2025年2月19日

皆さんは「主人公」という言葉をご存じだろうか?
そう、物語の中心となる人物で、その人を軸に話が展開する、それが主人公。知らない人は、まずいないだろう。
でも、この言葉がそういう意味で使われるようになったのは明治時代以降だという事実は、それほど知られていないのではないか。
明治18年、坪内逍遥先生が『小説神髄』という本を出版なさった。それまでの日本のフィクション作品は、江戸戯作文学に代表されるように、人の心の内側をのぞきこみその動きを写実的に描写するということはしてこなかった。そんな日本の人たちに、西洋の小説はこんな風になっているということを紹介したのがこの本だ。その中で、近代小説には必ず主人公というものが存在すると説明したのが、この言葉が今のような意味で使われるようになった嚆矢なのである。

それ以前の「主人公」は、かなりマイナーな仏教用語だった。
禅の公案集『無門関』に、中国は唐の時代にいた瑞巌師彦という禅僧のエピソードが出てくる。その瑞巌和尚、悟ったのちもひたすら石の上に坐り続けた。ただ、時折カッと目を見開いて何事か叫ぶことがある。よく聞いてみると、自身に向かって「主人公っ?」と問いかかけていたのだ。それに自ら「ハイっ」と答える。続けて「ちゃんと見えているか?」と尋ね、「ハイっ」と返す。さらに「他人に惑わされていないか?」と糺し、「ハイっ」とうなずく。日々これを繰り返した。いや、それだけしかなさらなかった。これが元々の「主人公」なのだ。
 私はもとより、瑞巌和尚の「主人公? ハイ!」の意味も分からなければ、坪内先生がその言葉を拾ってきた意図も理解できずにいた。坪内先生は、いったい何を考えてそんなことをなさったのだろう?
明治期、西洋から様々な文物が入ってきた。すっかり西洋化の完了した現代では、コンプライアンスでもサステナビリティでも、カタカナ英語でそのまま取り入れることが多いが、当時は漢字の文字面から推察できるよう新たに造語して輸入したのだ。たとえばベースボールというスポーツには野球という新語を作って当て、デモクラシーという政治制度は民主主義と翻訳したように。同様にメインキャラクターに対してだって、いくらでも造語できたはずなのに、どうしてそんなカビ臭い禅語を引っ張ってきたのか。首をかしげたくなるのは私だけではないはずだ。

 そんな中、昨年のお正月のこと。起き抜けに異変を感じて熱を測ってみると、三十七度五分ある。ただの風邪であって欲しいと祈りつつ市販薬を飲んではみたが、熱はおさまらず、昼過ぎには八度を超えてしまった。
 つらくともそこは元日、病院は開いていない。また、コロナの可能性もあったので、人を呼ぶこともできない。独り布団をかぶって横になるしかなかった。
 熱はさらに上がってゆく。日は落ち、部屋は暗くなる。不安はどんどん膨らんでゆく。結論から言うとインフルエンザA型だったのだが、それまで私はインフルエンザにもコロナにもかかったことがなかったので、自分の体がどうなっているのか見当もつかなかった。
 普段はそうして不安が湧くと、私は呼吸法で対処している。たかが呼吸とあなどるなかれ、ブッダが「入出息念定(呼吸によって悟りに至ることもできる)」とおっしゃった通り、呼吸は大事なのだ。だからその時も、腹式丹田呼吸によって息を整え瞑想し妄想をふり払うべく、横になったままだが身体をまっすぐにして静かに深く息を吸いこんだ……とたん、すでに気管が荒れていたらしく「ゴホホッ」とむせてしまった。これはいけない、もっと静かに行わなければと、絹糸のイメージで吸いこんだところ、さらにむせ返り、喘息のように咳が止まらなくなってしまった。
のたうつこと十分間。ようやくおさまり、くたくたになってまた横になった。ところが、今度は普通の呼吸すら出来なくなってしまった。うまく息が吸えていないように感じる。息苦しい。今から思えば、半分パニックをおこしていたのだろう。
呼吸が苦しくなると、人の頭にはすぐに“死”が思い浮かぶ。このままどうにかなってしまうのでは? まったくもって追い詰められてしまった。
その時思ったのが、ここで自分に何かあったとしても、世界は変わらず回り続けるのだろうな、という哀しみを含んだあきらめだった。子どものころ学校を休んだ日、クラスのみんなが教室で楽しそうに遊んでいるところを想像したようなものかもしれない。
そんな風に、こことは違うところで世界が回っているという感覚を、誰しも抱いてはいないだろうか。今ならトランプ大統領がそうだ。お会いしたこともないし、今後お会いすることもないだろうに、毎日これだけニュースで見聞きしていると、トランプの世界が精緻なリアリティをもって立ち現れ、回り始めるのだ。それは、他人の気持ちを想像することができる「共感」という能力の一部でもあるのだが、妄想の根源ともなってしまう諸刃の剣で、まあその時も、今こことは別の世界が回るという幻想が浮かんだわけである。
 だが次に、こう思った。そうだとしても……やはり自分にとって本当に現実の世界は、自分の目を通して見て、心を通して感じる、今ここにある世界なのではないか。世界とは自分が生まれたときに始まり、死ぬとき幕を下ろすものなのだ。それは当たり前のことなのだけれど、心の底から実感したのだ。
 すると、不思議なことにスッと気持ちが落ち着いた。
 おそらくだが、人間の心は常に外へ外へと向かってゆく。ところがその時は、完全に内側だけを向いていた。世界の始まりであり、全てである自分というものに気づき、正面から見つめることができた。今目の前だけに集中し、余計なことを考えなかった。だから体はつらくとも、心は安らかになったのだろう。

