自句自賛8

2024年6月4日

第8回自句自賛 ― K・I・G・O重なったっていいじゃない!


【課題】   「本日の季語・月光」……月光は秋の季語


【季語に言いたいこと】
一句の中に季語はひとつだけ、それが俳句の大原則なのだとか。知らなかった。
うっかり二つ以上入れようものなら、「季重なりよっ!」と、サンダルにパンストの女子を発見したピーコのような顔で詰め寄られるらしい。こわい。
季重なりの中でも、異なる季節が混在するのは「季違い」と呼ばれ、真冬の茶事にヘソ出しルックで現れたギャルも同然、門前払いされてしまう。それは自業自得。
でも、どうなんでしょう、万を超える数の季語があるんだし、メインに据えた季語以外に、シチュエーション説明に必要な名詞がたまたま季語だったってケースは、けっこうあるんじゃないかなあ。
それに、素人考えながら「髪洗ふ」という日々の営みとか、「ボート」なんて四季ごとにドラマ性のある小道具を、季語として一つの季節に限定してしまうだけでもどうかと思うのに、季を異にするワードと組み合わせてはいかんと言うのでは、あまりに器が小さい……いや狭量……えーと教条主義的……うーん厳し過ぎかも。
もちろん「一句中一季語」の原則はできるかぎり守るので、季重なりに対してはもう少しおおらかに接してもらえませんかねえ。浴衣にカンカン帽が意外と違和感なかったり、セーラー服に機関銃を持たせたら大ヒットしたように、過剰さやミスマッチだって詩が生まれる契機になるんだもの。
名吟とされる中にもけっこうあるよお、凄いのが。山口素堂「目には青葉(夏)山ほととぎす(夏)初鰹(夏)」の夏三連発とか、久保田万太郎「ばか、はしら、かき(冬)、はまぐり(春)や春の雪(春)」の冬足す春の二乗とか。
というわけで、しれっと季重なりを詠んじゃおう。


【俳句】     「月光を巻く波に乗りつ 潮騒」


【句の背景あれやこれや】
学生時代に始めてから二十年、僕は海に通って波に乗り続けた。海外も含め、全国のサーフポイントを巡っては、日の出前の灰色の海に飛びこんで、波頭が夕日に染まるまで上がらなかった。だから上手ってことじゃないんだけどね。海の上から見る景色が、ほんとに好きだっただけ。
それでも、夜の海に入ったことはたった一度しかない。
あれは八月末の外房だった。僕と友だちは、車を止めて夜の海をながめるともなくながめていた。時刻は十時を過ぎていて、まんまるの月は冲天にあった。それはそれはさやかな光で、すべてが祝福を受けリラックスしているように見えた。そんなピースフルなバイブスは僕らにも伝染して、聞かれればキャッシュカードの暗証番号だって教えてしまいそうなくらい大らかな気持ちになっていたんだ。だから、どちらからともなくムーンライトサーフの話が始まり、はずみで、ならやってみようとなっても、一ミリの疑いもわかなかった。
板を抱えて波打ち際に立つ。暗くて沖の様子はわからないけれど、脛に当たるしぶきと、遠く響く潮騒からして、サイズは腰胸くらいはありそうだった。胃のあたりがチクッときたけど、心地良い緊張感というやつだ。
ならんで沖へと漕ぎ出す。水はぬるい。とは言え、ひと掻きごとに陸から離れてゆく心細さで、とたんに唇がふるえだした。正気が戻ってくる。
こんなバカなまねはやめて帰ろ……遅いっ、闇の向こうから轟音が押し寄せてくる。とっさに腕を杭のように突っ張らせ、板を沈めて波の下をくぐる。
何度目かのダックダイブでアウトに出たときには、けっこう横に流されていたと思う。
板に腰かけて波を待つ。陸をふり返ると……けっこう遠くまで出ちゃったな。
友だちはどこへ行ったのか、いつまで待っても現れない。
えっ? ひとりぼっち? 真っ暗な海に?
急に風が冷たく感じられ、奥歯が鳴りだす。落ちつこうと息を吐いてみるが、顔はみるみるひきつってゆく。ハワイじゃムーンライトサーフ中、サメに足を食いちぎられるなんてざらだってね。さっきした会話が頭をよぎる。それも御免だけど、いま海の中にある足、その下にはもっと不気味なナニカがいたり……しないよね? そおっと足をひき上げて、板に腹ばいになる。
潮が動き出した。早くこんな気味の悪いところとおさらばしたい、その一心でトライするが、体がこわばっているせいか波においていかれてしまう。
帰れないじゃん。心臓がドクドク音をたてはじめる。大声で助けを呼びたくなるが、そのせいでナニカが目を覚ましたらまずいので我慢する。と言うか、叫んだところで助けなんて来やしない。乗るしかないんだ。
こんなとき映画なら、目を閉じて波のエナジーを感じてビックウェイブと一つになったりするんだろうけど、現実はそうはいかない。
ところが……やみくもに、ぶざまに、ジタバタとあがいているうちに運良く、たまたま、偶然、乗れてしまった。
サイズは? 割と大きめ!
小さくボトムターンして波の腹へと戻る。
と、行く手にスーッと光の道が開けた。それはまっすぐに、遠く遠く続いている。
波の斜面に月の光が反射しているのだ。
僕は波に乗っていることも忘れて、ささやかな、でもすばらしい魔法に見とれた。
ガラスのようになめらかな波のフェイス。轟は背後へ背後へと飛ばされて、無音の世界が現れる。月光を巻きこみながら走ってゆく波。
気がつくと、浅瀬まで運ばれていた。
僕は沖をふり返り、そして月を見上げる。とたんに潮騒が戻ってきた。
ムーンライトサーフ……二度とするかっ!


