自句自賛3

2024年4月30日

第3回自句自賛・季語「夏至南風」

解説:「夏至南風」は夏の季語……になるかもしれない。そのうち。
季語を集めた辞典が歳時記。ハンディな角川合本版でさえ八千語近く掲載されているのだから、そこで初めて目にするという言葉も多い。私は春隣、夏隣の意味すらわからなかった。春がそこまで来ていること、夏が近いこと、という解説を読めば合点はいくものの、やはり普段使いにはハードルが高く、俳句の中でこそいきる言い回しだろう。
あるいは紙子、木流しといった、事物そのものが社会から消えてしまった言葉も載っている。それらを博物館の展示や解説ではなく、句というドラマを通して知ることで、当時の使用感や生活実感までもが伝わってくるのである。
そしてナイターだのクーラーだのと、新しく加わる言葉もある。あるいは冬の季語だったマスクがコロナ禍を経てそのポジションをグラつかせたように、変化するものもある。季語だって言葉なのだから、生きているのである。
というわけで今回は、まだ歳時記には採用されていない新しい季語の提案である。「夏至南風」は沖縄の言葉で、カーチベーと発音する。六月末の梅雨明けから七月にかけて吹く強風のことだ。

「またひとつ星はこぼれる夏至南風(カーチベー)    陽高」

学生時代、沖縄を旅した。大阪からの船旅は丸二日かかり、沖縄の地を踏んでもまだ足元がゆらゆら揺れているようだった。
宿に着くと、すぐ海へ向かった。七月の沖縄の日ざしは強烈で、みるみるうちに肌がひりついてくる。日焼けどめを買いに戻ろうと思ったら、風が勢いを増して灰色の雲を吹き集め、あれよあれよという間に曇天に。やがて大粒の雨が落ちてきた。荒天などおかまいなし、むしろこれ幸いと泳いでいたら、じきに雨雲は去って青空がもどる。やはり日焼けどめがいるなと陸に上がって歩きかけたところで、またビュービューと南風が雲を呼び、雨を叩きつけてくる。そんなことを四度、五度とくりかえして日は暮れた。
夜も更けて、相変わらず風はうなっているものの、空はきれいに澄みわたっていた。満天の星だ。気流が乱れているせいか、星々の瞬きが早いような気がする。と、天頂近くの星座からポロリと星が流れた。やがて、またひとつ。もうひとつ。まるで春の嵐が桜の花びらを吹きこぼすように、星が落ちてくる。それはそれは雄大な景色だった。
ただし浮かれていたのはそこまでで、翌朝目覚めると重度の日焼け。全身に氷をあてながら一日、寝て過ごした。

句の批評に入る。
やはり「夏至南風」が効いている。それによって沖縄にいるという舞台設定も完了してしまうのだから、すぐれた季語の使い方と言えよう。
また、「星をこぼして」と直接表現するのではなく「星はこぼれる」としたことで逆に、読み手に夏至南風と流れ星との関係をイメージさせることに成功している。