真言宗豊山派安養院(栃木県栃木市の寺院)

2024年7月24日

第15回自句自賛 ― 俳句の海をバタフライで泳げ


【本日の季題】 「鰻」…そりゃあ土用の丑の日ですから


【本日の調理法・あるいは俳句ルールへのぼやき】
 堀切克洋先生の分析によると、文体という視点から見れば俳句は四つのグループに分けられるのだそうだ。

➀名詞連続体……名詞のみ、もしくは名詞と助詞のみで構成される句

    白梅や天没地没虚空没        永田耕衣
    処分場可燃の山に鹿のむくろ     武羅小路二郎


➁文語体……文語を用いた句

    チューリップ花びら外れかけてをり  波多野爽波
    日ざかりや雲立つ下に海あらむ    武羅小路二郎


➂文章体……述語部分に助動詞が用いられていないため、文語とも口語とも判別し難い句/散文に近い文体を定型にはめこんだ句

    こころもち向き合ふやうに雛飾る   仁平勝
    ひばり宣り続け 凡夫は草むしる   武羅小路二郎


➃口語体……特徴的な文末表現によって、読み手とはまた別の誰かに向けて発話されたように感じられる句

    たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ 坪内稔典
    火事かしらあそこも地獄なのかしら  櫂未知子


 とても分かりやすい分類法で参考になります。
 だから、それをさらに水泳の泳法に置き換えてみたい。いやこの際、そんなことする必要があるのかという問いは置いといて。

➀まず文語体だが、それは古式泳法の「ひとえのし」とする。
 古式泳法は、海など自然の中で泳ぐのに適していると言われる。特に遠泳の際に必要となる、気持ちをリラックスさせ筋肉を緩めてエネルギー消費を抑えるコツがつかみやすいのだそうだ。
 俳句において、文語は口語にくらべて音数を節約することができる。そこが古式泳法に譬えた所以だ。

➁次に文章体。これは「自由形」か。
 自由形種目というと、近代泳法のクロールで臨む人が圧倒的に多いけれど、そうしなければいけないという決まりはない。顔出しクロールと言われる昔ながらの“抜き手”で泳いだってかまわないのだ。
文体を特定できない文章体は、泳法を特定しない自由形とするのが妥当ではなかろうか。

➂名詞連続体は「背泳ぎ」だろう。
 俳句は名詞中心で構成されるから、名詞だらけの句もさほど珍しいわけではない。とはいえ動詞も形容詞も使わないとなると、かなり景色がちがってくる。そこで唯一、仰向けで空を見続けながら泳ぐ背泳ぎに譬えたい。
 ちなみに女のどざえもんは仰向け、男のそれはうつ伏せで漂うとされる。ずっと信じていたのに、どうやら嘘らしい。

➃そして口語体は、ずばり「バタフライ」だ。
 派手なアクションで、やたら水しぶきをあげるバタフライ。あれ横でやられたら迷惑なんだよなあ。神妙な面持ちで“外れかけてをり”とか“雛飾る”なんて詠んでいる席で、“ぽぽが火事ですよ”とか“地獄なのかしら”なんて言われたら嫌だと思う。目立つんだけどね。

 というわけで今回は、平泳ぎが漏れてしまった。北島康介さんを手ぶらで帰すような格好になってしまい、まことに申し訳ない。“康介さん手ぶら”と言えば、二〇一二年ロンドンオリンピック・伝説の競泳男子四百メートルメドレーリレー決勝。もちろんハンセンを抜いてトップにたった康介さんは凄かったが、怪物フェルプスと互角に渡り合う松田の頑張りには目を見張るものがあった。ナイス、バタフライ!
 そんな松田選手の後押しを受けて、今回初めて俳句界のバタフライ・口語体俳句に挑戦してみようと思う。


【俳句】 「鰻」で一句

「鰻重って蓋あけたとき味しない」


【句の背景あれやこれや】
 二〇一五年、京都国立近代美術館で“北大路魯山人と食”にスポットを当てた展覧会が開かれた。僕はあまりの素晴らしさに二度出かけてゆき、それでも飽き足らず祇園の何必館にまわって魯山人の器を鑑賞して、ようやく熱をおさめたほどだった。
 圧倒されたのは、その独創性。食事全般において、いかに多くのものを生み出したことか。革新的な料理の盛りつけや供しかたはもとより、誰も考えなかった形とデザインの器や調度品まで自身で手がけている。たとえば黒漆地に金箔と銀箔を押して太陽と月を表現した<日月椀>も、鉄板を切り抜いて火袋からもれる光で影絵のように見せる<透かし行燈>も、ゆるやかに湾曲させた板鉢に足をつけた<俎板皿>も魯山人オリジナルだとされる。
 とりわけ、その俎板皿というのが世紀の大発明で、どんな料理を盛ってもひきたててしまうからびっくりだ。そのむかしホストの男の子たちがしていた、しだれ柳をかぶったようなスジ盛りヘアも、誰でもそれなりに見せてしまうという点でノーベル賞級の大発明だったけれど、ひょっとするとそれに匹敵するかもしれない。
 その魯山人、とにかく権威や権力に噛みつく。その作品がダメならば、大御所然とした陶芸家だろうが有名な書道家だろうがひるむことなく、ボロカスにけなす。誤解しないで欲しいのだが、なにも偏屈だから唾を吐くわけではない。
どこの世界にも言えることで、協会の役職に就きたがったり審査員をしたがったりする人は、世渡りに長けている反面、才能も努力も足りないことが多い。だが、そういう人がその道の権威となり、権勢をふるうようになる。そんな状態はみんなにとって不幸なことだから、魯山人は怒ってみせるのだ。本当は誰より繊細で、自分も傷つくとわかっているのに。
 魯山人は、名が知られるようになってからも努力を怠らなかった。良きものを探して学び、研究をおこたらず、必要とあらばどこにでも出かけて行く。だからこそ生まれるあの自由さ、力強さ、オリジナリティなのだろう。

 そろそろ鰻の話に入らないと。広く知られるところだが、鰻の焼きかたは東と西で分かれる。東では一度白焼きにしたものを蒸して、それからタレをつけて焼き上げる。蒸すことで、ふっくらとした食感になるのだ。対して、西は直焼きする。ゆえに皮がパリッとするのが特徴だ。
それぞれ好みが分かれるところだと言われるけれど、僕は断然、東の焼きかたのほうが美味しいと思う。そんなことを言うと、おまえは関東の生まれでそっちを食べつけているからそう感じるんだ、と反論されるかもしれない。
 でも、京都上賀茂生まれ、バリバリの関西人・魯山人がこう言っている。
「うなぎの焼き方であるが、地方の直焼き、東京の蒸し焼き、これは一も二もなく東京の蒸し焼きがよい」
 ほーら大の食通の魯山人がそう言うんだから、蒸し焼きの勝ちなんです。
うっ……。
僕としたことが、お恥ずかしい。偉い人の言葉を引いて自説を補強しようなんて、反権力を標榜する人間が一番してはいけないことじゃないか。
 そうだな。直焼きも美味しいな。うん美味しいです。

