2023年12月2日

亡き母を思い出すたび、あの夜の電話がよみがえり、心底、自分にがっかりする。
連れ合いを亡くして二年がたったころ、ひとり暮らしの母は、写経を始めた。テキストは、定番中の定番『般若心経』だった。
そんなある夜、八時半は回っていたと思う、母から電話があり、こう尋ねられた。
「色即是空はわかるんだけど、そのあとの空即是色がよくわからないの」
私は思わず苦笑した。そして聞き返した。
「色即是空はわかるの?」
「……なんとなくだけど」
すでに感じが悪い人になっているのに、さらに意地悪を言う私。
「じゃあ意味を言ってみて」
「えーと、あらゆる物や現象には、固定的な実体がない」
「なにか解説書を読みあげたでしょ」
「ち、ちがうよぉ」
「叱ってるわけじゃないよ。次の空即是色は、どう説明しているの?」
「すべては関係性の中で変化し続ける。だから縁起して、あらゆることが現象してくる。別の言いかたをすると、あらゆる現象には自性がないため、特定の色として現れるしかない」
「うん。その通りだね。わかるじゃない」
「わかんないよ」
「どうして?」
そこで母は、鋭く言い放った。
「色即是空の即って、イコールとは違うじゃない」
「ん? イコールでしょう」
「だって英語でShe is a teacherって言うとき、彼女と先生は同じじゃないでしょ。先生は属性って言うかカテゴリーって言うか、彼女より大きな括りだもの」
「英語のisはそうかもね」
「色即是空だって、色より空のほうが大きくない? 宇宙の実相であり、全体性なんだから」
「……うーん」
「だったら、ひっくり返して先生とは彼女ですって言えないのと同様に、空とは色であるって言えないでしょう」
「そうかな? いや、だけど、さっきの解説にあったように、全体性が絶え間ない縁起の中で特定の色として像を結ぶって、その通りじゃない」
「今言った説明は、前の色即是空の説明、あらゆる現象には固定的実体がないとは、非対称だよね?」
「えっ?」
「どうして非対称なんだろうって考えたら、空とは色であるとは言えないんで、表現方法を変えてごまかしてるとしか思えないの。だからモヤモヤするのよ」
母の理屈には、筋が通っている。それにしても、相当テキストを読みこんだのだろう。なんと深い問いなのだ。いやいや、感心している場合ではない。このままでは、僧侶を名乗っているにもかかわらず、上っ面の理解しかしていなかったことが露見してしまう。私はあせった。
「ちょっと待って下さいね。原典を見ながら、頭を整理するから」
私は経本を探すふりをして、書棚をあさった。何かの本に同じようなやりとりがあったことを、思いだしたからである。どこだったかな? そうだ! 芥川賞作家の玄侑宗久先生とテーラワーダ仏教のアルボムッレ・スマナサーラ師の対談本だ。
本をひっぱり出して、急いで当該箇所を探す。あった。スマナサーラ師は般若心経をこう論難する、「色即是空は良いが、空即是色は受け入れられない。間違っている」と。やっぱり、母親と同じようなことを言ってる。それに対して玄侑先生はどう反論したのか。えっ? まさかのスルー。それはないでしょう。私はどうすればいいのですか。
で、ごまかすことにした。
「色即是空、空即是色……やっぱり問題ないね」
「さっきの解釈通りなら、空即是色って表現を変えなきゃいけないんじゃない?」
「玄奘法師の翻訳が間違ってるなんて、そんなたいそれたことを言っちゃだめでしょう」
「だからこそ納得させて欲しいのよ」
「今日はもう遅いし、やらなきゃならないこともあるから、一旦切るよ。また今度、説明するから」
と言って、私は電話を切った。そして、以降、空即是色から逃げまくった。そうこうするうちに、母は大動脈解離であっけなく逝ってしまったのである。
以来、私の心には空即是色というトゲが刺さったままだ。今なら何と答えるだろうと、いつも思う。
ちなみに、今現在の答えを言おう。
母の言う通り、色即是空では空のほうに比重がある。そして空即是色では色のほうに比重がある。そこに母はひっかかりを感じたのだ。宇宙の実相、全体性よりも、個々の現象のほうが大きいなんてことはないだろうと。だが、それでよいのだ。なぜなら、個々の色には、名づけによって型に押しこまれてしまうという特徴がある。男、女、蝶々、猫、机……。でも目の前にいるのは、ミーという三色まだらの、尻尾の長い、毛におおわれた、やわらかくてかわいらしい生き物なのであって、猫と呼ぶことで、それそのものにしかない尊さから遠ざかってしまう。そうした個々の色の尊さを表すのが、空即是色なのではないだろうか。
そして色即是空空即是色と続けることで、また別の世界が開けてくる。色はニワトリで空はタマゴだとすると、まさにニワトリが先かタマゴが先か、どっちの見方もできるわけで、同様に“因果の時間”と“共時”という二つの在り方が混在する世界がそこに展開されるのではないだろうか。その八文字の連なりで、ダイナミックな運動性と時間観を提示している。それが今の実感なのである。
あの夜の母は、もちろん疑問を解消したかったのだと思う。でも、それだけではないようにも思える。きっと夜中に一人でさびしかったのだ。もっと話したかったろうに、私は電話を切ってしまった。
せっかく重要な問いを投げかけてくれた母に、僭越にも私は答えを与えようとしてしまった。一緒に問いと向かいあい、考えを深める機会を放棄してしまったのだ。
母の死以降、私は問いに対して偉そうに答えたくなる気持ちを抑えこむようにしている。それが、母の最期の教えだと思うからである。


