【出家者の食事、その歴史➁】
肉でも魚でも施されたものならなんでも食べたブッダの時代から数百年後。
インド社会では、菜食主義を標榜する宗教者が評価されるようになっていた。「平気で肉を食べる仏教者より、菜食のジャイナ教やヒンドゥー教の方が立派ではないか。美味追求の欲を抑え、自らを律しているのだから」と。
そこで仏教者の間でも、肉食をやめようという意見が出始める。

出家者は、瞑想修行に専念するため生産活動を一切行わない。現代的な言い方をすれば、生産性ゼロの人間たちである。
それでも存続できたのは、競争社会とは別の視点を提示することで心を癒すという機能に加えて、社会から外れても生きられるというセイフティネットの機能も期待されていたのだろう。
そうしたロールモデルはリスペクトされる存在でなければならない。だから肉食が軽蔑されるのであれば、やめねばならなかったのだ。

やがて肉食を禁ずる内容が盛り込まれた経典が見られるようになる。
たとえば『楞伽経』には、鳥獣は輪廻転生した父母かもしれないから食べてはいけないとある。もはや肉食自体が罪となったのだ。
中国に伝わったのは、そうして完全菜食主義になった仏教だった。
さらに中国の禅宗において、食事は独自の展開をみせる。
禅宗では、土中の虫を殺してしまうという理由でブッダが禁じた農耕を行い、自給自足を始めた。それにともない修行という概念の大転換が図られる。正しい心でのぞむなら、農作業だろうが諸々の雑役だろがすべての行為が修行になると説いたのである。
そこで禅林では、畑仕事、食材の管理、調理、食べ方、後片づけなど食事全般に目を配るようになった。精進料理の始まりである。


【出家者の食事、その歴史➀】


お寺で食される精進料理は、生臭ものを避けることからヴィーガン(肉、魚、卵、乳製品をとらない)の一種だと紹介されることもある。
確かに見た目は同じだ。でも根底にある思想はどうだろう。重なるのかそれともズレがあるのか、考えてみたい。

まず仏教教団における食事の変遷を追ってみよう。
ブッダの時代、仏教教団では何を食べるかは重視されなかった。
食事に関する決まりは二つで、托鉢で施された物しか口にしてはいけない、午前中しか食べてはいけないというもの。
たった二つとは言え、施された物しか口にしないというのは重い決断だ。世間から施しを与える価値がないと判断されたら生きてゆけないところまで、自分たちを追いこんでいる。
そんな状況では選り好みする余裕はない。肉をさし出されれば肉を、魚を施されれば魚をと、なんでもありがたく頂いたのである。
肉食に関して、初期経典『スッタニパータ』にこんなやりとりがある。肉を食べるブッダの弟子に、異教徒が疑問を投げかけるのだ。
(問い)おいしい鶏肉と米飯を味わって食べながら、あなたは「私はなまぐさ者を
    ゆるさない」と言う。あなたは、なにを「なまぐさ」だと考えるのですか?
(答え)生き物を殺すこと、盗むこと、嘘をつくこと、他人の妻に近づくこと、
    これをなまぐさと呼ぶ。肉食することがなまぐさいのではない。

出家者にとって殺生は最大の罪だ。だから虫を殺さないよう布で濾した水を飲むとか、自分に施すために殺したと聞いた肉は食べてはいけないとか、食にまつわる殺生に関わることを避けようとした。でも、肉や魚を食べること自体が罪だという考えはなかったのである。


2021年4月11日

安養院はほんとに小さくて貧しいお寺ですが、なんと、少し離れた場所に“山林”を所有しているのです。
まあ所有していると言っても、寺から離れていますし利用予定もないので、現地がどこなのか確認もせぬまま放置してきました。
でも、このコロナでアウトドアに目覚め自分専用のキャンプ場として山林を購入なさる方もいらっしゃると耳にして、にわかに興味が湧いたのでございます。正直に申せば、下心を持ちました。
で、古株のお檀家様に頼んで案内してもらいました。現地は山裾から少し上った場所で、広さは150坪ほど、整地してあって平らです。ただ平らは平らなのですが、天高く梢を伸ばした樹木が生い茂り、荒れ放題に荒れております。
そのどうにもなりそうもない藪を眺めて、「……なるほど」とひとりごち、目を伏せて踵を返そうとしたところ、一人の老婆が近寄って来るではありませんか。
聞けば、すぐ下の家に住んでいらっしゃって、屋根に覆いかぶさるように枝を伸ばした大木を見上げては、台風で折れて落ちてきやしないか、地震で崩れた崖もろとも樹に押し潰されるのではないかと日々、気をもんでいらっしゃるとのこと。
空を覆う樹々を見上げてまた、「……なるほど」と呟きます。
こうなったら仕方ありません。早速、業者に頼んで見積もり出してもらいました。
驚きました。樹木の伐採には、こんなにもお金がかかるものなのかと。重機を入れる道をつけ、樹をクレーンで吊って、寸断してゆきます。その費用ときたら数十万円です。
とはいえ、怯えるお婆さんをこのままにはしておけない。泣く泣く伐採をお願いした次第です。お陰様できれいな更地となりました。

