2022年3月16日

前回、長崎の平和祈念像には問題があるとした件について。
突然ですがクイズを。日本で最も数が多いのは誰の銅像でしょう?
その通り、二宮金次郎と弘法大師や日蓮聖人など各宗派のお祖師方です。
ニノ金は学校の校庭にあって、石像から銅像に作り替えたところも多いようです。
そして寺に行けば決まって祖師像が建っています。私が子どものころ真言宗の寺院では、笠をかぶり錫杖を手にした行脚姿の弘法大師像を建立するのがブームでした。実家のお寺も例にもれず、立派な大師像を建て、盛大に除幕式を行ったことを覚えております。
このように宗教者とニノ金は別格です。では両者を除いた場合、最も多いのは誰でしょう?
残念! 坂本龍馬ではありません。龍馬は33体で次点なんです。
トップに輝いたのは松尾芭蕉。その数、全国で37体が確認されています。そこには歌碑などの文学碑を建てるという伝統が影響していると思われます。
ということで、銅像の歴史を紐解いてみましょう。

日本で「出来事を視覚的に後世に伝えようとする建造物」が作られるようになったのは意外に新しく、江戸時代からです。当時は石に事績を刻んだ碑の形で、史跡碑や名勝碑や人物顕彰碑そして文学碑などが盛んに建てられました。
それが明治になると、西洋式の人物銅像が広場などの公共空間に建てられるようになります。その目的は、人々の思考を誘導することにありました。プロパガンダ装置なのです。
だから明治から戦間期に建てられた銅像の多くは、戊辰以降の戦争で活躍した元勲や軍人が圧倒的に多かった。でもそれらは大戦末期の金属回収と戦後GHQの指示による撤去で消え、台座だけが虚しく残ることになります。と思ったら、すぐそこに平和を謳う像が建てられるのです。軍国主義から平和主義に変わっても、民衆教化のための彫像という本質は変ることはありません。
実は長崎の平和公園に建てられた平和祈念像を作成し売り込んだのは北村西望という彫刻家で、戦前は戦意高揚のための軍人像を盛んに作っていた人物だったのです。そういう人物が作った像だから問題だとおっしゃる方の意見も、「巨大な芸術作品の前で祈りをささげることなどできない」とおっしゃる川添猛神父のお気持ちも理解できます。

そして平和を願う新日本の象徴として盛んに建てられたのが裸婦像です。何ゆえ裸婦なのかという考察のないまま、その数はどんどん増えてゆきました。
アーティストであり芸術評論家である小田原のどかさんによると、明治以降の芸術家にとって人間を裸体で表現するのはあたりまえのことで、像によって何を表現するかなど考えていなかったといいます。
西洋美術史家によると、本来、西洋でもヌードの彫刻や絵を公衆の面前にさらすことはご法度だったのだとか。でも、それが神話や聖書の中の人物なら裸でも許された。逆に言うとヌードにはなんらかの象徴や寓意が込められていなければならないということです。
ところが戦後の芸術家たちもヌードというジャンルを所与のものとして、日本の文脈や風土における意義を考慮せず、なんの葛藤もへずに制作し続けてしまった。行き着いた先が、『ヌー道 nude』という裸の銅像を集めた本を出されたみうらじゅんさんが紹介するような、ホットパンツのみでトップレスの女性や、薄手のブラウスにアンダーレスの女性といった、裸婦ですらない、なんだかわけのわからない銅像です。それら意味不明の裸像が公共空間に溢れるようになってしまったのが現状なのです。
北村西望は祈念像を売り込む際に「奈良の大仏に倣って、できるだけ大きな男神像を作るべきだ」と言い、その像の裏側に「山の如き聖哲、それは逞しい男性の健康美」と刻みました。
社会が恐るべきスピードで変化し複雑化している現在、私たちは面倒でも常に思考や振舞いをアップデートをしてゆかなければなりません。だから早晩、ヌード像は町なかから消えることになるかもしれません。ひょっとしたら祈念像も。
小田原さんは『近代を彫刻/超克する』で述べておられます。否定され、壊され、引き倒される時にはじめて彫刻は発見されるのだ。彫刻は変わらない。それを見る私たちが変わるのだ。私たちは変われる、と。