 鰻で大事なのは、捌きかた焼きかた、そしてタレだ。
 タレは大きく二系統、醤油の勝ったさらりとしたものと、甘みが勝ったとろりとしたものに分かれ、それぞれ出来の良いものは甲乙つけがたい。できればどっちも食べたい。
 そのタレには、“秘伝”“門外不出”“継ぎ足して云十年”など、大仰な文句が冠せられることが多い。僕は店に入るとまずその説明書きを探して、じっくり読みこむのを楽しみの一つとしている。
 数ある説明文の中でも強烈なインパクトを残したのが、埼玉県小川町の福助という店だ。銭湯のような唐破風の玄関をくぐり、時代のついた明治の建築の奥で供されるのは、その名も“女郎うなぎ”。僕ら由緒書マニアにとって、これほど興味をかきたてられるネーミングがあるだろうか。
 注文もそこそこに(初めての店なので自重して鰻丼にした)、由緒書をむさぼり読む。
「女郎うなぎの由来
  今からおよそ160年前、黒船の襲来した天保安政の頃の事です。
  当家の先代善兵衛の親友某氏が、宿坊の伊勢神宮へ行った帰りに後日の思いでにと、江戸は吉原の廓に立ち寄った所、相手の
        花魁があまりにも気品高く美しいのでたちまち虜となってしまいました。そこで男は大枚を投じて身受けをして小川の町に連れ
        帰ったまではよかったのですが、我家には妻がおりますので思うにまかせず、思案に余り当家先代の善兵衛の侠気に委せたので
       した。善兵衛は早速我が家に引き取り親身も及ばぬ慈しみといたわりで救いの手をさしのべましたので彼女も又、安住の喜びに
       一意専心家業の手助けに忠実に働きました」
 とここまで読んだところで、僕は頭の中を整理すべく目を閉じた。 親友なにがしは、あまりにも浅はか過ぎるんじゃないのか。当時、吉原の太夫を身請けするには数億円かかったと言われる。もちろんトップオブトップの太夫は別格としても、花魁だって相当入用だったはず。それを、むざむざ手放してしまうとは。しかも奥さんがおかんむりだから出したはずなのに、近所の親友の所に置いてもらうって法はないだろう。それじゃ奥さんだっておさまらないと思う。「あたしの目を盗んで会うつもりなんだろう」「あたしが死んだらこっちへ戻す腹積もりだねっ」と、その後も喧嘩がたえなかったはず。
 それにくらべて先代の善兵衛は偉かった。元花魁を置くことについて、きっと家人らの反対があったにちがいない。それを抑える胆力たるやっ。そして口さがない連中が、きっと善兵衛と元花魁の中を疑るような噂をまいて囃し立てたことだろう。それが耳に入っても善兵衛はグッと呑みこんで、元花魁に笑いかける。「俺は俺の道を行く。あんたはあんたの人生を生きな。やつらが代わりに生きてくれるわけじゃねえんだ」と。まさに男気。
 うん。元花魁がこの家に来た経緯はわかった。けど、まだ女郎が出てきただけで、鰻屋も鰻もタレも出てこない。この先どうなる? もどかしい気持ちを抑えて、僕は老眼でかすむ目を凝らした。
「そして歳月は矢のように過ぎ去り……
  年を経るにつけ、兎角病床に親しみがちであった彼女がある時、善兵衛を枕元に招いて終生の恩返しにと花魁の生家に伝わる
  と言う、うなぎの蒲焼の秘伝極意を教え、これにまつわる悲願をかなえていただきたいと言い残して大往生を遂げたとの事で
  す。花魁が伝えた鰻料理だから“女郎うなぎ”と称し先考又心機一転事業を改めてこの元祖となり代々相次いで六代目の現当主に
  至ったしだいでございます(以上、原文のまま掲載)」
 元花魁、死んだか。小さいころから苦労の連続だったろうからなあ。
 おまけに実家が鰻屋だったとは。それにまつわる“悲願”とはおそらく、親が苦労の末にあみ出した鰻料理の技を後世に残して欲しいというものだろう。
 そう頼まれてしまったら、あれほど男気の篤い善兵衛が鰻屋にならないわけがない。きっと家人らの反対はものすごかったにちがいない。それを押し切って商売替えしてしまう胆力たるやっ。
 ただ“女郎うなぎ”という名前はどうなんだろう。秘伝極意を教えてもらった恩もあるし、ただの女郎ではなく花魁という上級ランクの遊女だったわけだし。まあたしかに“花魁うなぎ”と言われると、美味しそうではないかもしれない。料理名というより、殿様ガエルのような鰻の種類みたいだもの。だからと言って女郎呼ばわりするのは……。
 賛否が頭に渦巻く中で、鰻丼が運ばれて来た。
 うん……美味しい。
 名前になんの実(じつ)があるというのか。薔薇はどう呼ばれようとも薔薇なのだ。
 小川町には、ほかにも“忠七めし”という謎飯がある。見た目は、ただのお茶漬けだ。ところが日本五大名飯のひとつに数えられ、山岡鉄舟が開発にかかわった由緒正しいめしだと言う。五大名飯? 山岡鉄舟? 忠七って誰?
 これもかなり深い話になるのだが、本稿とは趣旨がずれるのでいずれどこかで。


【弁解あるいは激賞】
 問題になるとしたら下五の「味しない」だろう。
 説明するまでもなく「味しない」は「味がしない」という否定の意味ではない。そんな当たり前のこと訴えたくもないし、もしお重の蓋を開けただけで味がしたら味覚障害を疑ったほうがいいなんて警告したいわけでもない。そうではなくて「味しない?」と、同意をもとめているのだ。
 まっ赤に熾った炭の上で焼きに焼やかれた鰻と熱々のご飯を詰めこまれて、チンチンの煉瓦のようになった重箱。その蓋を指先で支えて開く。たちのぼる湯気。こうばしい脂と甘辛いタレの香りが混然一体となって鼻をくすぐる。そのとき口中では、もう鰻の味がしていませんか? してますよね! たしかにケチな人なら、これだけでご飯食べられちゃいますよね! 句意はそんなところだが、はたして口語体俳句になっているのか。
 口語体の要件となる「特徴的な文末表現によって、読み手とはまた別の誰かに向けて発話されたように感じられる句」という点は、クリアーしているように思う。
 より問題なのは、そもそも口語体が句の内容にふさわしいかどうかだ。ためしに他の形式で詠んでみて、比較検討してみよう。
文語体で詠むなら「鰻重の蓋あけしとき味したり」だろうか?
 だとすると、文語を使っても音数の節約には寄与しない。と言うか「味したり」だと、本当に味を感じるかのように聞こえるので、ニュアンスが違ってしまう。じゃあどんな表現をすればよいのかと問われると……やっぱり文語で伝えるのは難しい内容なのかもしれない。
ならば文章体で詠むとなると、「鰻重は蓋あけたとき味がする」かな。
 そうねえ。これも「味がする」と断定してしまっているので、なんか違う。「味するような気がする」くらいの感じなのだから。
 そうすると、こうした微妙な、もしくは屈折した心理にスポットライトを当てるような句は、口語体が向いているのかもしれない。なるほど、その派手な動きに目を奪われて気づかなかったが、バタフライ俳句の中には複雑で繊細な感情が隠されていたのか。

