自句自賛18

2024年8月24日

第18回自句自賛 ― 芭蕉ミを出せ!


【本日の季題】 「蜻蛉」…秋だけど、これをトンボと読ませるのはどうか?


【本日の調理法、あるいは俳句ルールへのぼやき】
 若者の間で流行する独特の表現を“若者ことば”と言う。年末になるとランキング形式で発表されるそれらを見て僕は、ひとつも知らないなぁとがっかりするのが常だ。
 いちおう意味は調べてみるけれど、使おうなんて気はない。いい歳をしたおじさんが「それ、かわちい」などと口走るのは、一般人が「ザギンでシースーでもつまむ?」なんて言うのとおなじくらい恥ずかしい、それくらいは心得ている。
 でもごくまれに、魅力的な表現があったりするからこまってしまう。たとえば「○○み」がそう。「共通テスト全然できんくてヤバミだわ」とか「その気持ちわかる。ワカリミしかない」などと使用するらしいが、なかなかニュアンスに富んだ言い回しだと思う。どうしても使ってみたくなって、若者を相手に「この辛子明太子、ピリミが強いね」と笑いかけたら、「それ、ちょっとちがうと思います」とたしなめられた。
 じゃあ「○○み」ってなんだよ! ムッとしてネット検索をかけた。
 それによると、形容詞に「み」をつけることで名詞化がはかられるのだそうだ。「旨い+み=旨み」や「深い+み=深み」など、まあよくある表現だ。ところが若者ことばの場合、耳なじみのない「形容詞+み」であったり、ルールを曲げて「動詞+み」としたりする。そこが新しいのだ。
 そうした耳なじみのない「形容詞+み」の多くは、これまで「さ」をつけて名詞化していた。「やばさ→やばみ」や「うれしさ→うれしみ」などだ。
 では「さ」から「み」に変えることで、どんな効果が生まれるのだろう。

 以下、茂木俊伸先生のサイト『ことばの疑問』を要約する。
 「さ」による名詞化は、「その状態の程度」や「その状態である様子」を表す単純な意味の名詞を作る。一方、「み」による名詞化は、知覚できる感覚のような特別な意味を表す名詞を作る。つまり単なる名詞化ではなく、実感を伴った名詞化が「み」なのだ。

 なんだか実感のわかない説明だな。しかたない、自分で考えよう。
 耳なじみのない「形容詞+み」で思い浮かぶのは、意外にも松尾芭蕉だ。芭蕉の言葉を伝えた『三冊子』に「新しみは俳諧の花なり」とある。えっアタラシミ?
 そして、新しみを出すための秘策が「軽み」なのだ。晩年の芭蕉は「軽みだ、軽みだ」と盛んに唱えたとされる。たしかに“重み”はよく使うから、その反対があってもおかしくはないけど。カルミねえ。
 おそらくこのように、昔からたくさんの耳慣れない「○○み」が作られてはちょっとだけ流行り、すたれてきたんじゃないだろうか。
 それはそれとして。ここでも疑問に思うのは、どうして芭蕉は「軽さ」ではなく「軽み」としたのかという点だ。

 この「さ」と「み」問題を解く鍵は、名詞化という作用にあると思う。
 先ほど「形容詞+さ」あるいは「形容詞+み」で名詞化がおこるとの説明があった。では「新鮮み」や「諧謔み」や「けれんみ」はどうだろう。これは「名詞+み」なのだ。名詞をあえて名詞化しているのである。
 そこで着目したいのは名詞化の“化”のところ。要は「新鮮」という足しも引きもできない概念に「み」をつけることで、度(・)合(・)い(・)を表すバロメーターに変わるということなのではないだろうか。そして、そうした変化は「さ」ではおきないのだ。
 たとえば「おもしろさを感じない」という場合の「おもしろさ」はその人の中の確固たる基準だが、「おもしろみに欠ける」の「おもしろみ」は度合いの問題なのである。そして「わかりみしかない」は、パーセンテージの針がぐるっと回って百パーセントに達するイメージなのではないか。
 そして芭蕉の「軽み」だが、あえて「○○み」という表現を使ったということは、句作においても人生においても、放下し、執着を捨て、軽くなろうとする精神が大事なのであって、結果として軽み度3%の句になることも軽み度99%の句になることもあるよと言いたかったのではないか。だって芭蕉の句なんて軽いものから荘厳に思えるものまで、本当に幅広いもの。
 で、最後に言わせてもらえば「明太子のピリみが強い」は全然アリです。それ、れっきとした若者ことばです。


