自句自賛14

2024年7月20日

第14回自句自賛 ― オーバーツーリズムを解消する方法


【課題】「本日の季題・鱧」…鱧も鰻も穴子も、蛇みたいな魚はみんな夏の季語


【俳句ルールへのぼやき】
 お気づきだろうか、【課題】の下の記述が変わったことに。前回まで「本日の季語・○○」としていたのを、「本日の季題・○○」と直したのです。
 独学のむずかしさは、遠回りしなければならない点にある。先生に教わればスッと通れるところを、あっちでぶつかりこっちに落っこち足踏みしと、進歩のスピードが格段におそい。それで嫌になってしまう人だっているだろう。だから師について学ぶほうが確実かつ効率的なのは、まちがいない。でも失敗して、そこに気づきがあって、色々工夫する楽しみというのもあるんじゃないかなあ。
 と、強がりはそれくらいにして。ご報告です。僕は「季語」「季題」「傍題」「子季語」それぞれの区別がついていないことが、今さらながら分かりました。
 「季語」は、特定の季節をイメージさせる言葉。それに対し「季題」とは、題詠の際、題として提示された季語のことをさす。題詠では、季語ではない題が出されることもあるのだ。たとえば“家族”というテーマで詠めとか、“地名”など固有名詞を入れろとか、“初”という漢字を詠み込めとか。そうした様々な出題パターンがある中で季語を題とするとき、その季語が季題と呼ばれるのである(ということが分かった)。
 そして季語には、種々のバリエーションを持つものがある。そのバリエーションを「親季語」に対する「子季語」と呼ぶ。なのに歳時記では「(主)季語」に対する「傍題」なんて書きかたをするので、両者の関係性が曖昧になってしまうのだ。正しくは、「季題」とおなじく題詠に使われてはじめて「傍題」となるはずなのにね。だから歳時記は「傍題」なんて書くのをやめて、「子季語」あるいは「従季語」としたほうがいいですよ。さっき理解したばかりの人間が言うのもなんだけど。
 というわけで、わが自句自賛では「本日の季語」ではなく、正しく「本日の季題」と改めることにします。

 その「子季語」は、大まかに言って四種類に分けられる。おなじこと・ものの別名が➀。おなじことだけれど別の表現が➁。ちがうこと・ものだけれど仲間とみなせる語が➂。親季語に関連する言葉が➃だ。
➀別名の例……親季語「年の暮」に対する子季語「年の瀬」「歳晩」「年末」
➁別の表現の例……親季語「短夜」に対する子季語「明易」
➂仲間の例……親季語「雑炊」に対する子季語「おじや」
➃関連語の例……親季語「蛍」に対する子季語「流蛍」
 今回の季題“鱧”にもいくつか傍題として詠むことができる言葉がある。“水鱧”“鱧の皮”“祭鱧”がそれだ。僕はどの言葉も知らなかった。ちなみにそれぞれの意味だが、水鱧は瀬戸内や大阪湾で獲れる小ぶりのそれ、鱧の皮は捨てられる部位を生かした料理で始末屋のイメージ、そして京大阪の夏祭りのころ旬を迎えるので祭鱧と呼ばれるのだそうだ。いずれにしろ、鱧は西の魚なのである。


【俳句】   「京暮れてハモっと柔く白きあり」


【句の背景あれやこれや】
 鱧の旬は、年に二回あるとされる。
 最初の旬は、産卵前の六、七月。ちょうど梅雨の期間と重なるので、「鱧は梅雨の水を飲んでうまくなる」なんて言われたりする。そして関西の七月と言えば祇園祭。まさに子季語“祭鱧”のとおりなのである。
 僕は大学の四年間と社会人の三年間、合わせて七年を京都で過ごしている。だから祇園祭にはたくさんの思い出があるのだけれど、中でもその運営を引き受ける京都人とはどういう人たちなのか思い知らされた出来事がある。
 入学してしばらくたってからのこと。友人を合コンに誘ったら、ピシャリと断られた。あまりにも毅然とした口調に興味がわいて理由をたずねると、「祇園祭のお囃子のお稽古があんねん」と言う。当時はバブルも最高潮で、ディスコやカフェバーで女の子とフィーバーしなきゃナウなヤングにあらずと誰もが信じていた時代だ。なのにお囃子? お稽古? それは僕にとって、時代に流されることのない価値観を内面化させた人間=京都人に、初めて触れた経験だった。
 その友人は卒業後、総合商社に入り、海外勤務を命じられてパリへ飛んだ。
 どうにかこうにか銀行に入れてもらえた僕は、そのまま京都の支店に配属された。店は四条河原町の交叉点角に建つビルまるごとで、祇園祭の辻回し見物の特等席となっていた。
 山鉾巡行の日。新入社員の僕は、お得意様をビル上層階にしつらえた観覧席に案内したり、黒山の人だかりとなった店前の交通整理をしたりと、お祭りなんていい迷惑だとぼやきながら一日を過ごした。
 それから間もなく、例の友人から連絡が入った。
「おまえ、こないだガードマンみたいなことしとったな」
「なんで知ってるの」
「見とった」
「だって……パリじゃ?」
「入社のとき会社と契約してん。なにを押しても祇園祭には出るって」
 友人は、店のガラスを割らんばかりに圧をかけてくる人波を必死になって押し戻す僕を、鶏鉾の上に乗って笛を吹きながらながめていたのだと言う。
「おかげで調子狂いそになったわ」
 その後、アフリカ駐在となってもニューヨークにいても、彼は祭りの始まるひと月前には帰国し、ピーヒョロリーと吹き続けて今に至る。
 お正月にスーパーで七草粥用の草ミックスが売られるのだが、“京七草”と書かれたパックは、ただの七草パックより五百円ほど高い。見た目はおなじでも、京と付いただけで五百円も値が上がるのだ。なのに売れ行きは断然、京都の草のほうがいいときている。それじゃ天下の総合商社といえども、京都人には頭が上がらなくたってしょうがない。
 ただ、橋本多佳子が祇園見物で詠んだ「祭笛吹くとき男佳かりける」だけは、どうしても受け入れたくない。良く言い過ぎだと思う。

