2022年1月16日

今日は「妙」な話をしようと思います。
皆さんは、この妙という言葉に対してどんなイメージをお持ちでしょうか?
例えば、自分の服装を「妙な格好だな」と評されたらきっと気分を害すでしょう。
あるいは近頃よく使われる「微妙(ビミョー)」という表現は、良いか悪いかどちらとも言えないけれど、まぁどちらかと言うと良くないかなあというニュアンスです。
だから「妙」には否定的なイメージがあるように思われます。

実は「妙」も「微妙」も元は仏教用語です。京都のお盆のフィナーレを飾る五山の送り火では、松ヶ崎の山に大きな「妙」の字が描かれます。また読経の冒頭で唱えられる開経偈は「無上甚深微妙法(ムジョージンジンミミョウホウ)」と始まる。呉音でミミョウと発音しますが、字は微妙と書きます。
本来の「妙」は、とんでもなく素晴らしいという意味なのです。
“妙技”は驚くほど素晴らしい技。“言い得て妙”とは中々言葉にできないことを上手に表現した。微妙にしても“微妙な音色の違いを聞き分ける”というように、簡単には表現できないほど複雑で奥深いのが微妙。だから先ほどの開経偈も、言葉では言い表せないほど奥深く素晴らしい真理という意味になります。また“妙に気になる”という場合は、人知を超えた不思議という意味がある。
だから妙とは単に素晴らしいだけでなく、言葉にもできず、理解を超えた、とんでもない素晴らしさなのです。

そしてそこには一連の心の動きがある。美しい蝶に出会う、満天の星空を見上げる、錦秋に彩られた湖を見つける、そんな場面を想像して見てください。その時……
①えっ!とビックリする ➁ほーつ!素晴らしい、良い、と見惚れてしまう ➂でもその良さを言葉にすることが出来ない ④で、うーん、なぜ心が揺さぶられるのだろう、不思議だなあ それが妙です。

 

仏教学者の鈴木大拙先生は、禅を海外に紹介したことで知られますが、この「妙」という言葉をなんという英語に当てはめようか苦心した結果、シェイクスピアの『お気に召すまま』の一節を引くことにしました。
それは、O wonderful, wonderful, and most wonderful wonderful, and yet again wonderful, and after that out of all hooping!(第3幕第2場)というセリフで、日本語で「ああ、驚いた、驚いた、驚きすぎるくらい驚いた、それでもまだ足りないくらい驚いて、開いた口がふさがらない」と訳される部分です。
たしかにシェイクスピアはワンダフルを重ねることによって、普通のワンダフルという言葉では表現できないほどの驚きと不思議さを表現しています。

 

そして最も早い時期に地球環境への警鐘を鳴らしたレイチェル・カーソンという生物学者もまた、ワンダー、ワンダフルという言葉を同様の意味で使いました。
カーソンは、遺作となった『センス・オブ・ワンダー』でこう言います。
「子どもの頃はみんな、毎日が驚きと感激に満ちあふれている。でも大人になると共にその感性を亡くしてしまう。子どもが持つ“センス・オブ・ワンダー”こそが、大人たちが感じている人生や社会へのガッカリや、日々の暮らしへのアキアキ、そしてつまらないことに夢中になりつまらない物を欲しがることでわき起こるイライラ、そうした苦しみを癒してくれる妙薬なのだ」
センス・オブ・ワンダーとは日本語に訳すのがとても難しい言葉です。上遠恵子さんは「神秘的さ、不思議さに驚き感動する感性」と翻訳なさり、福岡伸一博士は「この世界は、自分の考えなど及びもつかないほど奥深く素晴らしいと気づくこと」だと解説なさっている。
ねっ、まさに「妙」でしょう?

 

以前「拝む」とは、自分を小さく折り畳んで拝む対象と心を一つにすることだとお話ししました。するとその向こうに大きなものを感じる。そして、自分はいつもその大きなものとつながっているのだと気づく。
そこで覚える不思議で奥深く素晴らしい!という感覚こそが「妙」なのだと思います。
だから今日も妙な気分で、微妙な感じでゆきましょう。