 話は変わって、またまた歳時記に言いたいことがあるのだ。トンボの表記についてである。
 トンボは、古くはアキツもしくはアキヅと呼んでいた。『日本書紀』に神武天皇が国見して「蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)の如くもあるか」と、のたもうたとある。ところが平安末期には『梁塵秘抄』や『袖中抄』にあるように、トウバウもしくはトバウと呼びかたが変わっている。いつごろからか子どもたちがそう呼び始めて広まり、アキツを駆逐してしまったらしい。なぜトバウなのか(発音はトボー)諸説あるが、僕は「飛ぶ棒」だからだと思っている。
 そのトバウが室町時代には「ン」の入ったトンバウになり、トンボと縮まったのは江戸中期だ。
 つまり蜻蛉はアキツにあてた字なのであって、それをトンボと読ませるのは、肌色と書いてウスダイダイイロと読ませるようなものではないだろうか。そもそも、古典に『蜻蛉日記』があるのだから、まぎらわしいではないか。
 そんなことを言うと、だから歳時記ではカゲロウを“蜉蝣”と表記するんですと反論されるだろう。いや、そういう話ではなく、トンボは和語なのだし、諸々の経緯があるのだから無理して漢字で表記する必要はないんじゃないですかと言いたいのだ。“トンボ”もしくは“とんぼ”で何の問題もないでしょう。せめて、そういう議論くらいはしたほうがいいと思うのだが。
 俳句の先生には、なんでもかんでも歳時記の通りが良いとする、歳時記信奉者がいる。表記についても「歳時記にならったほうがいい」と判で押したように繰り返すだけ。それって「広辞苑にこうある」と胸を張る政治家みたいじゃありませんか。ほかの人がどう言っているかではなく、あなたの見識や美意識を知りたいのに。そういう先生に会うと心底がっかりしてしまう。
 気をとり直して軽み、芭蕉み、新しみのある句をひねりましょうか。


【俳句】 「蜻蛉」で一句

「トンボ高く旅に出なよと急くように」


【句の背景あれやこれや】
 久しぶりに、芭蕉の足跡をたどる旅がしたくなった。
 僕は俳句を詠みだして半年足らずだが、芭蕉研究歴は長いのだ。
 どれくらい長いかと言うと、そうね……古本屋をまわって、幸田露伴の評釈芭蕉七部集をそろえた。そのうちの五部は未読だけど。それから出羽三山もめぐった。肝心の月山登頂は、ふくらはぎが裂けそうになって途中棄権してしまったが。姨捨で田毎の月を眺めたし、吉野のとくとく苔清水は手にすくって飲んだ。もちろん幻住庵にもおじゃましてます。おまけに芭蕉好きが高じて『はせを!』というタイトルの漫画脚本まで書いてしまったのだ。採用されなかったけれど。
 芭蕉の人生は、とにかく波乱万丈だった。いつかNHKの大河ドラマになると踏んでいるくらいに。
 貧しい家に生まれた芭蕉は武家奉公に出され、最下級の小者中間としてこき使われていた。ところがどういうわけか、主の嗣子である藤堂良忠にかわいがられることになる。そのかわいがられっぷりがはんぱではなく、五千石を取る藤堂家の跡取り息子が下男の半七(当時の芭蕉の呼び名)を俳諧の連衆として同席させるだけでもどうかと思うのに、有名俳諧師・北村季吟に入門する労まで取っているのだ。おそらく二人は恋愛関係にあったと思われる。強過ぎる主従の絆が生んだ忠臣蔵事件が起きるまでまだ五十年もあるこのころ、戦国の世で「忠義の愛」「兄弟の絆」と呼ばれた男性同性愛は、変わらず受容されていたのだ。
 その後、色々あって江戸に出た芭蕉は、日本橋の町名主代行にうまいことおさまる。くわえて神田上水の浚渫作業代行というベンチャービジネスを始め、ちゃんと軌道に乗せている。そして俳諧師として華々しいデビューも果たし、我が世の春を謳歌していた。意外にも若き日の芭蕉は、上昇志向の強いかなりぎらついた人間だったらしい。
 ところがである。田中義信先生の研究では、さあこれからガンガンのして行くぞというこの場面で、妻(ただし内縁)を甥っ子に寝取られ、駆落ちされてしまったという。ひょっとするとお金だって持ち逃げされたかもしれない。吉原あたりで遊んでほろ酔いの上機嫌で帰宅した芭蕉が、がらんとした部屋に立ち尽くす姿が目に浮かぶ。
 当時、不義密通は死罪と決まっていた。噂が広まれば二人の命はない。憎いながらも息子のように面倒をみてきた甥っ子だ。芭蕉は藩に「甥は死にました」と偽りの報告を出し、自らはすべてを捨てて深川に隠れ住むことを決断する。それからは悔しくて苦しくて、のたうち回る日々が続いた。
 そんな中で禅と出会い、再生のきっかけをつかむ。そして俳句に開眼したのだ。そのあとはずっと旅暮らし。一所不住を貫いた。以上が略歴である。


