自句自賛11

2024年6月25日

第11回自句自賛 ― やっぱり俳句で爆笑は取れないのか?


【課題】 「本日の季語・蛸」……蛸は夏の季語でよいのだろうか


【俳句ルールへのぼやき】
 ルールその二、俳句はまじめに詠まなければならない。
 それは重々承知しておるつもりですが……。
 前回、まじめに笑いをとりにいったにもかかわらず苦笑い止まりだったことが、どうにも不本意でしかたない。やっぱり爆笑を取らないと、笑わせたことにはならないと思う。というわけで、もう一度だけ無謀なチャレンジを許して欲しい。
 まあ、そうして無茶しようとするからには、秘策がないわけでもない。コメディとホラーは紙一重という理論を利用しようと思うのだ。
 一見、笑いと恐怖は対極にあるように思える。ところが両者は、構造が驚くほど似ているのである。
まず笑いは、緊張が緩和することによって生まれる。テンションをかけられた空気が、ボケることで緩み、プッと吹き出してしまうのだ。ならばボケとは何かと言うと、意外性なのである。こう来るだろうとふんでいたら、あさっての方角から来たみたいに。
 では恐怖はどうか。それは緊張の高まったところで、異常な何かがドーンと現れることで精神がザワつくことだ。異常な何かというくらいだから、ボケと同様、常識を外れれば外れるほど、意外性があればあるほど怖さは増す。ただし、あまりに逸脱の度が過ぎると、怖さを通り越して笑いに変わってしまうから匙加減が難しい。たとえばサム・ライミ監督の『スペル』のように、受難者であるはずの女性が、あまりに不屈のメンタルを持ち闘争心むき出しで屈強だと、もろコメディになってしまうのである。
 そこらへんに注意しつつ、笑いと恐怖がない交ぜになった爆笑句を詠んでみようと思う。

 それはそれとして、季語への疑問を。今回のように具体的な生物でありブツである季語の場合、季語認定者が想定するモノや過去の俳人が詠んだそれと、現時点で詠みこまれたモノとの間に重大なズレが生じるケースが、近年特にありはしないだろうか。
 たとえば“韮”はどうだろう。春の季語のニラだ。実家ではよく、包丁片手に庭先に出てニラを刈り、卵でとじて吸い物にしたが、取れたてだから香り豊かで、食欲がないときでもスッと口に入った。でもそうして香りが強いわりに舌触りはやわらかで、胃腸にやさしく感じたものだ。
 ところがここ二十年で、商品としてのニラはまったくの別物になってしまったのである。全然、嚙み切れないのだ。そうしていつまでも繊維が残る理由は、おそらくF1種だからだと僕はふんでいる。かつて加藤秋邨は「忘れんや韮噛んでわかれゆきし日を」と詠んだらしいが、もしこれが昨日今日作られた句なら、秋邨はニラをずーっと噛み続け、それでも噛み切れず、夜になってあきらめてペッと吐き出したということになるだろう。ある意味、忘れ得ぬ記憶かもしれないが、句のおもむき、味わいは決定的に変わってくるのではないか。
 おなじことが蛸にも言える。現在、日本で消費される蛸の六割は輸入品で、はるばるモロッコあたりから来たものなのである。それを蛸あるいは章魚と表記してこれは夏の季語です、と平気な顔で言ってよいものやら。
 なにも国産品でなきゃ食わないぞとか、現代農業はなっとらんということではなく、いま少し季語とされるモノの中身の変化と、そのことによる共通イメージの変容に敏感になって、それらを通して社会のありかたを考えることも大事なんじゃないのかと思うのだ。初学の者だからこその正直な感想である。
 と、大上段に振りかぶったあとで非常に気まずいけれどもしかたない、爆笑句を詠みましょう。


【俳句】   「歯に海苔が、教える君の歯にタコが」


【句の背景あれやこれや】
 ひとに、あやまちや不都合な事実をしらせることは難しい。僕は苦手だし、大多数の人もそうなんじゃないだろうか。
 その証拠に、スカートの片方がパンストに挟まって半分お尻が見えている女性をたまに目撃することがあるけれど、みんな見て見ぬふりをするのだ。きっと、その人があわててトイレに駆けこんだところや、その後の顛末を想像してしまい、どう伝えたところで恥をかかせることになると、二の足を踏んでしまうにちがいない。
 ましてやそれが、向こうから先に「ズボンのチャックが全開ですよ」と耳打ちしてきたのだとしたら、もう絶対に「そう言うあなたはお尻まる出しですけどね」とは言えないのである。
 だったら……やっぱり先に教えてあげたほうがいいのか。そして万が一、向こうから先に指摘を受けたとしても、ひるまず事実を告げようではないか。たとえ頬を打たれようとも、世界を敵にまわそうとも。
 むかし、皮肉屋のイギリス人がこう言った。
「遠い呼びかけには、精一杯大きな声で応えよう。沈黙というのは、とてもさみしいものだから」


【弁解あるいは激賞】
 この句のポイントは、相手の歯に何を挟ませるのか、である。
 もし「教える君の歯にアリが」だと、純粋な恐怖しかわいてこない。ホラーになってはいけない。
 ここはタコだからこそ、俳味が出るのである。タコが季語だということではなく。
 海苔(青ノリ)とタコときたら、二人が食べたものはタコ焼き以外に考えられない。それくらいシャーロックホームズでなくともわかるはずだ。ならば舞台は大阪だろう。で、あなたの歯についた青ノリを見て眉をひそめる彼女に、そう言う君の歯にはタコが挟まってるよと、指摘できるのかがここでは問われているのだ。この場合、教えても教えなくても大変なことになるのは目に見えている。けれども指摘しなければならないのである。彼女を本当に愛しているなら。でもなあ、やっぱり心配だよなあ。
 大阪、夏、人間関係のもつれとくると、文楽『夏祭浪花鑑』の幕が開く。語りは六代目竹本織大夫にお願いしたい。泥まみれになって義父を惨殺する田七。刺青、血糊、遠く近くだんじり囃子が響き、暗闇に祭りの灯がちらつく。まるで、あなたと彼女の運命を暗示するかのようだ。いかん。どうしてもホラーになってしまう。
 ギャク句の壁は厚い。