これを機に、不要な山林の処分方法を調べてみたので参考までに載せておきます。
まず思い浮かんだのが、国や地方自治体に寄付してはという考え。財産が増えるのだからもろ手を挙げて歓迎されるものと思いきや、国だって市だって利用価値のないものを貰ったらりしないとのこと。そりゃそうですよ。今回のように出費ばかりかさむなんてことになりかねない訳ですから。
では売却は出来ないのか。山林買い取り業者のホームページで確認すると、もっと広い面積がないとお話にならないんだそうです。しかも材木になる樹が生えていたり、太陽光発電用地にできそうだったりと、何かウリがないと。こんな猫の額ほどの山では、とてもとても。
ならば独りキャンプ用地としてキャンパーに売るというのはどうか。それも炊事に便利な川が流れているなどの条件が整っていないと厳しいとのこと。なによりも自然を満喫するのが目的ですから、真下に民家の灯りが見える場所ではねえ。

今後、跡を継ぐ人がおらず廃寺になるお寺がたくさん出ると言われます。そうなれば、こうして放置された地所や境内地の問題だけでなく、伽藍そのものが危険な老朽家屋となってしまうところも現れるでしょう。そうなる前にどう処分してゆくのか、それとも再建するのか、住職の責任が問われています。

 


2021年4月3日

【正しい食事法】

残念ながら、政府主導で進められた食事作法改善運動は、まちがっていたと言わざるを得ない。益よりも害のほうが、はるかに大きくなってしまったのだから。だまって食べることがあたりまえの時代には、ひとりで食事することになんの気兼ねもなかった。だがこの百二十年にわたるすりこみによって、みんなの頭に「食事は楽しく会話しながら食べなければならない」という観念がうえつけられてしまった。おかげで、ひとりで食事することが悪いことのようになってしまったのである。

もう一度言おう、私たちの先祖は六百年間ずっと黙って物を食べてきたのである。そして、それにはちゃんと意味があった。食材と、料理と、きちんと向き合って食べるという意味だ。これ以上、真摯に食と向き合う姿勢はない。おそらくそうした態度こそが、食事全般に対して「とことん考えぬく」という和食の伝統につながったのであろう。
実は、だまって食べる行為には仏道修行の側面もあることをご存知だろうか。

妄想は、苦しみを生む大きな原因だ。心が「いま/ここ」という現実から離れてしまい、連鎖的に想像を膨らませるのが妄想。「いま/ここ」を離れて未来へ飛んで行けば「不安」という苦しみが、過去へ飛んで行けば「後悔」という苦しみが生まれる。逆に「いま/ここ」にだけ心を置けば、自らの妄想で自らを苦しめてしまうことはなくなる。
でも、たとえその理屈がわかっても、どこかへ飛んで行こうとする心を制御することは至難の技。だからブッダはこう言ったのだ。

   修行僧たちよ。出て行く時も戻る時も、前を見る時も後ろを見る時も、腕を曲げる
   時も伸ばす時も、よく気をつけている。
   食し飲み咬み味わう時も、よく気をつけている。
   大小便をするときも、よく気をつけている。
   行き、住し、坐し、眠り、目覚め、語り、沈黙している時にも、よく気をつけている。
   修行僧はこのように実によく気をつけているのである(『大パリニッバーナ経』より)

この「気をつける」というのは、一つ一つの動作を注意深く、そして正しく行うことによって、不安定な心を「いま/ここ」という現実にあり続ける体に寄り添わせておくことにほかならない。
たとえば、テレビを見ながら食べる、会話をしながら食べるとしよう。すると心はテレビの方へ行ったり、会話の内容に行ってしまう。たしかめてほしいのだが、会話をしながら食べると十回も噛まないうちに飲みこんでしまう。食事から心が離れている証拠だ。
そこで坊さんが実践する正しい食べ方をお教えしよう。食べ物をひと口入れたら箸を置き、手は膝の上に置いて噛むのである。もちろん黙って噛む。すると口の中だけに心を置くことができる。ホウレンソウを食べていても、それが霜の降りた畑に植わっているところ、それを引き抜き、洗い、茹でる、そんな場面が思い浮かぶほど深く味わうことができる。
それは食材を観察するという食べ方だ。「観察」はインドのことばで「ヴィパッサナー」といって、仏道修行の基本なのである。
箸を置いて、だまってよく噛む。まず、どこでなにをどのように噛んでいるかを観察する。そして噛めば噛むほど食材の味が変わって行く過程を観察するのだ。たとえば、日本人が縄文時代から食べつづけてきたクルミなら、最初に感じるのは芳ばしさだ。しばらく噛みつづけると甘みが出てくる。そして二十回を越えると渋みがわっと広がる。そして三十回ですべてが混じりあった複雑な風味となる。

たしかに、みんなで話をしながら食べるというのは、楽しいし、良い食べ方だと私も思う。
でも、ひとりで黙って食べるというのも食事と向きあい、心を「いま/ここ」に置く実践修行をするという意味があって、それはそれで良い食べ方なのである。
その両方があるということを知り、両方を楽しむことができる、それが本当に豊かな文化なのではないだろうか。
事実、先人たちはハレとケと言って、お祭りなどのハレの日はみんなで楽しく食べ、ケである普段の日は黙って食べると、使い分けていたのである。
弧食は恥ずかしいことでも、望ましくないことでもない。もちろんウツになったりもしない。むしろ黙って集中して食べると、三十回でも四十回でも噛めるから、胃腸にかかる負担が軽くなり、かえって長生きできるかもしれない。だから、一日に一食でもかまわない、ひとりでだまって食べてみてほしい。