 私たちの“土用の丑の日に鰻を食べる”という習慣は、平賀源内が鰻屋のために考えた「本日土用丑の日」というキャッチコピーに始まるとされる。証拠はないようだが。
 源内の時代から、はや二百五十年。鰻屋さん、そろそろ新しいコピーに変えても良いころあいじゃありませんか。
「鰻重って蓋あけたとき味しない」
を、ぜひどうぞ。もちろん無料です。


2024年7月20日

第14回自句自賛 ― オーバーツーリズムを解消する方法


【課題】「本日の季題・鱧」…鱧も鰻も穴子も、蛇みたいな魚はみんな夏の季語


【俳句ルールへのぼやき】
 お気づきだろうか、【課題】の下の記述が変わったことに。前回まで「本日の季語・○○」としていたのを、「本日の季題・○○」と直したのです。
 独学のむずかしさは、遠回りしなければならない点にある。先生に教わればスッと通れるところを、あっちでぶつかりこっちに落っこち足踏みしと、進歩のスピードが格段におそい。それで嫌になってしまう人だっているだろう。だから師について学ぶほうが確実かつ効率的なのは、まちがいない。でも失敗して、そこに気づきがあって、色々工夫する楽しみというのもあるんじゃないかなあ。
 と、強がりはそれくらいにして。ご報告です。僕は「季語」「季題」「傍題」「子季語」それぞれの区別がついていないことが、今さらながら分かりました。
 「季語」は、特定の季節をイメージさせる言葉。それに対し「季題」とは、題詠の際、題として提示された季語のことをさす。題詠では、季語ではない題が出されることもあるのだ。たとえば“家族”というテーマで詠めとか、“地名”など固有名詞を入れろとか、“初”という漢字を詠み込めとか。そうした様々な出題パターンがある中で季語を題とするとき、その季語が季題と呼ばれるのである(ということが分かった)。
 そして季語には、種々のバリエーションを持つものがある。そのバリエーションを「親季語」に対する「子季語」と呼ぶ。なのに歳時記では「(主)季語」に対する「傍題」なんて書きかたをするので、両者の関係性が曖昧になってしまうのだ。正しくは、「季題」とおなじく題詠に使われてはじめて「傍題」となるはずなのにね。だから歳時記は「傍題」なんて書くのをやめて、「子季語」あるいは「従季語」としたほうがいいですよ。さっき理解したばかりの人間が言うのもなんだけど。
 というわけで、わが自句自賛では「本日の季語」ではなく、正しく「本日の季題」と改めることにします。

 その「子季語」は、大まかに言って四種類に分けられる。おなじこと・ものの別名が➀。おなじことだけれど別の表現が➁。ちがうこと・ものだけれど仲間とみなせる語が➂。親季語に関連する言葉が➃だ。
➀別名の例……親季語「年の暮」に対する子季語「年の瀬」「歳晩」「年末」
➁別の表現の例……親季語「短夜」に対する子季語「明易」
➂仲間の例……親季語「雑炊」に対する子季語「おじや」
➃関連語の例……親季語「蛍」に対する子季語「流蛍」
 今回の季題“鱧”にもいくつか傍題として詠むことができる言葉がある。“水鱧”“鱧の皮”“祭鱧”がそれだ。僕はどの言葉も知らなかった。ちなみにそれぞれの意味だが、水鱧は瀬戸内や大阪湾で獲れる小ぶりのそれ、鱧の皮は捨てられる部位を生かした料理で始末屋のイメージ、そして京大阪の夏祭りのころ旬を迎えるので祭鱧と呼ばれるのだそうだ。いずれにしろ、鱧は西の魚なのである。


【俳句】   「京暮れてハモっと柔く白きあり」


【句の背景あれやこれや】
 鱧の旬は、年に二回あるとされる。
 最初の旬は、産卵前の六、七月。ちょうど梅雨の期間と重なるので、「鱧は梅雨の水を飲んでうまくなる」なんて言われたりする。そして関西の七月と言えば祇園祭。まさに子季語“祭鱧”のとおりなのである。
 僕は大学の四年間と社会人の三年間、合わせて七年を京都で過ごしている。だから祇園祭にはたくさんの思い出があるのだけれど、中でもその運営を引き受ける京都人とはどういう人たちなのか思い知らされた出来事がある。
 入学してしばらくたってからのこと。友人を合コンに誘ったら、ピシャリと断られた。あまりにも毅然とした口調に興味がわいて理由をたずねると、「祇園祭のお囃子のお稽古があんねん」と言う。当時はバブルも最高潮で、ディスコやカフェバーで女の子とフィーバーしなきゃナウなヤングにあらずと誰もが信じていた時代だ。なのにお囃子? お稽古? それは僕にとって、時代に流されることのない価値観を内面化させた人間=京都人に、初めて触れた経験だった。
 その友人は卒業後、総合商社に入り、海外勤務を命じられてパリへ飛んだ。
 どうにかこうにか銀行に入れてもらえた僕は、そのまま京都の支店に配属された。店は四条河原町の交叉点角に建つビルまるごとで、祇園祭の辻回し見物の特等席となっていた。
 山鉾巡行の日。新入社員の僕は、お得意様をビル上層階にしつらえた観覧席に案内したり、黒山の人だかりとなった店前の交通整理をしたりと、お祭りなんていい迷惑だとぼやきながら一日を過ごした。
 それから間もなく、例の友人から連絡が入った。
「おまえ、こないだガードマンみたいなことしとったな」
「なんで知ってるの」
「見とった」
「だって……パリじゃ?」
「入社のとき会社と契約してん。なにを押しても祇園祭には出るって」
 友人は、店のガラスを割らんばかりに圧をかけてくる人波を必死になって押し戻す僕を、鶏鉾の上に乗って笛を吹きながらながめていたのだと言う。
「おかげで調子狂いそになったわ」
 その後、アフリカ駐在となってもニューヨークにいても、彼は祭りの始まるひと月前には帰国し、ピーヒョロリーと吹き続けて今に至る。
 お正月にスーパーで七草粥用の草ミックスが売られるのだが、“京七草”と書かれたパックは、ただの七草パックより五百円ほど高い。見た目はおなじでも、京と付いただけで五百円も値が上がるのだ。なのに売れ行きは断然、京都の草のほうがいいときている。それじゃ天下の総合商社といえども、京都人には頭が上がらなくたってしょうがない。
 ただ、橋本多佳子が祇園見物で詠んだ「祭笛吹くとき男佳かりける」だけは、どうしても受け入れたくない。良く言い過ぎだと思う。

