自句自賛7

2024年5月29日

第7回自句自賛 ― 大事なことは全部『サザエさん』が教えてくれた


【課題】  「本日の季語・当季雑詠 其の二」


【季語に言いたいこと】
ひき続き「当季雑詠」ということで、春の景を詠みます。


【俳句】      「 燕風のごと吹き返し返しぬ 」


【句の背景あれやこれや】
喉の良さで言えばウグイスでも、飛ぶ姿の美しさならツバメだろう。
田んぼのまんなかに小さな外墓地があって、面倒を見ている。そこでひとり、のらくら草むしりをしていると、現れるのがヒバリとツバメ。ヒバリは空高いところにとどまって点にしか見えないかわりに、声はひびく。一方ツバメは大地に近く、春の陽気に湧いて出た虫を、身をひるがえしひるがえししながら捕食する。その黒く光る飛行軌跡は自在で、じつに小気味良い。
そうやってツバメを追い、ヒバリを見上げ、遠山をながめしているから、草むしりはちっともはかどらない。でも、こののどかさが良いんだよなあ。
そう言えば、朝日新聞に連載された『サザエさん』にツバメの登場する回があって、これが心にしみるの。四コマを順に紹介しよう。ちなみに掲載は昭和31年の梅雨のこと。

➀傘をさす男と合羽を着た少女が、雨の道を歩いている。
横からのショットで、二人の間には距離があり、どちらの顔も見えない。
➁雨脚は強い。うつむきがちな二人を、後ろから捉える。
➂再び横向きのショット。そこにツバメが、声をたてて飛び来る。
思わず見上げたのは、波平とワカメ。
➃傘の下に、並んで歩く背中。ワカメ「なんだ、おとうさんだったの」

セリフは最後のひと言のみ。雨音やツバメの鳴き声など、効果音も一切ない。この上なく静かな作品である。でもそうして多くを語らぬからこそ、父娘の深い情愛がにじみ出て、じんわりあたたかな余韻が残るんじゃないだろうか。
芭蕉は「言ひおほせて何かある」と諭したそうだ。俳句はすき間や余白が命なのだから、描きすぎてはいけないのだ。その極意をサザエさんから学ぶことになろうとは。やっぱり大事なことは全部、マンガから教わるんだろうなあ、現代の日本では。
そんな静寂に満ちた四コマ中、唯一のセリフ「なんだ、おとうさんだったの」、そこに僕は、作者・長谷川町子の父親に対する強い思慕を見てとる。と言うのも、『サザエさん』の連載初期では、無邪気で溌溂としたワカメがとりわけ印象的で、作者の少女時代が投影されていると思われるからだ。
気になって調べてみると、町子のおとうさんは、彼女が十三歳のとき、五年におよぶ闘病の末、病死していた。そのことをふまえたうえで読み返すと、味わいはより深まる。


【弁解あるいは激賞】
 そりゃ本人だって、いいのかな? と思ってますよ。ええ「吹き返し返しぬ」です。
句意としては、ツバメが身を翻し、また翻しながら飛ぶ様を、くるくると向きを変える風に譬えただけです。月並みな句です。でも、ただ譬えただけでなく、むしろ風そのものなのだから身体を「翻す」のではなく風が「吹き返す」だろうと表現したところが、オリジナル? なのかな?
散文にすれば「燕は風のように吹き返しては、また吹き返す」とでもなるだろうか。それを口語俳句で「燕風のごとく吹き返し返す」と詠むと、なんか変だ。理由は説明できないけれど、良くない気がする。
で、文語表現を使ってみようと思った。ところが勉強してみると、文語には時間を示すたくさんの助動詞があるという事実が判明してしまった。口語が「た」と「ている」だけで済ませている時間を、もっと繊細に感じ、表現していたのだ。うわぁめんどくさそう。
ところが、どの助動詞が一番ぴったりくるのかという試行錯誤は、洋服選びにあれこれ迷う楽しみと似ていたのである。そこへいくと口語って、ユニクロを着るかしまむらを着るかだけのように思えてくる。
で、現在進行しつつある事実を表すなら「ゐたり」を用いる。ここでは「吹き返し返しゐたり」となる。
そして、ある状態が続いていることを示すのが「り」と「たり」だ。「吹き返し返せり」とするか「吹き返し返したり」か。
あるいは、完了の助動詞ではあるけれども、その状態が続くというニュアンスを持つ「ぬ」を使うこともできる。「吹き返し返しぬ」だ。
本句の場合、意味から選ぶことは難しい。どれにもそれなりに理があるならば、字余りを避けることができる「返せり」か「返しぬ」の二つに絞ろうか。そうなれば、リズム的に「……し……せ」より「……し……し」のほうがきれいなので、「ぬ」に軍配が上がるのかなあ。
今回は、文語を使うって案外、楽しいとわかった。それだけでも自分を褒めてやりたい。