 そして、額に「主人公」という言葉が降ってきたのだ。
 瑞巌和尚の言う「主人公」とは、大事なものは全部内側にあるという意味だったのではないか。どうしても外側に楽しいこと、良いことがあるように思い、人はいつもあちこち探し回っている。でも自分こそが世界の始まりであり全てであるならば、世界を体験する主体である自分の心をいかに深めてゆくか、大事なことはそれだけではないか。それは、そもそも自分とは何かとか、自分がどうありたいかなども含めて。
「惺惺著」 そのことを、その身体で、その心で実感しているか? いつも見えているか?
「他時、異日、人の瞞を受くることなかれ」 そのためには、心が今ここを離れていけない。未来へ飛べば不安という苦しみが、過去へ飛べば後悔が生まれる。他人のほうへ飛んでゆくと、嫉妬や妬み怒りが起こる。常に自分こそが世界の主人公でなければならない。

 そして、坪内先生がそれを引いてきた理由も分かる気がした。
 くだんの『小説神髄』には「主人公こそが、小説中の眼目となる人物なり」とある。眼目とは、重要なという意味もあるが、文字通りまなこという意味がある。その人の目を通して世界が体験される。皆がそれぞれの世界の、それぞれの物語の主人公なのだ。決して他人に乗っ取られてはいけない。そんな意味で先生はこの言葉を使ったのではないだろうか。
 ちなみに原文は「主人公とは何ぞや。小説中の眼目となる人物是れなり。或ひは之れを本尊と命(なづく)るも可なり」となっている。私などは、どうしても主人公=本尊とおっしゃるところに目が行ってしまう。そこに「天上天下唯我独尊」の解釈にも通じる思想を感じるのだ。
 昨今、世の中を動かすのはSNSだ。だが、あれは他人の情報にさらされ続ける装置なのだ。その恐ろしさを皆、分かっているのだろうか。

 さて、瑞巌和尚の「主人公! はい!」の実践として「拝む」ことはどうだろう。
 普段、私たちは、ああしようこうしようで生きている。それを叶えようとして一生懸命がんばっているわけだ。でも、少なくとも拝む時だけは、ああしようこうしようと外へ向かう心を抑えて、腰を折るように自分というものを折り畳んでしまう。そして手を合わせるように拝む対象と心を合わせるのだ。何度も何度もそうしているうちに、やがて自分を超えた大きなものを実感するようになる。そう、自分の心を深めてゆくと無我へと至る。不思議なことだ。