 京都はいま、オーバーツーリズムに苦しんでいる。観光客がドッと押し寄せて、収拾つかなくなっているのだ。それは世界中の観光地に共通する悩みなのだが、これという解決策を誰も提示できていない。ならば、思い出の地・京都のために僕がひと肌脱ぎましょう。
 観光客のお目当ては、写真を撮ることだ。江ノ電の踏切と海、富士山とコンビニ、ビグブルマンに選ばれたラーメン屋、誰かがネットにアップした素敵な写真とおなじものを自分も撮りたくてたまらない。僕からしたら、そんなのナンセンスでしょう。他人がアップしたのならそれでいいじゃない。なんでかぶせる必要があるの。どうしてもネットに上げたいなら、まだ誰も撮っていないスポットとか新しい楽しみを提案するほうが、見る側だって飽きずにすむだろうに。だから「おなじ写真を撮ってアップするなんてつまんないことだよ」と、インフルエンサーたちに言ってもらおう。どんどん。
 旅行に限らず、バズるとか言って、なんでもかんでもドッと人を動かすネットコミュニケーション自体よろしくない。このところ映画の興行収入を見るとおどろく。話題となった作品は百億円を軽々と超えてしまうのだ。せいぜい、三、四十億円ってとこでしょうという出来でも。
 みんなインフルエンサーや有名人の意見を信頼し過ぎるんじゃないか。ハメルーンの笛吹きじゃあるまいし、権威ありそうな人が「良い」と言えばドッと飛びつき、そこから先はどこをどう褒めるのかというコミュニケーションしか存在しない。そのコンテンツが本当に良いのか、吟味する手間をはぶいてどうするの。もうこうなったら、インフルエンサーや有名人を総動員して、言いまくってもらうしかない。私の言葉を鵜吞みにするな、権威を疑え、問いつづけろって。そうしてみんなの意識が変われば、オーバーツーリズムだって早晩、解決するでしょう。

 あぁ、鱧のもうひとつの旬の話だった。二度目の旬は、夏場に産卵して、冬眠にそなえて爆食いする十、十一月にやってくる。
 突然ですが、僕は淡路島が好きだ。ひとつの理由は、谷崎潤一郎の『蓼食う虫』で淡路洲本を舞台に描かれる、小屋がけの文楽をぶらぶらと見に出かけるような、のんきで満ち足りた風情がまだ残っているから。そしてもうひとつは、鱧が抜群に美味しいからだ。
 むかし淡路の民宿で食べた「鱧すき」がもの凄かった。薄口醬油ベースでほんのり甘めの出汁を鍋にはり、掛け値なしに甘い甘い淡路玉葱をざく切りにして放りこむ。そこに骨切りした鱧を、これでもかというほど落としてゆくのだ。それは本当に尋常ではない量で、たとえるなら麻婆豆腐の豆腐、いやチーズフォンデュのチーズくらいの割合で鱧が鍋を埋めつくしている。またその味ときたら、もう。
 そんな淡路とくらべてしまうと、どうしても京都のそれはみみっちく思えてしまう。ツンとすましたお皿に、湯引きした鱧がちょこっと。でもなあ……その姿のきれいでなまめかしいことぉ。
思わず、
「他人(ひと)の女(ひと)のくちびるに鱧息止まる」
なーんて、どこからわいたのか自分でも信じられないような艶っぽい句が浮かんでくるほどに。
 魚偏に豊で鱧。その身は艶なる白さ柔らかさを持つ。


【弁解あるいは激賞】
 出だしの「京暮れて」から心をつかまれる。京都の夏は、釜の底に押し込められたような暑さだ。でも日がな一日、耐えたからこそ、夕暮れ時のわくわく感が一層高まるのである。先斗町で軽く飲るか、それとも鴨川の床に出ようか、祇園の小料理屋って手もある。そんな浮きたつ気分を、良く表している。
 そこで供されるのが、白さもまぶしい鱧の湯引きだ。ふわっとして、弾力があって、ほど良い脂のコクと旨味がたまらない。
 そして最後に「あり」と高らかに宣言して終わる見事さ。「あり」は、ここぞというときにしか使ってはならぬ言葉だ。虚子の「鎌倉を驚かしたる余寒あり」とか、草田男の「はまなすや今も沖には未来あり」のように。
 やはり、京都で鱧だから許される表現なのである。