 そんな芭蕉がした旅の中で、僕がとりわけ好きなのは『おくのほそ道』と『笈の小文』だ。
 禅は傷ついた芭蕉の心に深くしみこんだようで、『幻住庵記』に「夜座静かにして影を伴ひ、罔両に是非をこらす(闇の中に坐禅し、迷いと悟りを観ずる)」とあるように、ひたすら坐禅にうちこんだ時期もあった。
 そして仏道修行には、坐って行う瞑想のほかに、歩きながら行う瞑想もあるのだ。大宗派にはさほど広まらなかったが、自然崇拝の流れをくむ修験山伏はそれを積極的に取り入れた。山を駈ける“抖擻行”である。僕は『おくのほそ道』の旅の最大の目的は、出羽三山で抖擻修行を体験することにあったとにらんでいる。
 山形の北部にある羽黒・月山・湯殿の連山は、歴史ある修験道場だ。でも二千メートルになんとす月山には夏期しか登れない。五月半ばに江戸を発った理由は、月山登頂の時期を見計らってのことだと考えられる。そして神仏混交の修験道場を訪ねるにあたり、寺育ちで神道も学んでいだ曾良を従者に選ぶのは至極当然のことだろう。
 芭蕉は三つの山で一句づつ詠んでいる。その句をたよりに、修行の軌跡とその成果を追ってみたい。

  <羽黒山>
 羽黒の神域は急な下りから始まる。木の下闇へと降りてゆくその坂は、さながら冥府降下だ。
 谷底に着くと小さな瀧がしぶきをあげている。清冽な水で身を清め、杉の巨木が生い茂る森へと分け入ってゆく。
 やがて現れる延々と積み上げられた石段を、黙々と登る。
 羽黒山の標高は約四百メートル。二時間もあれば山頂に至る。だがそこに見晴らしはない。この閉じられた空間で、人は己と向き合うこととなる。羽黒は来しかたをふりかえる禊の山なのだ。
  「涼しさやほの三か月の羽黒山  芭蕉」
 この句、一般的には「羽黒の山に三日月がかかっている。夕暮れの山気が、涼やかで心地良い」と解釈される。
 でも、ちょっと待ってほしいんだなあ。芭蕉は仏教に触れて人生観が変わったのだ。ましてやこの句は修行の最中に詠んだもの。仏教的解釈をふまえずして真意を汲むことはできないのではないだろうか。
 まず“涼しさ”であるが、これは単なる涼気ではない。たとえば道元禅師は“すずしさ”をこんな風に詠んでいる。
  「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり  道元」
 四季折々の景物に触れて心は動く。そうした繊細さ、鋭敏さは、ともすれば心の乱れにつながってしまう。では目をつぶり耳をふさいで石のようにならねばならぬのか。いや、たとえ美しいものに触れて感動したとしても、それに執着さえしなければ涼やかな心でいられる。そんな意味だろう。
 それに比べて芭蕉の“涼しさ”は、そこまでふっ切れていない。むしろ荒涼と言うか、うらさびしいと言うか、奥底に疼く痛みすら感じる。
 そう考える理由は“月”にある。仏教で月は悟りを意味するが、いま羽黒にかかる月は皓々と照らす満月ではなく“ほの三か月”なのである。
 それは和泉式部の月に通じる。道ならぬ恋に身を焦がし、疲れ果てた式部が詠んだあの月。
  「くらきよりくらき道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月  和泉
   式部」
 遠い山の端にのぞく月の淡い光は、仏が垂れる救いの糸だ。芭蕉の“ほの三か月”にも、悟りへの願いが込められている。これは祈りの句なのである。