  私は僧侶になってすぐ、守山祐弘大僧正に付いて三年間学んだ。本当にたくさんのことをご教授賜っただけでなく、折に触れ、お位牌やお塔婆を書く際に墨をする端渓の硯、錫の音が美しい五鈷杵、大切な法会でつける七條袈裟と、僧侶として必要な仏具や得体のほとんどを頂戴した。そのご恩に対して、今はもう感謝するよりほかない。ほかないといのは言葉のままで、守山先生は本山・長谷寺の執事をお努めのさなか、五十代の若さで遷化なさったので、直接恩返しすることがかなわないのだ。
 その守山先生が住職を務め、私が通ったお寺を常楽院という。
 実を言うと、私はその「常に楽しい」という寺名にどうしても馴染めなかった。もちろん涅槃の四徳「常楽我浄」から取ったのであろうことも、「法楽」という仏教用語も知ってはいたが、仏道とは真面目に取り組むものという浅薄な考えにとらわれていたので、山号額に踊る「楽」という字に、知床岬に建つ健康ランドくらいの違和感を覚えてしまったのだ。
 あれから三十年。自分の「楽」に対する見方がどう変わったのかお話ししたい。

他の動物とくらべて、人間は豊かな感情を持つとされる。確かに、犬はちょっと撫でればオーバーリアクション気味に喜ぶし、猫は少しでも気分を害すと深刻に拗ねてみせる。でも人の感情は、それらとはくらべものにならないくらい複雑で、目まぐるしく変化するのだ。他の動物からしたら、さぞ情緒不安定な生き物に見えることだろう。
で、その感情を指して、ひと口に「喜怒哀楽」と言う。だが、よく考えると「喜怒哀」と「楽」は一括りにはできないのではないか。
なぜなら、自分にとって良いと思うことが起こった時、自分の願い通りにものごとが運んだ時に生まれ感情が「喜」。逆に思い通りにならなければ「哀」となる。そして、その度合いが強ければ「怒」が生ずるわけだ。そのように「喜怒哀」の中心には自分というものがドーンと構えている。
ところが「楽」はちょっと違うのだ。例えばスポーツ選手が「試合を楽しめた」と言うことがある。誰しも試合に臨んで目的とするのは、勝つことだ。ところが楽しいと感じている最中は、勝ちたいという自分の意志はどこかへ行ってしまっている。だからまれに、試合に負けたとしても「楽しめた」と思うケースさえ出てくるのである。
あるいは音を楽しむと書く音楽を思い浮かべてほしい。流れてくるメロディやリズムに自然と体が動き出してしまう、そんな時が一番楽しいはずだ。それは、自分の価値判断や情報分析を止めて、音に身を任せている状態なのである。
音楽評論家の吉田秀和の著書に『之を楽しむに如かず』というエッセー集がある。そのタイトルは『論語』からの引用で、孔子は「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず(ものごとを理解し知る人は、それを好きだとう人には及ばない。ものごとを好きだという人は、それを心から楽しむ人には及ばない)」と言う。たとえばそれが学ぶということなら、「知る」は知識として記憶すること。「好む」はもっと知りたいという意思が芽生え、盛んに読み聞き学ぶこと。ゆえに知識欲などという言い方がある。そして「楽しむ」は自らの意思を越えて、呼吸するのとおなじくらい学ぶことが自然な営みとなっている状態だ。
 そのように自分が中心となる「喜怒哀」と違って、「楽」とは自らの意志を超えたところに生ずるものなのである。
 たしかに喜怒哀という感情などひょいと飛び越えて、ただ楽しくいることができれば……まさに常楽だが、それほどの幸せはないかもしれない。
でも、そんなことができるのだろうか?