2024年7月12日

第13回自句自賛 ― 家に居ながら海外の句を詠むことはできるのか


【課題】 「本日の季語・夜長」……立秋をさかいに短夜から夜長へ


【俳句ルールへのぼやき】
 岸本葉子さんがおっしゃった「季語に導かれるようにして、記憶の底に眠っていた体験、あるいはその中の一場面や事物がよみがえり、詩情が生まれ、それを十七音にまとめる。そうした試みは、一度しかない人生を二度、三度生きるようなことではないか」という言葉に背中を押されて、僕は句作を始めた。
 年齢的にもいいタイミングだった。人生はとうに半分以上が過ぎて、日々あっちが痛いこっちが動かないとなる体で、フットワーク軽く色んな所へ出かけてゆき新たな経験を積むことはむずかしい。でも頭の中で、思い出を旅して記憶の断片や感情のかけらを拾い集め、ためつすがめつすることならできる。それを句にすることが、いま・ここに湧き上がる感動を詠んだり、実景をそのまま写し取ったりする方法より劣るとは、僕は思わない。それぞれの句作法にそれぞれの意味があるのだと思う。
 そのむかし、上嶋鬼貫という俳人が紀行文をでっちあげた。家に居ながらにして、大阪から江戸へ下る十三日間の旅日記を創作してしまったのだ。まあ、でっちあげたと言っても、タイトルが『禁足旅記(きんそくのたびのき)』(禁足とは、外出や旅行を禁じてひと所に留めおくこと)なので、はなからネタばらししてるんだけど。おまけにすべてが空想というわけではなく、四年前に東海道を旅した経験と名所ガイド本を参照して書かれたものと思われる。
 本人は禁足の理由を、老いた両親がいるからと述べているが、どうだろう。事実、翌年に父親は亡くなっているものの、鬼貫は三男坊で惣領息子ではないし、それまでもそれ以降も、かなり自由にあっちへ行ったりこっちに住んだりしているのだし。やはり「こしかた見つくしたる所々、居ながら再廻のまなこをおよぼし」こそがこの本の眼目であり、架空の旅日記というアイディアの源なんじゃないだろうか。先ほどの人生を二度、三度生きるのとおなじ手法だ。
『旅記』は、地の文章の合間に発句が詠みこまるスタイルで、芭蕉の『おくのほそ道』と似ている。で、刊行されたのは『ほそ道』が書き上がる四年前だ。ならば芭蕉が鬼貫をまねたのかと言うと、そうじゃないんだよなあ。
 鬼貫は、かなり変な人だ。蕪村が重要な俳人を数えて五本指の一人とし、大祇が「東の芭蕉、西の鬼貫」とベタ褒めしたことで、世間的評価は高いけれど、当の蕪村が言う通り「世に伝る句まれ」なのである。有名な句や良い句は、ちょっとだけ。ゴメンなさい、でもほんとのことだから。明らかに作られた評判、盛られた評価なんだもの。じゃあ、なんでそんなことになったのか。
 鬼貫は、摂津伊丹に酒の蔵元の三男として生まれた。ちなみに芭蕉より十七下だ。
 八歳から俳句を始め、二十歳ごろから句集を出すようになる。二十四歳のとき地元の俳諧仲間と編んだ本のタイトルが『かやうに候ものハA・B・鬼貫にて候(AとBは仲間の俳号)』だから、インディーズバンドが『鬼貫参上!』みたいな、こっちが赤面してしまうようなタイトルのレコードを自主製作して悦に入っているところを想像すればいいだろう。
 そんな夢見る若者が親の説得にあうのは、今も昔も変わらない。おそらく、いっぱしの俳諧師気取りの鬼貫に、父親が「音楽で飯が食えるなんてのは一握りだ。まかりまちがって売れたとしても一瞬。人生は長いぞ」とでも諭したのだろう。二十五歳の鬼貫は、学問をしに大阪に出る。そこで二年ほど医術を学んだとも、ソロバン術を身につけたとも言われる。
以来、七十八歳で亡くなるまでのあいだに四たび大名家に仕官しているので、鬼貫は“士”だったとされるが、仕官先をそれぞれ二年・四年・四年・長く見積もっても六年、といった期間で辞めている。クビになった可能性も否定できない。だから士分だったのは、人生の五分の一ほどなのだ。
 注目すべきは、二度目の仕官のさなか人を殺めていること。狼藉をはたらく家来を咎めたら、向こうが刀を抜いてきたので一刀のもとに斬り倒した、という本人談が残っている。うーん。はたして剣術の腕前がそこまであったのかはさておき、家来をお手打ちにして、それを自慢げに吹聴するって……。いざ士になってみると、なんだろうこの高揚感は。自尊心が満たされると同時に特権意識が芽生える。そして武士らしくあらねばという強迫観念から、行き過ぎたふるまいに出てしまう。そんなことを想像してしまうのだが。
 士をやったりやらなかったりしながら、生涯句作に励んだ鬼貫、その人物としての特徴はふたつある。ひとつは、ものすごい“自慢しい”だったこと。
 先ほどの一太刀で切り倒した話もそうだけれど、まだ二十歳の駆け出し俳諧師だったころ、西山宗因という斯界の大ボスから「そなたは、ゆくゆく天下に名を知られん人ぞ」と予言されたと、七十七歳のときに語っている。宗因といえば、当時大スターだ。あの芭蕉でさえ、若いころ一度だけ句会に加わることができたくらいで、鼻もひっかけてもらえなかった。なのに鬼貫は激賞?
 おまけに「芭蕉? おぉあいつはな、俺の詠んだ句で開眼したのさ。どんな句かって? おほんっ“おもしろさ急には見えぬ薄哉”。良い句だろう」と本人が吹いていたという証言が、死後刊行された句集にある。その句で蕉風開眼という話が本当だとしたら、いんな意味で俳句の歴史が変わる。
 で、ふたつめの特徴だ。もうおわかりのように“やたら芭蕉にからみたがる”という点。もう芭蕉癖(マニア)と呼んでいいレベルで。
 先の『旅記』は、脱稿から刊行までを二ヶ月で終えている。かなりのスピード出版だが、急いだのにはわけがある。
 『旅記』が出たのが、元禄三年の十二月。その前年、ほそ道の旅を終えた芭蕉は、故郷の伊賀上野と行ったり来たりしながら義仲寺で年を越し、元禄三年は春から夏にかけて石山寺にほど近い国分山の庵にとどまって『幻住庵記』を執筆していた。
 その芭蕉に、どうしても『旅記』を読んで欲しかったのだ。作中こんな箇所がある。
「この所(兼平塚)より道を右にのぼりて、
       “石山のいしの形もや秋の月”
    もどりに芭蕉がいほりにたづねて、
       “我に喰せ椎の木もあり夏木立”  」
 これを読んだ芭蕉は(きっと読んだはずだ)、ぞっとしたに違いない。
 「石山の……」という句は、この四年後に完成する『ほそ道』の那谷寺の条に見える「石山の石より白し秋の風」という句の変奏だし、「我に……」という句にいたっては、妄想の中で幻住庵を訪ねた鬼貫が、翌年に出るはずの『猿蓑』に初出する「先たのむ椎の木も有夏木立」をもじって詠んだというしろもの。その内容ときたら、芭蕉の句が「才能も財産もなく、旅に疲れたわが身だけれど、ここに頼もしい一本の椎の木と、涼を与えてくれる夏木立がある」といったところなのに、「その椎の木ですけど、もう秋ですからね、うふふっ、どっさり実をつけたんじゃないすか? せっかくですから、ごちそうになりますかな。いただきやーすっ」なのだ。
「おまえ、誰やねん」
 芭蕉はそうつぶやいて、そっと本を閉じ、こわごわ部屋の隅に放って、手を洗いにたったにちがいない。
 どうやら鬼貫は、芭蕉が詠み溜めた発句や執筆中の俳文の内容を、之道という芭蕉のところに出入りしていた友人から入手したようだ。それをもとに『旅記』を書きあげ、得意満面だった鬼貫。どれだけ芭蕉に褒めてもらいたかったか。芭蕉先生の『ほそ道』は実際の行脚をもとにした紀行文になるみたいだけど、僕のは趣向を変えて妄想旅日記なんです。そりゃあ、他人の真似をして満足するような凡才じゃありませんからね、僕は。もちろん、先生へのリスペクトは絶対です。だって、先生のことならなんでも知ってるんだもの。未発表の句も、どこで何をしているのかも。って怖いわっ!
 鬼貫は自身の著作の中で、しばしば芭蕉について熱心に語っているらしいが、芭蕉の側から鬼貫について語られたことはただの一度もない。そりゃそうでしょう。そっとしておくのが一番だもの。
 と、かなり問題ある人だった可能性もあるが、鬼貫はこと俳句に関しては生涯、真剣に向き合い、工夫を怠らなかった。その事実は声を大にして言いたい。きっと、そうした真摯な姿勢や誠実な俳句論が後進らを励まし尻を叩いてきたからこそ、いまの評価があるのだと思う。やはり、大先達の一人なのである。
 そこで僕も鬼貫先生にならって、むかし旅した記憶を呼び起こして句を詠んでみようと思う。そうだな、どうせならもう四半世紀もしていない海外旅行を題材にしよう。
 考えてみれば、海外吟ってむずかしい。気候がちがうから、日本の風土に育まれた季語がマッチしにくい気がする。なにより、見るもの聞くもの刺激だらけの海外旅行中に、のんきに俳句を詠む余裕のある人なんているだろうか。まあ船旅なんてのは、のんびりしているから出来そうだけど。そうか船旅か。
 逆巻く波をのり越えて、海外吟に挑戦しよう。