 京都はいま、オーバーツーリズムに苦しんでいる。観光客がドッと押し寄せて、収拾つかなくなっているのだ。それは世界中の観光地に共通する悩みなのだが、これという解決策を誰も提示できていない。ならば、思い出の地・京都のために僕がひと肌脱ぎましょう。
 観光客のお目当ては、写真を撮ることだ。江ノ電の踏切と海、富士山とコンビニ、ビグブルマンに選ばれたラーメン屋、誰かがネットにアップした素敵な写真とおなじものを自分も撮りたくてたまらない。僕からしたら、そんなのナンセンスでしょう。他人がアップしたのならそれでいいじゃない。なんでかぶせる必要があるの。どうしてもネットに上げたいなら、まだ誰も撮っていないスポットとか新しい楽しみを提案するほうが、見る側だって飽きずにすむだろうに。だから「おなじ写真を撮ってアップするなんてつまんないことだよ」と、インフルエンサーたちに言ってもらおう。どんどん。
 旅行に限らず、バズるとか言って、なんでもかんでもドッと人を動かすネットコミュニケーション自体よろしくない。このところ映画の興行収入を見るとおどろく。話題となった作品は百億円を軽々と超えてしまうのだ。せいぜい、三、四十億円ってとこでしょうという出来でも。
 みんなインフルエンサーや有名人の意見を信頼し過ぎるんじゃないか。ハメルーンの笛吹きじゃあるまいし、権威ありそうな人が「良い」と言えばドッと飛びつき、そこから先はどこをどう褒めるのかというコミュニケーションしか存在しない。そのコンテンツが本当に良いのか、吟味する手間をはぶいてどうするの。もうこうなったら、インフルエンサーや有名人を総動員して、言いまくってもらうしかない。私の言葉を鵜吞みにするな、権威を疑え、問いつづけろって。そうしてみんなの意識が変われば、オーバーツーリズムだって早晩、解決するでしょう。

 あぁ、鱧のもうひとつの旬の話だった。二度目の旬は、夏場に産卵して、冬眠にそなえて爆食いする十、十一月にやってくる。
 突然ですが、僕は淡路島が好きだ。ひとつの理由は、谷崎潤一郎の『蓼食う虫』で淡路洲本を舞台に描かれる、小屋がけの文楽をぶらぶらと見に出かけるような、のんきで満ち足りた風情がまだ残っているから。そしてもうひとつは、鱧が抜群に美味しいからだ。
 むかし淡路の民宿で食べた「鱧すき」がもの凄かった。薄口醬油ベースでほんのり甘めの出汁を鍋にはり、掛け値なしに甘い甘い淡路玉葱をざく切りにして放りこむ。そこに骨切りした鱧を、これでもかというほど落としてゆくのだ。それは本当に尋常ではない量で、たとえるなら麻婆豆腐の豆腐、いやチーズフォンデュのチーズくらいの割合で鱧が鍋を埋めつくしている。またその味ときたら、もう。
 そんな淡路とくらべてしまうと、どうしても京都のそれはみみっちく思えてしまう。ツンとすましたお皿に、湯引きした鱧がちょこっと。でもなあ……その姿のきれいでなまめかしいことぉ。
思わず、
「他人(ひと)の女(ひと)のくちびるに鱧息止まる」
なーんて、どこからわいたのか自分でも信じられないような艶っぽい句が浮かんでくるほどに。
 魚偏に豊で鱧。その身は艶なる白さ柔らかさを持つ。


【弁解あるいは激賞】
 出だしの「京暮れて」から心をつかまれる。京都の夏は、釜の底に押し込められたような暑さだ。でも日がな一日、耐えたからこそ、夕暮れ時のわくわく感が一層高まるのである。先斗町で軽く飲るか、それとも鴨川の床に出ようか、祇園の小料理屋って手もある。そんな浮きたつ気分を、良く表している。
 そこで供されるのが、白さもまぶしい鱧の湯引きだ。ふわっとして、弾力があって、ほど良い脂のコクと旨味がたまらない。
 そして最後に「あり」と高らかに宣言して終わる見事さ。「あり」は、ここぞというときにしか使ってはならぬ言葉だ。虚子の「鎌倉を驚かしたる余寒あり」とか、草田男の「はまなすや今も沖には未来あり」のように。
 やはり、京都で鱧だから許される表現なのである。