  <月山>
 月山は二千メートルにはわずかに足りぬものの、堂々たる山塊である。庄内側から見た山容は、うずくまる巨牛に似ている。その標高と豪雪の重みが高木の生育を妨げるため、山肌を覆うのは笹原や落葉低木のみ。だから羽黒から一転、さえぎる物のない明るい見晴らしが広がる。
 羽黒を越えた先にある月山の登り口から見上げれば、尾根は山頂に向かってまっすぐに伸びている。まるで天へと昇る一本道だ。そうして行者たちは、うずくまる牛の背を尾から頭に向けて歩いて行く。
 元禄二年の七月二十二日(太陽暦)、四十六歳の芭蕉は修験行者のいでたちで月山に登った。その時のことを『奥の細道』にこう書いている。
 「雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあ
  やしまれ、息絶身こごえ……」
 夏の空は澄み、晴れ渡っている。だが行者返しを越えてモックラ坂に出るころには、冷たい風が吹き始める。はるか先、頂上の小尖を雲の波が洗っては流れ、洗っては流れしてゆくのが見える。芭蕉は一歩また一歩と登った。
「さぁーんげ、さんげ、ろぉーっこんしょーじょう、ろっこんしょうじょう」
 その歩みは頂をはるかに越えて、蒼天の彼方まで行かんとす。
 羽黒が自己の内面に下りて行くプロセスだとすると、月山は自己という境界が破れ、解き放たれてゆく経験なのだ(と思うのだが、途中棄権したのであまり強くは言えない)。
 夕刻、凍える身体を抱きながら芭蕉は頂にたどり着いた。
 日は暮れ、空に月がかかる。
  「雲の峰幾つ崩て月の山  芭蕉」
 この句は「炎天にそびえる雲の峰は、太古のむかしからいくたび興亡を繰り返してきたのだろう。夕月夜の月山にいると、そんなことが思われる」と解釈されるが、やはり物足りない。
 仏教では雲は迷いを、月は悟りを表す。登りながら悩み苦しみが湧き出して幾つもの雲の峰となって見えたのだ。だが、それも崩れ去ったのである。
 その夜、芭蕉は山頂に泊まる。

  <湯殿山>
 板を斜めに合わせただけの小屋にもぐりこみ、ふるえながら一夜を明かした芭蕉は未明、湯殿に向けて発つ。
 天に向かってまっすぐに伸びる月山は、頂を越えると急角度で湯殿側に落ちこんでゆく。つまり、湯殿に降りるには崖をつたわねばならないのだ。眼下は千尋の谷、岩をつかむ手に力が入る。二時間ほどの難業をへて、芭蕉は谷底に降り立った。
 ぐるりと切り立つ岩にかこまれた湯殿は神仙幽谷を思わせる。そして沢を轟々と流れる水は冷たく澄んで、清浄な気を立ちのぼらせている。
 芭蕉は、しばし眺めを楽しんだ。あぁ月山の頂にぶつかって散り散りに砕けた雲が、細かな霧となって湯殿に降ってくる。そこに朝日が射しこみ、峡谷に虹がかかった。
 装束場でわらじを脱いで裸足になり、石畳の冷たさを足裏に感じながらしばらく行くと、いよいよご神体が現れる。
 ここから先は「湯殿で見聞きしたことを他言してはならない」という決まりがあるので書けない。芭蕉もそれを守っている。
 ただ、出羽三山の回峰行は、苦しみと恐怖を乗りえて、最後は歓喜の雄叫びでしめくくられるとだけ述べておく。火と水と大地が作り出した壮大な舞台で、芭蕉は生まれ変わった。新たな産声をあげたのである。
  「語られぬ湯殿にぬらす袂かな  芭蕉」
 実際に訪れてみれば、心からの感動を詠んだ句であることがわかる。
 僕だって叫んだもの。いや、あれは腹の底から出た笑いだったのかもしれない。