【俳句】   「夜長、星四(し)千年(せんねん)流す長江」


【句の背景あれやこれや】
 二十一世紀に入ってまもなく、僕は中国を旅した。三峡下りを体験しに行ったのである。重慶でクルーズ船に乗りこみ宜昌まで、三日三晩かけて長江を行くのだ。
 思いきってチケットを取ったわけは、三峡ダムができると聞いたからだ。長江をせき止めて、世界最大の水力発電所を建設するのだとか。完成したら上流の水位が上がって、多くの文化遺産が水没し、景観も変わってしまう。そうなる前に、本来の姿を見ておきたいと思った。
 船はイメージしていたよりもずっと古く、思っていたよりゆっくりと大河を下った。流れるほどの速度だ。
夜も更けてラウンジの灯りも落ちたころ、甲板へ出てみる。年季の入ったエンジンのゴロンゴロンといううなり声が響き、秋気が頬をなでる。
 と、墨絵のように真っ黒な峡谷の裂け目に、星が光った。見上げれば満天の星だ。そうか。李白が、杜甫が、劉備が、陸遜がこの河を下ったのか。にわかに実感したのは、昔のままの空と山と河しか見えぬ闇夜だったからだろう。
 たぶん白帝城へ向かうときだったと記憶している。クルーズ船から木造の小舟に乗り換えて、支流に入った。渓流の両岸は切り立ち、まだ緑もみずみずしい木々の向こうに澄んだ青空が見える。
やがて小舟は綱をかけられ、河原を歩く男たちに曳かれて、流れをさかのぼり始めた。話でしか聞いたことのない曳き舟を、ここで体験できるとは。鬼貫先生も、こうして大阪八軒家から伏見まで淀川を上ったのだ。頭の中だけど。
 遡上が終わり向きを変えた舳先に、ふたたび船頭が立って竿をふるうと、船は気持ち良くすべりだした。と、一陣の風がおこり、船頭の麦わら帽が飛ばされる。帽子は尾を引いて川面を飛ぶ。水に落ちる寸前、最後尾に座っていた僕がそれをつかまえた。手元にもどった帽子を、船頭は何事もなかったかのようにかぶり、また水底を竿でついた。そのとき僕は、渓流が本当に澄んで清らかなことに気づいた。なんときれいな水だろう。
 そのとき訪れた史跡、町、景勝、どれも印象深いが、なににもまして長江を下ったこと自体がすばらしい体験だった。
 ただ途中、うち捨てられた町をいくつも見た。無人の廃墟だ。あるいは、まさに引っ越しの最中という村もあった。ダムによって沈んでしまう両岸の人たちが、移住させられているのだ。水に飲みこまれる高さにある文化財や史跡を移動する現場も目にした。経済発展のためにはエネルギーがいる。それはわかるけれど。
 その後、三峡ダムは無事完成し、長江流域の景観は一変した。


【弁解あるいは激賞】
 この句は「夜長、」と始まるが、単に“秋の夜長に”とだけ言っているわけではない。“人生は無明長夜である”ことも指し示しているのだ。
 ただ、無明の人間社会は絶えず騒乱・動乱にみまわれ、混乱におちいるけれども、小室直樹先生が「世が乱れると、人が輝く」とおっしゃったとおり、それを乗り越えて人は生きる。混乱の極みと言うべき三国鼎立時代に、綺羅星のごとき英雄たちが現れ躍動したように。地獄と化したガザで、パレスチナ人を救おうと命懸けで尽力する方々が途切れぬように。
 だから句意はこうなる。
秋の夜長、数えきれぬほどの星影が長江を流れて行く。その悠々たる大河は四千年にわたり、無明長夜に輝く星のような英雄や詩人たちを運んできたのだ。

 おことわりしておくが、ここはシセンネンであって、けっしてヨンセンネンと読んではいけない。
 日本語の数のかぞえかたには二系統ある。ひとつは和語の「ひ、ふ、み、よ、い、む、なな、や、ここのつ、とう」。もうひとつは中国語がもとになった「イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、ク、ジュウ」だ。
 その使い分けだが、数える対象が和語ならば和語の数詞「ひ、ふ……」を使い、字音語や硬い響きの言葉は漢語系の「イチ、ニ……」でかぞえる。
 ではどうやって和語か字音語か見分けるのかというと、その言葉が訓読みなら和語で、音読みなら字音語なのだ。
 たとえば“度”を訓読みで“たび”と読めば、「ひとたび、ふたたび、みたび、よたび……」となり、音読みで“ド”と読むと、「イチド、ニド、サンド……」という具合だ。
 ちょっと待って、その説明は怪しいぞ。「サンド」のあとも続けてみなよ、「シド」なんて言わないじゃないか、と思われるかもしれない。
 ところがどっこい、真言宗の行者が最初にする修行は四度加行と書いて「シドケギョウ」と読むのだ。つづけて「シド、ゴド、ロクド、シチド……」。シチドも違和感を覚えるかもしれないが、上方落語に「七度狐(シチドギツネ)」という噺がある。「シチド、ハチド、クド(三々九度のクドだ)、ジュウド」でおしまい。
 で、いま問題にしている「千年」だが、“ちとせ”ではなく“センネン”なのだから、漢語系で「シセンネン」とかぞえねばならない。だいたい「センエン、ニセンエン、サンゼンエン、ひとつとばしてゴセンエン、ロクセンエン……」なのに、四だけ「よんせんえん」と和語にするほうがおかしいでしょう。だから本来は、あるいは正しくは、中国よんせんねんの歴史ではなく、中国シセンネンの歴史なのです。
 もちろん言葉は時代とともに変わる。昭和天皇は玉音放送で「米英支蘇四国(しこく)に対し……」と言ったが、タモリの往年のネタは「四ヶ国(よんかこく)麻雀」だ。明治まで銀座四丁目という町名表示は「GINZA SICHOME」とローマ字ルビをふられたけれど、志村けんが歌ったのは「東村山よんちょうめ」。謡曲小袖蘇我では「時しもころは建久四年(しねん)」と発音しても、小学館の学習雑誌は「小学四年(よねん)生」だ。それはそれでかまわない。
 でもこれからも、小袖蘇我が「建久よねん」と謡われることはないし、四度加行が「よどけぎょう」になることはない。それとおなじく文語表現の力を借り、ゆかしい季語を使う俳句においては、昔ながらの発音は揺らがず守るべきところなのではないだろうか。


2024年7月4日

第12回自句自賛 ― えっ、これが季語じゃないの?


