2021年11月19日

ではもし意志だけが行動の出発点ではないとすると、意志とセット扱いになっている責任の所在はどうなるのか?
答えは意志の概念のなかったギリシアを参照すれば明らかになる。
現代の映画やドラマの元祖と言うべきギリシア悲劇では、主人公はああしよう、こうしようともがくが、様々な理由からそれが叶わない。あるいはやってしまったことが思わぬ方向に転がってしまう。ではそこで起こる悲劇は誰のせいだとされるのか?
もちろん行為をおこなった主人公のせいだ。しかし彼の断固たる決意を邪魔したのは運命であり天の配剤なのだから、その働きも認める。つまり主人公は加害者であると同時に被害者なのである。

そうした考えは、近ごろ新しい問題解決法として注目を浴びる当事者研究と共通している。
今までは何か問題が起こったら、専門家や医者がどこが悪いのか診断して治療するという方法が一般的だった。だって問題はその人にあるのだから。
しかし当事者研究というのは、病気や障碍や受刑者もそうなのだが、何か困りごとを抱えた人たちが、同じように困っている仲間とどこに問題があるのか研究するのである。
まず外在化と言って、問題を本人の外に取り出して観察する。するとそこには生い立ち、人間関係、誰と何を見て聞いたのか、食べたもの、お天気、出来事の順番、偶然、色んな要素がからんでいることがわかる。ギリシア悲劇のように本人の意志以外のものも大きく関係しているのだ。
不思議なのは、それなら自分に非はないと開き直りそうなものだがそうならないところで、そうやって客観的な現象として研究すると次第に自分がしてしまったことの影響、例えば誰かを傷つけてしまったとか、それを認めて責任を引き受けよう、つまり相手に応答しなければ! という気になってくるのだそうだ。
責任という言葉の元になった英語はレスポンスビリティ、まさに相手に応えることこそが責任なのである。
ところが、自分の意志でしたのだから責任を負えという押しつけでは、そうした感情はわき上がってこない。さらに言うと、投資の際に念を押すなら「レスポンスビリティ=責任」ではなく「オウンリスク=結果を受け入れる」であって、自己責任という言葉は的外れなのだ。ましてや誘拐人質事件や雇用問題にレスポンスビリティを持ちだすのは何をかいわんやである。

と、これまでの話は全く仏教と無関係に聞こえるかもしれないが、実は有名なお経『般若心経』のこれまた有名な一節「色即是空 空即是色」が示す所がまさにそれなのである。
色とは個々の物や命や現象で、空とは様々な因縁がからみあった全体を指す。
個々の現象は常に全体とつながっている。そして全体は「個々の総和+α」としてある。
仏壇やお墓やお寺で手を合わせ、自分を小さく折り畳んで拝む対象と一つになるという行為は、それを実感する機会なのだ。


2021年11月17日

お坊さんというと古めかしい衣装と舞台装置のせいか、テクノロジーとは無縁の生活をしているように思われがちだ。少し前のことになるが、車で檀家さんの家にお伺いしたところ、いぶかしげな顔で「お坊さんが車に乗るんですか?」と尋ねられたことがある。坊さんは歩き、百歩譲ってカゴ、そんなイメージなのだろうか。
もちろん坊さんだってスマホもパソコンも人並みに持っており、知り合いの禅寺の典座さん(料理番)はクックパッドを見て煮物や汁物の研究をしているというし、私もネットで品物を注文したりする。
ただそこで毎回ひっかかるのが、例の「同意しますか?」というやつだ。そこにどんな条件が書かれていたとしても、同意しなければ注文できないのだから選択の余地はない。とんでもない事態が起こっても甘んじて受け入れます、というボタンを押すたびに背中がヒヤリとするあの儀式はどうにかできないものだろうか?
できないのだろう。向こう側はとにかく責任を負いたくないのだから。責任、あぁ責任。

自己責任なる言葉を聞くようになって随分とたつ。おそらく金融自由化の際、投資リスクは自己責任で、と釘を刺したあたりが嚆矢であろう。その後、中東で身代金誘拐事件がたて続けにおこった時、リーマンショックの年越し派遣村と自己責任を求める声は高まってゆく。
自分の意志でした(中東へ行った)のだから、あるいは自分の意志でしなかった(正社員にならなかった)のだから自分の責任だというのである。
そういう意見の根底には、人がすることはそうしようとするその人の意志が出発点となるという考えがある。

そんなのあたり前だろうと思うかもしれないが、そうではない。
古代ギリシアには、行動の出発点という意味での意志という概念はなかった。
例えば、詩篇は詩人の意志で創られるものではなく、ムーサなる神から受け取った言葉なのだ。詩人と神が相通じ、感応同交した時に詩が降りてくる。
そんな感覚は日本の歌枕の例を出すまでもなく世界的に共通しており、自らの意志が世界に与える影響というものは今と比べて極端に小さかったのである。

それをキリスト教哲学が変えた。
キリスト教は、とにかく始まりにこだわる。それは神が無から世界を創造した、としてしまったことに始まる。
どう考えても無から何かが生まれることはない。そして始まりの瞬間を規定することも不可能だ。それは宇宙の始まりに関する議論を考えれば分かるだろう。
同じように、行動の始まりに意志を置くというのも大変に乱暴である。例えば、夫婦に対して「なぜあなたはそのパートナーと結婚したんですか?」と質問したら、もちろん全員が「この人でなきゃダメだと思ったからですよ。ええ私の意志です」と答えるだろうが、それはそう言わないと家に帰ってこっぴどく叱られるのが目に見えているからで、「ほかにも理由はありませんか? こっそり教えて下さい。秘密は守ります」と目くばせすれば、実は「しつこく言い寄られて根負けした」とか「ほかにいなかったから」とか「酔った勢いで」とか様々な理由を並べるに違いない。もちろん相手を憎からず思っていたことは本当だとしてもだ。
そうした様々な要因や状況をバッサリ切ってしまって意志のみにスポットライトを当てるのは無理な話だ。
ところがその無理な思考が、西洋文明が世界を覆うと共にデフォルトになってしまったのである。 (次回に続く)