私は、拝むという行為に対する意識は明治以前と以後で大きく変わったと思っています。明治維新というのは日本人が身も心も西洋人になろうとする運動だったわけですから、西洋人の意識や感覚に寄っていったわけです。
明治以前の日本人は、なんでもかんでも拝みました。朝起きればお天道様を、野に石仏があればそれが何かわからなくても拝む。神社を、田中に雷が落ちた跡に建てた祠を、しめ縄の張り巡らされた大木を拝む。
それに対し明治政府は神社合祀令を出しました。一町村一社を原則とし、小祠や淫祠を廃止・統合していったのです。その「淫祠=なんだか分からない神」という用語が本質を見事にえぐっています。なんでもかんでも拝むのはやめろと言うのです。
その結果、明治改元からちょうど百年後に生まれた私まで、見事その目論見にはまってしまったのですから恐ろしい。
私は子どものころ、年長者から「車に轢かれた猫や犬を見つけても、可哀そうだと思ってはいけない」と聞かされました。情けをかけると犬猫の怨念にとりつかれると言うのです。世は口裂け女やら地縛霊やらスプーン曲げといった心霊オカルトブーム真っ盛りでしたから、その言説はかなりのリアリティをもって頭に刻まれました。だから以降、私は轢かれた犬猫から目をそらすようになり、その習慣は坊さんになるまで続きました。だから今はせめてもの罪滅ぼしに、轢かれた猫を見つけるとタオルに包んで寺の敷地に埋葬するようにしております。
同様の心理をモチーフにしたのが、浅田次郎の小説『憑神』でしょう。淫祠を拝んだ下級武士が疫病神にとり憑かれるというお話です。これもまた、作者の意図は別として、うかつにわけの分からぬものを拝んではいけないという教訓を読者の心に残すことになりました。
それらは江戸時代とは全く違う心性です。その変化の大本が明治の西洋化にあるのです。
もちろん西洋化が全て悪いとは言いません。でもそれが、弱者から掠め取り害毒を押しつける「周辺化」を原動力とする資本主義経済において自らを優位に置くために「より速く・より強く・より効率的に」を目指して行われたことならば、再点検してみなければなりません。

西洋のように強くなろうと必死だった明治政府は、日本に欠けているのは彼らのような一神教だと考えました。そこで国家神道なるものをでっち上げた。それ以外は拝めなくしたのです。
キリスト教者にとって拝むとは、いかに純粋に唯一の神を信じているのかを表明することです。ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が被爆地長崎を訪れた際、平和祈念像は異教の偶像だという理由で平和公園に立ち寄らなかったことはご存知かと思います(平和祈念像自体が抱える問題については別の機会に述べる)。また仏式の葬儀で、弔問にいらっしゃったクリスチャンの方々が式中は外に出てしまいお焼香もなさらないこともよくあります。それは彼らの考えですから私がとやかく言うことでありません。でも、これは自分も含めてですが、八百万の思想を知り、クリスチャンでもない人が、彼らに倣うかのような心性を抱いているという点については考えてみるべきだと思います。

そこで、なんでもかんでも拝むという行為を仏教の視点から実践するとこうなるという例をあげておきます。
実を言うと、私は『法華経』というお経はいまだによく理解できていません。聖徳太子が注釈書をものされようが、道元禅師が「諸経の王」と激賞なさろうが、どうにも分からないのです。
ところが『法華経』に登場する常不軽菩薩という仏様は、心の底から尊敬、いや敬愛いや……拝んでおります。
常不軽菩薩は、誰に対してもただただ礼拝する。ののしられようが、石をぶつけられようが相手を拝む。「私はあなたを深く敬います。決して軽んじたり、見下したりしません。なぜならあなたの心の底に仏性があるからです」とおっしゃって。
臨済宗円覚寺の管長・横田南嶺老師はおっしゃいます「この人生もただ礼拝行なのだ。咲く花にも散る花にも手を合わせ、誰に会っても手を合わせる心で接する。何も得ず、何もなくさず」と。
私もそうありたいと願い、日々格闘しておるのですが……なかなか。