓待を受けた僕は、少しは遠慮すればいいのに、たらふく呑んで食べて、いつの間にか眠りこけてしまい、深夜に目が覚めるという失態を演じてしまった。とにかく、のどが渇いてしかたない。でも、深夜に台所へ行ってごそごそするのは気がひける。そこで、ジュースの自動販売機を求めて外へ出ることにした。
 海辺の町はまっくらで、見上げると星がぴかぴかまたたいている。
 うへえ、天の川ってあんなにくっきり見えるのかとあきれるほどに。
 そのとき、あるかないかの波が舟屋を洗って、ちゃぷんと音をたてたのである。

  「夏銀河とぷん舟屋を漱ぎしか」

 船着き場まで行ってみようと思った。そこなら販売機がありそうな気がしたのである。
 川瀬巴水の版画のような藍色の空に黒々と沈む大地。星明りの道をたどる自分が、だんだんと昔ばなしの中の人物のように思えてくる。
 船着き場に着いた。生ぬるいけれども頬に風を感じる。その風がやって来る沖に目をやりギョッとした。
 まんまるい鯨のような島影が、ヌッと海から浮かびあがったように見えたからだ。
 そしてその上には、巨大な弧を描く釣針が輝いていたのである。
 ポリネシアではマウイがニュージーランドを釣り上げた針だとされ、瀬戸内では魚(うお)釣り星あるいは鯛釣り星と呼ばれる蠍座。でも伊根では、鯨釣り星以外の名前はまず考えられない。ひとりうなずいた夜だった。


【弁解あるいは激賞】
 俳句は「てにおは」が大事だ。情報伝達の面からも、句から受ける印象の面からも。当句でいうと「天に」とするか「天へ」とするか。
 どっちでもいいように思うかもしれないが、「に」だと「天に昇って」の意味と「天にあって」の二つの可能性が出てきてしまう。でも「へ」なら「天へ昇って」に限定されるので、夜天をめぐる星々の動きを詠まんとする作者の意図が明確になるのである。