実はあの良寛さまが、日々心安らかに楽しく暮らす秘訣を説いていたのだ。こんなありがたい話はないので、是非とも紹介したい。
念のため記しておくが、良寛は江戸時代の僧侶で、自らの人生を「生涯、身を立つるに懶し」と表現したくらい、上手に世渡りすることに背を向けて生きた人だ。
そんな良寛が作った『起上り小法師』という漢詩がある。ちなみに起上り小法師とは、おもちゃのダルマのこと。
「人の投げるにまかせ、人の笑うにまかす。さらに一物の心地(心の本性)に当たる無し。語を寄す、人生もし君に似たらば、よく世間に遊ぶに何事か有らむ」
「おもちゃのダルマは、人に投げられても投げられたまんま。笑われたら笑われたまんまで、それに対して何の感情や妄想も起こさない。人もそのように生きることができれば、何の苦労もなくなるはずだ」
 ポイントとなるのは、何の感情も妄想も起こさないということ。
 ふつうは鼻で笑われたら、悲しい、悔しい、恥ずかしい、といった感情がわく。そして、あの人は絶対に悪い人だ、いつか自分もおなじ目にあうだろう、なんならやり返してやろうか、などと現実にはない妄想をどんどんふくらませる。それらが一切湧いてこないと言うのだ。そんなことが出来るだろうか?

そもそも、どうしてそんな感情や妄想が湧くのだろう。
自分のことを大事に思うからだ。それをして自我と呼ぶ。植物には自我がほとんどない。昆虫も小さい。動物はしっかり存在する。だが、それだって人間の自我とくらべたら無いに等しい。それほど人間の自我意識は強烈なのだ。
そんな自我の観点から、さきほどの「喜怒哀」という感情を説明するなら、自分で自分を祝福し、褒めてあげるのが喜び。自分を慰めるのが哀しみ。自分を守るため他を非難し、攻撃するのが怒りだ。そうやって自我を守ろうとするから、様々な感情や理屈や妄想が湧いてくるのである。
ところが実際は、自分を守るためにしたことが逆に苦しみを何度も呼び起こし、心を乱し、自分を追い詰めてしまう結果になってはいないだろうか。時に人は、自死という選択をしてしまうことがあるが、それはこれ以上自分が傷つかぬよう自らを守ろうとして導き出される答えなのだ。

 では尋ねるが、そこまでして守ろうとする自分とは何なのか?
 私も含めてみんな、よく分かっていない。
それなのに自分、自分で生きている。それが実情なのだ。

現実を直視すれば、思い描いているような「決まった形をした自分」などないと分かる。
年齢を重ねると身に染みるが、体は刻々と変化してゆく。昨日の体と今日の体は、あきらかに別物だ。アンチエイジングなどとて若さを人工的に保とうとしても、叶うものではない。
そして心も刻々と変化する。
諸行無常、すべては変化する。だからブッダのおっしゃる通り「無我」なのである。
無我を実感するなら、感情や妄想が湧いてきても素通りさせることができるようになる。すると、先ほどのスポーツや音楽や論語のように楽しみの世界が開けてくる。良寛さんは、そう説いているのだ。

 いやいや、なんの感情も味わえない無味乾燥な人生なんてつまらないし、降りかかる出来事に自分の意志を持つことなく身を任せているだけなら生きる意味がないだろう、と思うかもしれない。
 でも、「執着すべきものは何も無い」と自覚し、自分をひいきして身勝手にふるまうことがなくなれば、相手の立場になって考えられるようになる。他人を思いやり、行動するようになるのだ。
 そして、なによりも人生を恐れることがなくなる。
 その点では、私たちは犬や猫を見習わなければならないだろう。面倒見ていた野良猫が病を得て、さんざん苦しんだ後、死期を悟って家を出てゆく際の毅然とした態度には、いつも頭が下がる。あのものたちは決してうろたえることなく、すべてを受け入れ、堂々と行くのだ。
 植物も昆虫も動物たちも、みんな日々楽しく暮らしている、きっと。なのに人間だけが……。

 ならば自分もと、無我を実感し自我への執着を断とうとしても、頭で理解するだけでは足りない。体解するプロセスが必要なのだ。坐禅でもいい、礼拝することでもいい、呼吸法でもいい、とにかく日々実践することだ。
 やがて自我の執着がはげ落ち、心が軽やかになって来る。そこにはきっと「楽しい人生」が待っていることだろう。最後の一文は南禅寺・田中寛州老師の受け売りです。