【弁解あるいは激賞】
「月光」は秋の季語で「波乗」は夏の季語。
「だからそれ季重なりよ!」
「しかも季違いじゃない!」
「おまけに月光と波乗、どっちもメインテーマだもん、季語同士の主従がはっきりしてるからセーフなんて言い訳は通用しないからねっ!」
そんな金切り声が聞こえてきそうだが、落ちつけ、グレタ(ⓒドナルド・トランプ)。
サーファーは一年中、波に乗る。なかには、映画『エンドレスサマー』のように終わらぬ夏を追いかけて世界をまわる数奇者もいるけど、大多数は『ビックウェンズデー』のように、短パンにラッシュガード→ロングスリーブ→フルスーツにブーツと、いでたちを変えながら折々の波を味わっている。なのに「波乗」を夏限定にしてしまったら、台風一過の青空と大波、赤とんぼ泳ぐ浜での午睡、堤防から飛びこむ氷の海、それをどうやって季重なりを避けつつ詠めと言うんですか。そこは季節の移ろいを楽しむ俳人なら、わかってくれるでしょう。だって「吟行」は季語に入れてないじゃないですか。
というわけで提案です、「波乗」は季語から外しましょう。そのかわり「岡サーファー」を夏の季語として差し上げますから。ねっ、単に「そば」では季語にならないけど、「新そば」は秋の季語になるのとおなじ要領です。決まりっ!

季重なりが解決したところで、まずは言い訳から。
やっぱり文語の「乗りつ」ってのはどうなんだって、言われる気がする。
でも口語で、たとえば「月光を巻く波に乗る……潮騒」としたら、「乗る」は瞬間的な動作をとらえているにすぎず、「……潮騒」との関係が宙に浮いてしまうだろう。だからと言って「月光を巻く波に乗った 潮騒」では、潮騒が波に乗ったよう(?)にも、潮騒を聞いて遠い昔に波に乗った記憶がよみがえったようにもとれるし、やっぱり両者の関係がはっきりしない。こんなときこそ、繊細な時間表現を持つ文語の助動詞に力を借りずしてどうするの。
 ただそこで、動作の完了を表す助動詞「つ」と「ぬ」のどちらを使うかが問題なんだよなあ。
概して「つ」は意志的・作為的な動作を表す語に付き、「ぬ」は無意識的・無作為的な動作を表す語に付くとされる。
この句の動作である「波に乗る」は、通常通りなら意識的行為だが、詠み手は「乗ってしまった」もしくは「波に勝手に運ばれてた」という思いが強いので、作為性は弱い。
そのようにどちらも使える場合は、完了を表現したいなら「つ」を、開始なら「ぬ」を採用するんだそうだ。たとえば平知盛が「見るべきほどのことは見つ」と言い放ち壇ノ浦に飛びこんだのは、この世の天国から地獄まで見尽くしたという意味だし、ホトトギスの忍び音を耳にして「夏は来ぬ」とうなずくのは、夏が始まったという意味なのだ。
当句の場合、動作は完了しており、本人はもう絶対に沖へなんか戻りたくないのだから、やはり「つ」がふさわしいだろう。
そして「乗りつ」のあと空白をおいて「潮騒」が耳に戻ってくるのである。なんたるドラマチック句。