【課題】 「本日の季語・蠍座」……これから蠍座は夏の季語とします


【俳句ルールへのぼやき】
 歳時記をひくと、季節ごとに「時候」「行事」「動植物」とならぶ中に「天文」という項目がある。昼夜様々な空の景色を季語としているのだ。たとえば夏の「天文」には“油照”“夕立”“虹”“西日”“夕焼”などが挙げられている。ところが「天文」と聞いてまっ先に浮かぶはずの星座や星の名前は、ひとつも記載されていないのである。まっ先に浮かぶか? という疑問には、とりあうつもりはありません。なんせ、中学生のとき天文部に所属していた僕がそう言うのですから。
 「天文」夏の部に、かろうじて“夏の月”や“夏の星”あるいは“旱星”はあるものの、熱帯夜に空へ這いのぼる“蠍座”も、みんな大好き“織姫”ヴェガや“彦星”アルタイルさえものっていないって、おかしくないですか?
 季語として認めない理由は、「冬の星座とされるオリオンも夏の明け方には東の空に昇ってきてしまうから」らしいが、まったく理由になっていない。“ラグビー”のリーグワンは五月上旬まで試合をしているし、グリコカフェ“ゼリー”は通年食べるけれど、それぞれ冬と夏の季語にしているじゃないですか。“朝焼”も“夕焼”も一年中見られるけれど、夏の季語としているじゃないですか。それが社会的認知というものだから、それはそれでかまわないと僕も思います。ただそういうことならば、一般的な感覚として、日没を待って空に昇り深夜に沖天にある星をその季節の星とみなしているのだから、獅子座は春、蠍座は夏、オリオン座は冬でなんの問題もないでしょう。それに世界共通で、かの星があの方角から昇ったらこの季節が訪れるというふうに、特定の星が季節を指し示す役を担ってきたことは事実です。なのに、俳句界はどうして星や星座名を季語とすることを拒否し続けるのか?
 もやもやした気持ちでネット検索をかけると、俳人・橋本多佳子が“オリオン”と“天狼(シリウス)”を季語に認定してたという情報がヒットして、僕は小躍りした。『橋本多佳子全句集』の季語索引にあるというのだ。
 ところが手元にあったそれを開いて脱力してしまった。たしかにオリオンと天狼はそこに記載されている。だが、この索引は多佳子自身の手によるものではなく、おそらく版元の角川の編集者が分類整理したものだろう。その証拠に多佳子は、オリオンも天狼も季語とは考えていない。オリオンの入った句は七つあって、それぞれ“冬の”“新年”“苅田”“修二会”“野火”“露”“除夜”という季語と共に詠まれているし、天狼が登場する二句も“山焼き”修二会“という季語がきっちり入っている。考えてみれば、あんな厳しい師匠・山口誓子にさからってまで星座を季語とする義理は多佳子にはないのである。
 誓子は、かなりの星好きだった。天文随筆家の野尻抱影と『星戀』なる共著を出版したほどの天文ファンなのである。だが、こと星座は季語としないという不文律に関しては、ごりごりの守旧派だった。だから、盟友であるはずの抱影が『図説俳句大歳時記』の天文の項の監修にかかわった際、“オリオン”“天狼”“すばる”を季語とした(さすが先生!)にもかかわらず、誓子がそれを是とした記録は残っていない。そして抱影にならって旧弊を正そうという動きも、ついぞ俳句界には起こらなかったのである。なんとかたくなな人たちだろう。

 ところで、そもそも季語は誰が選んでいるのか。歳時記の編集者である。で、その任にあたるのは俳人や文学者だとされるが、実際のところはどこの誰なのかよくわからない。本来なら、見識と美意識とをそなえた選考委員を選び、オープンな会議を開いて、取捨選択の理由を添えて選考結果を発表するくらいのことをしたってバチは当たらないだろうに。
 それはそれとして。新しい言葉が季語として認められるには、その言葉を使ったすぐれた俳句作品が広く知られることが不可欠だとされる。ならば僕が一肌脱ぎましょう。手始めに“蠍座”を詠んで夏の季語としたい。なぜ蠍座かって? 僕の誕生日が十一月だからです。
 蠍座は俳句ではあまりお目にかからないけれど、漢詩ではときおり題材にされてきた。
たとえば劉兎錫が白楽天に送った「天静かにして火星流(くだ)る 蛩(こおろぎ)響(な)きて偏(ひとえ)に井に依り」という詩はどうだろう。「火星」は蠍座のアンタレスで、「流る」は秋になって西へ下った様だ。
 また作者不詳だが「天高うして気象秋なり 海隅雲漢転じ 江畔火星流る」というのもある。海に天の川(雲漢)がそそぎこみ長江にアンタレスが落ちかかる、上海にほど近い潤州の夜景を描いている。
 このように漢詩の世界では、蠍座が西に傾いたら秋がやって来るというのがお約束なのである。ということは、アンタレスが高くにあるうちは夏も盛り、そんな感覚は日本も中国も共通しているのである。
 では新しい季語とするべく蠍座で一句。


【俳句】   「蠍座(さそり)天へ鯨のごとき島を釣る」


【句の背景あれやこれや】
 三十年ほど前のことだ。お盆休みに丹後伊根町の知人宅を訪ねた。知人宅と言っても、ただの家ではない。舟屋だったのである。二階建て家屋の下半分が海につかっていて、そこには船が収まっており、いつでも漕ぎ出せるようになっている例のあれだ。
 夕方、一緒にお墓参りへ出かけた。古びた共同墓地は、遠く海を見はるかす丘の上にあって、夕間暮れの沖には、たくさんの電球をまばゆいばかりに灯したイカ釣り舟が数隻、網を下ろしていた。あの夕照と電球の光は、いまでも脳裏に輝いている。
 日は暮れて、家人の歓待を受けた僕は、少しは遠慮すればいいのに、たらふく呑んで食べて、いつの間にか眠りこけてしまい、深夜に目が覚めるという失態を演じてしまった。とにかく、のどが渇いてしかたない。でも、深夜に台所へ行ってごそごそするのは気がひける。そこで、ジュースの自動販売機を求めて外へ出ることにした。
 海辺の町はまっくらで、見上げると星がぴかぴかまたたいている。
 うへえ、天の川ってあんなにくっきり見えるのかとあきれるほどに。
 そのとき、あるかないかの波が舟屋を洗って、ちゃぷんと音をたてたのである。

  「夏銀河とぷん舟屋を漱ぎしか」

 船着き場まで行ってみようと思った。そこなら販売機がありそうな気がしたのである。
 川瀬巴水の版画のような藍色の空に黒々と沈む大地。星明りの道をたどる自分が、だんだんと昔ばなしの中の人物のように思えてくる。
 船着き場に着いた。生ぬるいけれども頬に風を感じる。その風がやって来る沖に目をやりギョッとした。
 まんまるい鯨のような島影が、ヌッと海から浮かびあがったように見えたからだ。
 そしてその上には、巨大な弧を描く釣針が輝いていたのである。
 ポリネシアではマウイがニュージーランドを釣り上げた針だとされ、瀬戸内では魚(うお)釣り星あるいは鯛釣り星と呼ばれる蠍座。でも伊根では、鯨釣り星以外の名前はまず考えられない。ひとりうなずいた夜だった。


【弁解あるいは激賞】
 俳句は「てにおは」が大事だ。情報伝達の面からも、句から受ける印象の面からも。当句でいうと「天に」とするか「天へ」とするか。
 どっちでもいいように思うかもしれないが、「に」だと「天に昇って」の意味と「天にあって」の二つの可能性が出てきてしまう。でも「へ」なら「天へ昇って」に限定されるので、夜天をめぐる星々の動きを詠まんとする作者の意図が明確になるのである。


2024年6月25日

第11回自句自賛 ― やっぱり俳句で爆笑は取れないのか?