 羽黒で自己を見つめ、月山で自己という思いこみを突き破る。そして湯殿へと下る道は、悟りの世界からふたたび浮世に生まれ出る旅だ。三山回峰行は、自然が作り出したにしてはあまりに完璧なシステムである。芭蕉の心はきっと深まったんじゃないかなあ。

 その旅から四年。芭蕉は結核が進行して起き上がることもできなくなった例の甥っ子・桃印を引きとり、独りで看病した。
 間もなく桃印は亡くなる。三十三歳だった。過去のいきさつを知る門弟たちは、誰ひとり追悼の句を詠んでいない。親しい人が亡くなると決まって追悼句を詠んだ芭蕉も詠まなかった。
 その後、芭蕉は桃印の死を報せる手紙に「死後断腸の思ひ止み難く候」と書いているが、恨みは流したということなのだろうか。
 翌年五月、桃印と逃げた元妻の寿貞も後を追う。芭蕉は旅に出てしまい顔は合わせなかったようだが、病篤い寿貞を空いた庵に住まわせ、知人に看病を頼んでいった。
 訃報を聞いた芭蕉は、「何事も何事も夢まぼろしの世界、一言理くつはこれ無く候」と嘆いた。そして新盆にあたり、手向けの句を詠んでいる。
  「数ならぬ身となおもひそ玉祭り  芭蕉」
(あなたは決して取るに足りない人間なんかじゃないよ。こうして盆供養だって、私がしてるだろう)
 寿貞は娘を二人残した。下の子はまだ十にも満たなかったと言われる。芭蕉がその子らを気にかけ、心をくだく内容の手紙が残っている。
 だが寿貞の死から半年足らずで芭蕉は亡くなってしまう。最後まで桃印と寿貞の子の行く末を案じながら。
 芭蕉は自分を裏切り、すべてを奪った二人をゆるした。ゆるすどころか救いの手をさしのべた。芭蕉の心に相当の変化があったのではないだろうか。


