2022年10月22日

 子どものころは一日中、テレビばかり見ていました。70年代のテレビは本当に面白かったのです。
 今はなき二時間サスペンスも、母親が好きだったので、見るとはなしに見ておりました。すると劇中、刑事がよく「犯人は犯行現場に戻ってくる」と言うんです。で、本当に戻って来たり、現場の写真に写りこんでいたりして捕まってしまう。それを見るたび、そんなことある? と疑問に思ったものです。だって誰が考えてもリスクが大きすぎますもん、戻るなんて。
 ところが私は近ごろ、しきりに拝むという行為について考えるようになりました。僧侶にとって礼拝は原点ですから、出家してかれこれ四半世紀、出発点に立ち返る時期がきたのかと思ったりして、なんとなく犯人の気持ちがわかりかけた今日このごろです。
 そんな中、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の朗読を耳にして、この詩もまた拝むという視点から味わうことができると気づいたのです。
 あの詩には賢治の願いが込められています。要約すると「体は頑健であって欲しいが、あとは全く世の中の役に立たない人でいたい」となります。詠んだのは亡くなる約一年前で、すでに病に倒れ遺書までしたためたあとですから、丈夫な体が欲しいという思いが切実だったのと同じく、役立たずでいたいというのも心からの願いだったと推察できます。
「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」
 この詩自体は教科書にものっているので皆が知っていますが、賢治がなりたがったデクノボーにモデルがいたことは、それほど知られていないのかもしれません。

 賢治は熱心な仏教者でした。そしてこの詩も仏教の教えが下敷きになっています。
 たとえば詩中の「欲ハナク 決シテ瞋ラズ …… ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」は、仏教が説く“貪瞋痴”という苦しみの元となる三つの毒をふまえたものです。貪はもっともっとと、欲望が際限なくふくらんでゆく心の働き。瞋は思い通りにならないことを憎み、怒りが抑えられない状態。痴は真実が見えず、本当のことを見ようとせず、苦しみを抱えてあてどなく闇をさ迷うこと。賢治はそれら三毒を超克したいと願ったのです。
 そしてデクノボーのモデルは『法華経』の中にある常不軽菩薩ではないかと言われています。どんな菩薩かと言うと、相手の年齢がいくつだろうと、男でも女でも、貴賤貧富の差なく、誰に対しても「あなたを敬います」と礼拝する。でもそれだけしかしない。教えを説くことも、人を助けることも、読経も瞑想もせず、ただひたすら礼拝する。そして自分をバカにする人も、眉をひそめる人も拝むので、神経を逆撫でされた相手に棒でぶたれたりする。するとツーっと逃げて、また礼拝する。向こうはよけい腹をたて、石をぶつけてくる。すると石が届かないところまで逃げて、また礼拝する。相手は地団太踏んで「この役立たずのデクノボーっ!」と罵る。と、声が聞こえないところまで離れて、また拝むのです。
そして拝むたびに語りかけます、「私はあなたを敬います。皆があなたを悪く言ったとしても拝みます。あなたが私を傷つけたとしても拝みます。あなたが絶望し、何も信じられなくても拝みます。なぜなら、あなたは今、仏となる道を歩まれているからです」と。

 賢治がなりたかったデクノボーとは、いったいなんだったのでしょう?
 世の中の役にたたないということは、逆に言えば世間的に役に立つ様々な力、たとえば権力や財力や腕力や能力などを持っていない、持たない、拠り所にしないというです。では、何を拠り所にして生きようというのか? それを考える際、良い補助線となってくれるのが茶の湯です。
 茶の湯の祖・村田珠光は、お茶の極意は「痩せて冷えて枯れた」ものの中に美を見出すことだと言いました。随分とひねくれたことを言いますよね。だって、みんな痩せたものより豊かなものを好むんですから。冷えたものより温かなものを、枯れたものより生命力の強いものに惹かれる。そう、力が欲しいのです。
 でも、考えてみて下さい。薫風にそよぐ新緑はやがて木枯らしに散り、温かなお茶はいつの間にか冷めて渋くなり、月は欠け、人は老いる。なぜなら、あらゆるものの本質は弱くて脆くてはかないからです。ゆえにうつろう。だからそのうつろいそのものを愛でようというのです。満開の桜や澄んだ空に登る満月といった一部ではなく痩せ冷え枯れまでふくめた全体、自然という大きなものをまるごと味わう。そう、それが自然ではないかと。それが茶の湯なんだと。

 デクノボーも同じではないかと思うのです。
 拝むというのは、腰を折るように自分というものを小さく折り畳んでしまい、手を合わせるように拝む対象と心を合わせひとつになることです。すると向こうに大きなものを感じる。そして自分はその大きなものと常につながっていること、その一部であること、そのものであることに気づく。そうした大きなものを仏と呼ぶのではないでしょうか。
 自分を傷つける相手を拝むと、相手が大きなものと一体化して、自分もそこに重なる。だからみんなが一緒に仏となる道を歩んでいると思える。
 ああしたいこうしたいだけではなく、全体を受け容れる。

 この社会において自分の思い通りに生きよう、偏った見方という注意書きは必要ですが、良い生活より良い生活をしようとするならば、様々な力が必要です。いつ頃からか書籍のタイトルに『聞く力』だの『悩む力』だの『断る力』だの、中には『段取り力』や『老人力』なんてのもあるほど、やたら力という言葉が付くようになりました。それは国力が衰えつつある日本において、皆が不安をふり払おうと力を求めていることのあらわれなのかもしれません。
 ちなみに近代資本主義と近代組織の原型となったアメリカ・マサチューセッツ社会の基本デザインは「純潔・力・自由(ピュリティ・パワー・リバティ)」でした。他の権力からの自由と信仰の純潔を守るには強い力がいる、というわけです。
 でも、それでは次々とわき起こってくる不安に抗えないこともまた事実です。たとえば、強大な権力を手にした独裁者が疑心暗鬼に駆られて粛清を繰り返し、権力の座にしがみつき、孤独で怯えたまま亡くなることがよくあるように。不安は、権力や財力や腕力ではおさえこめないのです。
 だから力だけを求め、すがるのではなく、大きなものを拠り所とすることも大事なのだと思います。 私もまだまだ様々な不安や苦しみを克服することはできません。でもきっと常不軽菩薩がそうなさったように礼拝を繰り返すことで、大きなものをありありと感じることができるようになると信じて今日も手を合わせます。