2023年6月3日

日本で使われている漢字には、音(おん)と訓という二つの読みがあります。「犬」という字でいうと、ケンが音(おん)で、イヌが訓です。
音(おん)は、中国から入ってきた発音。訓は、その漢字にあてはまる日本語のオトですね。

そこで戒名ですが、戒名は音(おん)で発音します。
と言うものの、お墓やお位牌に刻まれた戒名、なんと読んだらよいのか迷ったことはありませんか?
たとえば「明成令山信士」なんて戒名があるとします。難しい字はひとつもないのに、その読みかたは「ミョウ・メイ」×「ジョウ・セイ」×「リョウ・レイ」×「セン・サン」の組み合わせなので……正確にはわかりませんが、とにかくたくさんあるのです。

このように日本で使われる漢字には、複数の音(おん)を持つものが多いことは皆さんご存知かと思われます。
では、なぜ複数あるのでしょう?
中国から入ってきた時代がちがうからです。
奈良時代までに入ってきた発音が“呉音”です。ほとんどの漢字にある読みで、「行」という字ならコウがそれにあたります。
奈良時代から平安時代にかけて、遣唐使たちが長安で学んだ中古漢語が“漢音”。すべての漢字にあって、「行」でいうとギョウ。
鎌倉時代から江戸時代にかけて入った“唐宋音”を持つ漢字は、ごくわずかです。「行脚」でアンと読ませるなどです。
そして“現代音”もありますが、「炒飯」のチャーとか「餃子」のギョウザなど数個です。
というわけで、呉音か漢音か、どちらで読むのか、それが問題なのです。

そもそも、仏教語は呉音で発音するという原則があります。
「遺言」は、呉音なら「ユイゴン」で漢音なら「イゲン」ですが、仏教関連のことばは呉音で「遺教経(ユイキョウギョウ)」だし「御遺告(ゴユイゴウ)」だし「遺骨(ユイコツ)」なのです。現代では、遺骨はイコツと発音しますが、昔はユイコツでした。たとえば『平家物語』では、鬼界ケ島に流された俊寛が亡くなっていたと知った召使の有王は「俊寛僧都の遺骨(ユイコツ)を頸にかけ、高野へのぼり」と演じられます。
ほかにも、久遠はキュウエンではなくクオンだし、帝釈天はテイシャクではなくタイだし、須弥山はシュミサンではなくセンです。

でもそれが、こと戒名となると、あてはまらない例もあるから厄介なのです。
まあ、呉音で読むことが多いのは、たしかなのですが。
臨済宗を開いた栄西は、エイセイではなくヨウサイ。浄土宗の祖師・法然は、ホウゼンではなくホウネン。栂ノ尾高山寺の明恵は、アキエ……いやメイケイではなくミョウエ。チベットに潜入した河口慧海は、ケイカイではなくエカイ。
ところが、弘法大師の師匠の恵果は、エカではなくて漢音のケイカ。芥川賞作家の玄侑宗久さんも、ソウクではなく漢音でソウキュウ。と、漢音派もいる。

そこで、高野山管長を務めた松長有慶さんの著書を参考に、過去の真言宗の僧侶名の読みを調べてみました。
空海亡き後の高野山をまかされた真然は、シンゼンで漢音。
おなじく東寺をまかされたのが実恵で、ジチエと呉音。
のちに弘法大師の諱号を下賜されたことを報告するため、入定なさった大師のもとを訪れた観賢のお供をした淳祐は、シュンニュウと漢音(ニュウの読みは慣用音か?)。
そして、平安末期に高野の復興に努めた行明は、ギョウミョウと漢音+呉音なのに、おなじころ中院を再興して、今につづく中院流を開いた明算は、メイザンと漢音なのです。