 一方、『笈の小文』はがらりと趣を変え、日本文学史上こんなに楽しい旅日記はないんじゃないかと思うくらい、喜びに満ちあふれている。
 出だしこそいつも通り神妙に始まるものの、すぐに抑えがきかなくなって、あとはひたすらウキウキ、のびのび、はしゃぎ過ぎて赤面ものの句まで詠んでしまう、どうかしてる芭蕉が見られるのである。
 芭蕉どうしちゃったのと心配になるくらい舞い上がったわけは、杜国という男との二人旅だったから。
 杜国は、名古屋の米穀商の主だった。芭蕉との出会いは、おそらく『野ざらし紀行』の途中に巻いた歌仙「冬の日」に連衆として加わったあたりかと思われる。ところがその翌年、杜国は米の空売りの科で告発を受け、家財没収のうえ渥美半島の外れに流されてしまう。
 そんな失意のどん底の杜国のもとを、芭蕉は訪ねる。そしてあろうことか、流刑中の罪人を旅に誘うのだった。
 おそらく二人は、ただならぬ仲だったのだろう。当時、日本の男色文化は全盛期を迎えていた。その多くは両刀使いで、男色と女色をふつうに両立させていたのだ。『笈の小文』には、二人が恋愛関係にあったとしか思えないようなやりとりが散りばめられている。たとえば……。
 一緒に吉野の桜を見に行こうよと誘う芭蕉に対して、杜国は「はい! わたくしが宗匠の身の回りのお世話をするお小姓となりましょう。だから道中は万菊丸と名乗りますね」と答えたという。
 それに対する芭蕉の感想が「うふっ本当にわらべらしい名前で、たいそうおもしろい」だって。だいじょぶか。正常な判断ができなくなってるぞ、芭蕉。
 そして二人は笠に「乾坤無住 同行二人」と書きつける。「家無しの二人、でも二人は一緒」だって。やめとけ。
 だが止めて止まらぬ恋の路、続いて二人で詠んだ句をならべてみせる。
   「よし野にて桜見せふぞ檜の木笠   芭蕉」
   「よし野にて我も見せふぞ檜の木笠  万菊丸」
 キャッキャ言いあってますよ。四十五歳と三十二歳のおっさんが。どれだけ仲良しなんだ。
 そんな愛の逃避行だもの、盛り上がらないわけがない。双の蝶々がくるくるともつれあうようにして関西の名所旧跡をめぐる二人。
 だが、楽しい時にもいつかは終わりが来る。『笈の小文』の幕切れは須磨にて、都を追われた光源氏、松風村雨姉妹の悲恋、平家一族の悲劇と、かの地でかつて流されたありったけの涙に自らの悲しみを重ね合わせて芭蕉は筆を置く。
 杜国は、芭蕉と別れて流刑地に戻っていった。芭蕉は間髪入れず更科へ月見の旅に出る。そして続く元禄二年には、おくのほそ道の旅を敢行している。自由に旅を重ね名声を高めてゆく恋しき人を、杜国はどんな思いで見ていたのか。
 翌元禄三年、旅の疲れを癒すべく近江に滞在していた芭蕉のもとに、杜国死去の報せが入る。『笈の小文』の執筆が始まったのは、その半年後だ。芭蕉はどんな思いでこのひたすら楽しい旅の記を綴ったのだろう。
 ところが翌春になると筆は止まり、未完の原稿を乙州に託して芭蕉は江戸に帰ってしまう。そのまま未発表だった『笈の小文』は、芭蕉の没後十五年たってようやく出版された。というのが研究家の見立てなのだが……。
 未完だったわけではないと思う。芭蕉は読み返してみて、こりゃ発表できねえわ、と思ったにちがいない。でも、キラキラと輝く美しい思い出を筆に残したいという気持ちは強かった。だから己の死後、世に出すことにしたのではないか。なんにせよ、埋もれたままにならないで本当に良かった。先ほどのような赤面句も一部あるけれど、ほかは心にしみる名吟だらけなのだから。
 それにしても、本書には創作意欲をかきたてる謎が山盛りだ。
 第一に杜国の旅手形はどうしたのだろう。流刑と言っても監視すらいなかったようだが、さすがに旅をするにはなんらかの許可証が必要だろう。偽造でもしたのだろうか。なら誰がどうやって?
 第二に罪を問われた米の空売りだ。「若衆文化研究会」のサイトで仕組みが詳しく説明されているので興味のある人は読んで欲しいのだが、要は先物取引だ。のちに合法化され米相場の安定に寄与したとのことでも、杜国が手を染めた当時はやはり博打の色は濃かっただろう。どうしてそんなに金が必要だったのか? 前年、芭蕉は大火で家を焼かれている。のちに庵は再建されてはいるが、有力な後援者だった日本橋の魚問屋・杉風は、生類憐みの令の影響もあって家業が傾いていたとも言われる。そんな事情を知った杜国が、芭蕉に良いところを見せようと危ない橋を渡ったという筋書きも考えられる。
 そして第三は杜国死の謎だ。映画『アリー/スター誕生』のブラッドリー・クーパーがそうだったように、今が人生で最高に幸せなときだと感じた人が、幸せの絶頂で死にたいと思うことだってあるかもしれない。杜国が自死だった可能性は否定できない。
 そもそも、笈の小文という書名を誰がつけたのかさえわかっていないのだ。でも、きっと芭蕉がつけたのだろう。笈とは旅僧が背負う箱だ。小文は杜国から芭蕉へ、芭蕉から杜国へ宛てた恋文を指しているんじゃないかなあ。その恋文を背負って私は旅を続けるよ、というロマンチック過ぎるタイトルなんだと思う。


 芭蕉とは、どんな人だったのか。
 文才がものすごいのは言うまでもないが、きっと頭の回転が抜群に早くておもしろいことをポンポン言うような、そしてみんなでわいわいやるのが好きな人だったにちがいない。逆にそうでなければ、俳諧師なんて仕事はつとまらなかったのだ。
 芭蕉が俳句を独立した文芸として確立するまで、俳諧と言ったら連句のことを指した。連句は数人で句をつなげてゆく遊びで、ひとりが「五・七・五」と詠むと、それに誰かが「七・七」と付ける。さらにそこに誰かが「五・七・五」とつなげて、またまた「七・七」と付ける。そうして長句と短句を波のようなリズムで繰り返しながら、皆でひとつながりの作品をつくりあげてゆくのだ。
 そんな連句の会はライブ文芸であり、くすぐりやアイディアを当意即妙にひねり出す大喜利合戦でもある、相当たのしい遊びだったようだ。
 ただ、場が盛り上がるかどうかは司会を務める俳諧師の腕にかかっていた。わかりにくい古典パロディが詠み込まれれば、それとなく解説を入れ、あまりに出来の悪い句ならば、笑いを取りつつ却下する。流れを制御し、悪ふざけに陥らぬよう独りよがりに走らぬよう上手にさばいてゆかねばならない。そうして和気あいあいとした空気を保ちながらも、それぞれの個性をぶつかり合わせる。くわえてこれは集団芸だから、適切な指導でメンバー全員のレベルを向上させなければならない。
 それだけ難しいことをしてみせるのだから、俳諧師はカッコ良くて誰もがあこがれるスターだった。芭蕉はきっと、全盛期のビートたけしさんくらいモテたのだろう。