【課題】 「本日の季語・蛸」……蛸は夏の季語でよいのだろうか


【俳句ルールへのぼやき】
 ルールその二、俳句はまじめに詠まなければならない。
 それは重々承知しておるつもりですが……。
 前回、まじめに笑いをとりにいったにもかかわらず苦笑い止まりだったことが、どうにも不本意でしかたない。やっぱり爆笑を取らないと、笑わせたことにはならないと思う。というわけで、もう一度だけ無謀なチャレンジを許して欲しい。
 まあ、そうして無茶しようとするからには、秘策がないわけでもない。コメディとホラーは紙一重という理論を利用しようと思うのだ。
 一見、笑いと恐怖は対極にあるように思える。ところが両者は、構造が驚くほど似ているのである。
まず笑いは、緊張が緩和することによって生まれる。テンションをかけられた空気が、ボケることで緩み、プッと吹き出してしまうのだ。ならばボケとは何かと言うと、意外性なのである。こう来るだろうとふんでいたら、あさっての方角から来たみたいに。
 では恐怖はどうか。それは緊張の高まったところで、異常な何かがドーンと現れることで精神がザワつくことだ。異常な何かというくらいだから、ボケと同様、常識を外れれば外れるほど、意外性があればあるほど怖さは増す。ただし、あまりに逸脱の度が過ぎると、怖さを通り越して笑いに変わってしまうから匙加減が難しい。たとえばサム・ライミ監督の『スペル』のように、受難者であるはずの女性が、あまりに不屈のメンタルを持ち闘争心むき出しで屈強だと、もろコメディになってしまうのである。
 そこらへんに注意しつつ、笑いと恐怖がない交ぜになった爆笑句を詠んでみようと思う。

 それはそれとして、季語への疑問を。今回のように具体的な生物でありブツである季語の場合、季語認定者が想定するモノや過去の俳人が詠んだそれと、現時点で詠みこまれたモノとの間に重大なズレが生じるケースが、近年特にありはしないだろうか。
 たとえば“韮”はどうだろう。春の季語のニラだ。実家ではよく、包丁片手に庭先に出てニラを刈り、卵でとじて吸い物にしたが、取れたてだから香り豊かで、食欲がないときでもスッと口に入った。でもそうして香りが強いわりに舌触りはやわらかで、胃腸にやさしく感じたものだ。
 ところがここ二十年で、商品としてのニラはまったくの別物になってしまったのである。全然、嚙み切れないのだ。そうしていつまでも繊維が残る理由は、おそらくF1種だからだと僕はふんでいる。かつて加藤秋邨は「忘れんや韮噛んでわかれゆきし日を」と詠んだらしいが、もしこれが昨日今日作られた句なら、秋邨はニラをずーっと噛み続け、それでも噛み切れず、夜になってあきらめてペッと吐き出したということになるだろう。ある意味、忘れ得ぬ記憶かもしれないが、句のおもむき、味わいは決定的に変わってくるのではないか。
 おなじことが蛸にも言える。現在、日本で消費される蛸の六割は輸入品で、はるばるモロッコあたりから来たものなのである。それを蛸あるいは章魚と表記してこれは夏の季語です、と平気な顔で言ってよいものやら。
 なにも国産品でなきゃ食わないぞとか、現代農業はなっとらんということではなく、いま少し季語とされるモノの中身の変化と、そのことによる共通イメージの変容に敏感になって、それらを通して社会のありかたを考えることも大事なんじゃないのかと思うのだ。初学の者だからこその正直な感想である。
 と、大上段に振りかぶったあとで非常に気まずいけれどもしかたない、爆笑句を詠みましょう。


【俳句】   「歯に海苔が、教える君の歯にタコが」


【句の背景あれやこれや】
 ひとに、あやまちや不都合な事実をしらせることは難しい。僕は苦手だし、大多数の人もそうなんじゃないだろうか。
 その証拠に、スカートの片方がパンストに挟まって半分お尻が見えている女性をたまに目撃することがあるけれど、みんな見て見ぬふりをするのだ。きっと、その人があわててトイレに駆けこんだところや、その後の顛末を想像してしまい、どう伝えたところで恥をかかせることになると、二の足を踏んでしまうにちがいない。
 ましてやそれが、向こうから先に「ズボンのチャックが全開ですよ」と耳打ちしてきたのだとしたら、もう絶対に「そう言うあなたはお尻まる出しですけどね」とは言えないのである。
 だったら……やっぱり先に教えてあげたほうがいいのか。そして万が一、向こうから先に指摘を受けたとしても、ひるまず事実を告げようではないか。たとえ頬を打たれようとも、世界を敵にまわそうとも。
 むかし、皮肉屋のイギリス人がこう言った。
「遠い呼びかけには、精一杯大きな声で応えよう。沈黙というのは、とてもさみしいものだから」


【弁解あるいは激賞】
 この句のポイントは、相手の歯に何を挟ませるのか、である。
 もし「教える君の歯にアリが」だと、純粋な恐怖しかわいてこない。ホラーになってはいけない。
 ここはタコだからこそ、俳味が出るのである。タコが季語だということではなく。
 海苔(青ノリ)とタコときたら、二人が食べたものはタコ焼き以外に考えられない。それくらいシャーロックホームズでなくともわかるはずだ。ならば舞台は大阪だろう。で、あなたの歯についた青ノリを見て眉をひそめる彼女に、そう言う君の歯にはタコが挟まってるよと、指摘できるのかがここでは問われているのだ。この場合、教えても教えなくても大変なことになるのは目に見えている。けれども指摘しなければならないのである。彼女を本当に愛しているなら。でもなあ、やっぱり心配だよなあ。
 大阪、夏、人間関係のもつれとくると、文楽『夏祭浪花鑑』の幕が開く。語りは六代目竹本織大夫にお願いしたい。泥まみれになって義父を惨殺する田七。刺青、血糊、遠く近くだんじり囃子が響き、暗闇に祭りの灯がちらつく。まるで、あなたと彼女の運命を暗示するかのようだ。いかん。どうしてもホラーになってしまう。
 ギャク句の壁は厚い。