というわけで、戒名の読みは、それを付けた和尚にしかわからない、というのが真相でした。
なので、戒名授与の際は、読みかたも明記しなければならないのです。


2023年5月19日

わたしたちが暮らす社会は、どんどん複雑になって、日に日に大事なところが見えにくくなってゆきます。
とうに社会インフラとなっているインターネット、その核心であるアルゴリズムときたら、一ミリも理解できないし、ほぼ毎日つかう車や家電製品を制御しているICチップの中身だって、さっぱりわからない。社会を支える肝心かなめの部分は、ブラックボックスになってしまいました。
それでも、それぞれの専門家がちゃんとやってくれているのだろう、という期待と思いこみで世の中はまわっているのだけれど、どうもそうじゃないらしいぞと、首をひねらざるをえない出来事が頻発しています。原発事故しかり、コロナ対応しかり、最近、明るみになったマイナンバーの入力ミスは、ここまでダメだったの? と、皆に衝撃を与えました。ただし、日本だけがダメなわけではなく、旧Facebook社やTwitter社など巨大テック企業の、あまりの身勝手さ、無責任さを見るにつけ、それが人類共通の課題であることがわかります。
まあ、そりゃそうです。ものごとが見えなくなると、どうしたって、秘密を握っている専門家が権威をふりかざして威張るようになり、いいかげんなふるまい、利己的なふるまいをするようになってしまう、それが人間の性なのです。
宗教だって例外ではありません。宗教改革や分派という運動は、そうしたものへの反発として起こるのですから。

だから、わたしも常に心がけるよう肝に銘じます。けして威張らないこと、誠実であること、そして相手に見えるよう丁寧に説明すること。
というわけで、今回は皆様がお上げくださるお塔婆には、何が書いてあるのかを明らかにします。みんながお塔婆を読めて、意味がわかるように。
梵字については、ネットにも出ているので省略して、日本語の部分にしぼって解説します。


真言宗の一般的なお塔婆は、表に「爰寶塔者為○○信士○○回忌菩提也」と書きます。
文字を文節ごとに区切って、意味を説明します。
「爰 → ここ」  あまり見ない字ですが“ここ”という宣言です。
「寶塔 → 仏塔」  塔は、ブッダにまみえる場から修行装置そして供養装置へと変遷。
「者 → ~は」  のちほど説明します。
「為 → ため」  そのままの意味です。
「○○信士○○回忌 → 供養の内容」  〃
「菩提 → 悟り・冥福」  〃
「也 → です」  〃

皆さんがひっかかりを感じるのは、「者」をなぜ「は」と読むのか、ではないでしょうか。
そこで問題です。
お蕎麦屋さんの暖簾に、妙な文字が書かれています(フォントがないので、実物は省略)。
あれは「きそば」と読みますが、なぜこんな変てこりんな文字なのでしょう?
正解は、各々の漢字をくずした変体仮名だからです。
「そ ← 楚」
「ば ← 者+˝」
では、そもそも、どうして楚をソに、者をハにあてたのか?

かつて日本には、文字がありませんでした。もちろん、日本語はありましたが、それを表記する文字はなかったのです。そこで、漢字の音や意味を日本語にあてはめる万葉仮名を編み出しました。
例として、『万葉集』の柿本人麻呂の歌をあげます。
読みは「おおきみはかみにしませばあまくもの……」で、表記は「皇者神二四座者天雲之……」とされました。で、対応は、「皇(おおきみ)」「者(は)」「神(かみ)」「二(に)」「四(し)」「座(ませ)」「者(ば)」「天(あま)」「雲(くも)」「之(の)」です。
このように、万葉仮名では、「者」は「は」と読みます。なお、日本語は濁音字を作らなかったので、ハとバは同じ表記です。それをお塔婆や、お蕎麦屋の暖簾に使ったというわけです。

余談になりますが、歌川広重『木曽海道六十九次 関ケ原』には江戸後期の茶店が、そして『江戸府内 絵本風俗往来』には幕末の蕎麦屋が描かれています。それぞれの看板表記は「そばきり」と「きそば」と「生蕎麦」ですから、おそらく変体仮名の暖簾は、戦後あたりから始って、一気に広まったのではないかと推測されます。