 たけしさんを出したついでに、もう一人たとえてみる。
 本人の句も良い、場をまわすさばきも上手い、若手も育てる、その存在を現代の音楽業界でたとえるならクインシー・ジョーンズにあたるんじゃないだろうか。
 ミュージシャンの西寺郷太さんが、当時のスター歌手を大集結させて制作した『ウィーアーザワールド』についてこんなことを語っていた。なによりもクインシーのディレクションがすごい。歌わせる順番が完璧なのだと。
 出だし、正統派ライオネル・リッチーでこんなメロディですよと聴かせる。ケニー・ロジャース、ティナ・ターナー、ビリー・ジョエルと手堅くつないで、マイケル&ダイアナ・ロスでテーマを訴える。そしてヒューイ・ルイスの野太い声で転調し、飛び道具シンディ・ローパーをぶつける。最後の盛り上げは、ボブ・ディラン、レイ・チャールズ、スティービー、ブルース・スプリングスティーンと、レジェンドリスペクトを連ねて大団円へ。すばらしい。
 きっと芭蕉のさばきって、そんな感じだったんじゃないだろうか。つぎ去来どうだ、あいだに其角をはさんで、珍碩いってみようか、飛び道具はもちろん惟然。もし『はせを!』の大河ドラマ化が実現し、こうして歌仙を巻くシーンを撮るならば、それぞれが句を詠みあげる口パク映像に『ウィーアーザワールド』の楽曲をかぶせる演出で決まりだな。
 余談になるが、クインシーは「これ、ぜんぶ僕が歌えばいいじゃない。ほかの人たち全員バックコーラスでさ」とうそぶくマイケルを「アホかっ!」と一喝したという。個性あふれるメンバーをまとめるには、そういう毅然とした姿勢も必要なのだ。その点、芭蕉だってけっこう鋭い言葉で弟子たちを指導し、たしなめているのである。
 今回、思わず筆が走ってしまった。トンボの飛型から旅へのいざないを連想し、芭蕉愛が止まらなくなってしまったのだ。反省。


【弁解あるいは激賞】
 間が長すぎて、本人ですら句を忘れてしまった。お粗末ながら、もう一度。
 季題「蜻蛉」で一句。
  「トンボ高く旅に出なよと急くように」

 トンボは飛型が特徴的だ。ホバーリングして空中に留まっていると思ったら、急にグンっと高度を上げる。その動きは、往年のテレビ番組『仮装大賞』で、欽ちゃんが「どうしてぇ。がんばったのにぃ。ほら見てよ、こんなちびっこだよぉ。たのむよぉ」と懇願すると、ほだされた審査員たちが次々と票を投じて、デデッ、デデデッとバーが上昇して不合格から合格に変わる、そんなシーンを彷彿させる。させないか。
 とにかく、トンボの動きに合わせて視線は上へ上へといざなわれる。その先にあるのは青い空。んっ今日はもくもくの夏雲が見あたらない。昨夜、銚子沖を通過した台風が連れて行ってしまったのか。猛暑はまだ続くけれど、空だけは澄んで暦通りの秋色をしている。

  「あるようなないような秋そらの青」

 トンボはさらに高く昇る。まるで家族旅行で、早々とお父さんだけ車にのりこんでしまい、したくの遅い妻子を待ちきれず、ちょっとづつ、ちょっとづつ車を前進させていくかのように。
 旅にでも出ようか。

 結論から言うと、芭蕉ミは出せなかった。軽みもなあ。
 そりゃそうですよ。句作においても人生においても放下し、執着を捨てるなんて、そう簡単にはいかないもの。