皆さんは「主人公」という言葉をご存じだろうか?
そう、物語の中心となる人物で、その人を軸に話が展開する、それが主人公。知らない人は、まずいないだろう。
でも、この言葉がそういう意味で使われるようになったのは明治時代以降だという事実は、それほど知られていないのではないか。
明治18年、坪内逍遥先生が『小説神髄』という本を出版なさった。それまでの日本のフィクション作品は、江戸戯作文学に代表されるように、人の心の内側をのぞきこみその動きを写実的に描写するということはしてこなかった。そんな日本の人たちに、西洋の小説はこんな風になっているということを紹介したのがこの本だ。その中で、近代小説には必ず主人公というものが存在すると説明したのが、この言葉が今のような意味で使われるようになった嚆矢なのである。
それ以前の「主人公」は、かなりマイナーな仏教用語だった。
禅の公案集『無門関』に、中国は唐の時代にいた瑞巌師彦という禅僧のエピソードが出てくる。その瑞巌和尚、悟ったのちもひたすら石の上に坐り続けた。ただ、時折カッと目を見開いて何事か叫ぶことがある。よく聞いてみると、自身に向かって「主人公っ?」と問いかかけていたのだ。それに自ら「ハイっ」と答える。続けて「ちゃんと見えているか?」と尋ね、「ハイっ」と返す。さらに「他人に惑わされていないか?」と糺し、「ハイっ」とうなずく。日々これを繰り返した。いや、それだけしかなさらなかった。これが元々の「主人公」なのだ。
私はもとより、瑞巌和尚の「主人公? ハイ!」の意味も分からなければ、坪内先生がその言葉を拾ってきた意図も理解できずにいた。坪内先生は、いったい何を考えてそんなことをなさったのだろう?
明治期、西洋から様々な文物が入ってきた。すっかり西洋化の完了した現代では、コンプライアンスでもサステナビリティでも、カタカナ英語でそのまま取り入れることが多いが、当時は漢字の文字面から推察できるよう新たに造語して輸入したのだ。たとえばベースボールというスポーツには野球という新語を作って当て、デモクラシーという政治制度は民主主義と翻訳したように。同様にメインキャラクターに対してだって、いくらでも造語できたはずなのに、どうしてそんなカビ臭い禅語を引っ張ってきたのか。首をかしげたくなるのは私だけではないはずだ。
そんな中、昨年のお正月のこと。起き抜けに異変を感じて熱を測ってみると、三十七度五分ある。ただの風邪であって欲しいと祈りつつ市販薬を飲んではみたが、熱はおさまらず、昼過ぎには八度を超えてしまった。
つらくともそこは元日、病院は開いていない。また、コロナの可能性もあったので、人を呼ぶこともできない。独り布団をかぶって横になるしかなかった。
熱はさらに上がってゆく。日は落ち、部屋は暗くなる。不安はどんどん膨らんでゆく。結論から言うとインフルエンザA型だったのだが、それまで私はインフルエンザにもコロナにもかかったことがなかったので、自分の体がどうなっているのか見当もつかなかった。
普段はそうして不安が湧くと、私は呼吸法で対処している。たかが呼吸とあなどるなかれ、ブッダが「入出息念定(呼吸によって悟りに至ることもできる)」とおっしゃった通り、呼吸は大事なのだ。だからその時も、腹式丹田呼吸によって息を整え瞑想し妄想をふり払うべく、横になったままだが身体をまっすぐにして静かに深く息を吸いこんだ……とたん、すでに気管が荒れていたらしく「ゴホホッ」とむせてしまった。これはいけない、もっと静かに行わなければと、絹糸のイメージで吸いこんだところ、さらにむせ返り、喘息のように咳が止まらなくなってしまった。
のたうつこと十分間。ようやくおさまり、くたくたになってまた横になった。ところが、今度は普通の呼吸すら出来なくなってしまった。うまく息が吸えていないように感じる。息苦しい。今から思えば、半分パニックをおこしていたのだろう。
呼吸が苦しくなると、人の頭にはすぐに“死”が思い浮かぶ。このままどうにかなってしまうのでは? まったくもって追い詰められてしまった。