2022年12月13日

笑福亭仁鶴師匠の歌に『大発見やァ!』という名曲がありましたが、私も思わずそう叫んでしまったほどの発見があったのでご報告いたします。
で、皆さんに質問です「南禅寺は、なぜ南禅寺と言うのでしょうか?」。
いやいや、「知るか!」なんておっしゃらずに考えて下さい。私は長年、首をひねってきたんですから。だって京都五山の中で、南禅寺はたいして南ではないんですもん。天龍寺や相国寺よりは南東に位置するけれど、建仁寺よりは北だし、南の禅寺と呼ぶなら、南都奈良へ下るとば口にある東福寺や万寿寺の方がふさわしいはず。ねっ難問でしょう?
でも、ようやく解決したんです。
南禅寺の北には永観堂というお寺があります。紅葉の名所かつ見返り阿弥陀仏で有名です。ただし永観堂というのは通称で、正式名称は禅林寺なんです。そしてその昔、禅林寺の寺領は広大で、いまの南禅寺の境内地まで含まれていたと言われます。
やがてそこに南禅寺が建立されると、禅林寺を(北)禅林寺、南禅寺を南禅林寺と呼ぶようになり、それが縮まって南禅寺となったのだとか。
いやぁ長年の疑問が解決するって、刺さっていた小骨がとれたようでほんとに気持ちが良いなあ。というわけで、さっそく知り合いに話してみたのですが、さほど興味も示さず感心もしないどころか、こう返して来たのです。「じゃあ東寺はなんで東寺なの? 全然、東じゃないのに」と。ぐっ……。
また喉に小骨が刺さった気がします。


2022年12月11日

臨済宗の大本山である円覚寺は北鎌倉にあって、若き日の漱石が参禅し、開高健のお墓があって、小津安二郎の映画『晩春』内で茶会の会場となった(実際の映像は壽福寺)という、かなりカルチャー度の高いお寺です。
私も幾度となく坐禅会でお世話になりましたが、本当に良いお寺でした。僧堂の雲水さんたちが皆、まじめでひたむきに修行なさっているにもかかわらず、おだやかでおやさしいのです。往々にして修行に没頭すると、悲壮感が漂うほどピリピリして、周囲への配慮が薄れてトゲトゲしくなりがちなのですが、そういう気が全くありません。
ひとえにそれは、管長をお務めになられる横田南嶺老師のご指導のたまものと推察されますが、そのご老師が大変に興味深いお話をなさってらっしゃったのでご紹介いたします。

昨年、横田老師と雲水さんたちは、近藤瞳さんの主催する『地球46億年を感じる旅』というイベントに参加なさいました。それは4.6キロの道のりを地球が誕生してからこれまでに見立てて歩くというもので、わずか一歩が50万年に当たるのだとか。ただ46億年だの50万年だの数字を並べてもピンとこないので、実際に歩いて体験しようというのです。
さあ旅の始まりです。一歩踏み出します。生まれたての地球はマグマに覆われた熱々の球ですから、1000度を超える地面に足を置くと思って下さい。
200メートル進みました。誕生から2億年たってようやく冷えた地球に海ができます。
スタートから800メートル。8億年で海に動きが出ました。微生物が生まれたのです。生命の誕生です。
そのまま歩き続け、中間までもう少しという2200メートル地点まで来ました。新しく生まれた光合成を行うバクテリアが、さかんに酸素を吐き出し始めます。さらにその酸素を元に、有害な太陽光を防いでくれるオゾン層が出来あがります。
気がつけば既に4キロ歩いています。そして4060メートル地点でようやくアンモナイトや三葉虫など複雑な構造を持つ生物が生まれます。いわゆるカンブリア紀の生命大爆発と呼ばれる進化が起こったのです。
4200メートルで、陸に上がって生活を始める生物が出ます。
4250メートル。マラソンならばもう競技場に入っています。大森林に覆われた地球に昆虫がうじゃうじゃ蠢くようになります。
4370メートル。残りわずか230メートルのところでようやく哺乳類が生まれます。
そして最後の一歩が弧を描き着地する寸前、ゴールの20㎝手前でようやく人類・原始人が生まれるのです。
そんな長い長い時間をたどる体験を終えた横田老師はこう思われた、「今を生きることが、自分が存在することが、どれだけ奇跡に溢れているのか、それを実感できた」と。そして「我々は、いのちの長さを何十年と数えるが、実際には四十六億年の歩みの上の数十年なのだ」と。

そこで老師は、仏教の示す「劫」という時間について説かれます。
劫とはどれくらいの長さかというと、ほぼ永遠と言っても良い。「未来永劫」と言うように、それは終わりのないくらい長い歳月で、仏教が考える時間の中で最も長い単位が「劫」、最も短いのが「刹那」なのです。
余談ながら、「劫」はサンスクリット語の「カルパ」の音写です。カルパであってカルパスではない。カルパスはサラミのおつまみなので。
また「劫」とは、ざっと43億2千万年くらいだとも言われます。地球が誕生したのが46億年前ですから、かなり近い長さです。
そしてご老師は、「仏教がなぜこのような極めて長い時間を示したのか」という問いに答えて「それは皆のいのちの長さを表しているのだ」とおっしゃいました。
たしかに、各々のいのちの長さを四十六億年の歩みの上の数十年だと考えると、それが本当に尊いものだということが実感されます。