その時思ったのが、ここで自分に何かあったとしても、世界は変わらず回り続けるのだろうな、という哀しみを含んだあきらめだった。子どものころ学校を休んだ日、クラスのみんなが教室で楽しそうに遊んでいるところを想像したようなものかもしれない。
そんな風に、こことは違うところで世界が回っているという感覚を、誰しも抱いてはいないだろうか。今ならトランプ大統領がそうだ。お会いしたこともないし、今後お会いすることもないだろうに、毎日これだけニュースで見聞きしていると、トランプの世界が精緻なリアリティをもって立ち現れ、回り始めるのだ。それは、他人の気持ちを想像することができる「共感」という能力の一部でもあるのだが、妄想の根源ともなってしまう諸刃の剣で、まあその時も、今こことは別の世界が回るという幻想が浮かんだわけである。
だが次に、こう思った。そうだとしても……やはり自分にとって本当に現実の世界は、自分の目を通して見て、心を通して感じる、今ここにある世界なのではないか。世界とは自分が生まれたときに始まり、死ぬとき幕を下ろすものなのだ。それは当たり前のことなのだけれど、心の底から実感したのだ。
すると、不思議なことにスッと気持ちが落ち着いた。
おそらくだが、人間の心は常に外へ外へと向かってゆく。ところがその時は、完全に内側だけを向いていた。世界の始まりであり、全てである自分というものに気づき、正面から見つめることができた。今目の前だけに集中し、余計なことを考えなかった。だから体はつらくとも、心は安らかになったのだろう。
そして、額に「主人公」という言葉が降ってきたのだ。
瑞巌和尚の言う「主人公」とは、大事なものは全部内側にあるという意味だったのではないか。どうしても外側に楽しいこと、良いことがあるように思い、人はいつもあちこち探し回っている。でも自分こそが世界の始まりであり全てであるならば、世界を体験する主体である自分の心をいかに深めてゆくか、大事なことはそれだけではないか。それは、そもそも自分とは何かとか、自分がどうありたいかなども含めて。
「惺惺著」 そのことを、その身体で、その心で実感しているか? いつも見えているか?
「他時、異日、人の瞞を受くることなかれ」 そのためには、心が今ここを離れていけない。未来へ飛べば不安という苦しみが、過去へ飛べば後悔が生まれる。他人のほうへ飛んでゆくと、嫉妬や妬み怒りが起こる。常に自分こそが世界の主人公でなければならない。
そして、坪内先生がそれを引いてきた理由も分かる気がした。
くだんの『小説神髄』には「主人公こそが、小説中の眼目となる人物なり」とある。眼目とは、重要なという意味もあるが、文字通りまなこという意味がある。その人の目を通して世界が体験される。皆がそれぞれの世界の、それぞれの物語の主人公なのだ。決して他人に乗っ取られてはいけない。そんな意味で先生はこの言葉を使ったのではないだろうか。
ちなみに原文は「主人公とは何ぞや。小説中の眼目となる人物是れなり。或ひは之れを本尊と命(なづく)るも可なり」となっている。私などは、どうしても主人公=本尊とおっしゃるところに目が行ってしまう。そこに「天上天下唯我独尊」の解釈にも通じる思想を感じるのだ。
昨今、世の中を動かすのはSNSだ。だが、あれは他人の情報にさらされ続ける装置なのだ。その恐ろしさを皆、分かっているのだろうか。
さて、瑞巌和尚の「主人公! はい!」の実践として「拝む」ことはどうだろう。
普段、私たちは、ああしようこうしようで生きている。それを叶えようとして一生懸命がんばっているわけだ。でも、少なくとも拝む時だけは、ああしようこうしようと外へ向かう心を抑えて、腰を折るように自分というものを折り畳んでしまう。そして手を合わせるように拝む対象と心を合わせるのだ。何度も何度もそうしているうちに、やがて自分を超えた大きなものを実感するようになる。そう、自分の心を深めてゆくと無我へと至る。不思議なことだ。