正しい食事法➂

2021年3月21日

【和食の歴史】

和食は世界に誇れる食文化だと言われる。ところが千年前の日本では「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と得意の絶頂だった藤原道長でも、あまり美味い料理は食べていなかったようだ。
平安貴族は、正月と大臣就任時にお祝いの大宴会を開かなければならなかった。その際には山海の珍味を集め、上等な食器をそろえて、専用の料理所を設けたうえで何日も前から料理を始める。なんと正客には二十八皿、下級役人でさえ十二皿の料理が供されたという記録が残っている。
ただ、いくら品数が豊富で、雲丹に鮑に蟹に雉と豪華食材がならぶと言っても、調理法はきわめて簡素で味はほとんどついていない。各自の膳に塩と酢と醤の小皿が置いてあり、それをふりかけ各自が味つけをして食べたのだ。膳の中心は刺身や膾などの生食で、調理というより食材を美しく切ることが料理だったのである。
実は、そうした意識は現代の料理界にも連綿と受け継がれている。「なぜ割烹料亭では複雑な煮炊きを若手にやらせて、真板さんはただ魚を切るだけのお造りを受けもつのだろう」と疑問に思う人が少なくないが、“割主烹従(刺身が上で煮炊きは下)”は飛鳥時代からの伝統なのである。

調理法が未成熟だった和食を進化発展させたのは、道元らが伝えた中国禅林の精進料理だった。彼らは、日本に“出汁を取る”という発想と新しい調理技術をもたらした。
精進料理には、鳥獣肉や魚介から出る脂のうまみが決定的に欠ける。それを補うために中国の典座(禅林における調理担当者)は、うまみの粋ともいえる出汁を利用することを思いついた。そして、その技法を学んだ日本では昆布、椎茸、かんぴょう、干大根、鰹節、煮干と、ことさら出汁を意識し探求するようになった。日本の食には悲しくなるほど油脂が不足していたからである。戦後しばらくまで庶民は、ほぼ米と野菜だけの料理を常食とした。全国民が精進料理を食べていたようなものなのだ。それをなんとか美味しく食べようとする努力が、今の出汁文化へとつながったのである。
また中国精進料理には、肉や魚に似せたモドキ料理を作るという特徴がある。生麩を豚肉に見せかける、山芋を海老に見せかける、きのこをイカに見立てる、大豆で出来たハムなど、姿かたちだけでなく味や食感も近づけることに腐心した。そのため典座は、油や香辛料を駆使しながら煮る・炒める・揚げるといった調理技法のかぎりを尽くしたのである。
中国から新たな調理技術を導入することによって、日本の禅林の料理は格段に進歩した。それが葬儀や法要などの際、大勢で精進料理を作ることで伝播と伝承がなされて、家庭料理を豊かにしていったのである。

料理を食材や調味料や技法といった面から見ると、各国の料理はそれぞれに個性的だ。だがトータルの食事として捉えた場合、日本料理のユニークさが際立ってくる。和食においては、食材の旬、その形状、引き立てあう取り合わせ、調理法は当然として、料理が映える器と彩の良い盛りつけ、供すタイミング、食べ方など、食事全体に心をくだく。料理を総合的な食事の一部として捉え、とことん考えぬくというのが和食の特徴で、どんな田舎料理にだって研究をつみ重ねた跡が見られる。
そんなふうに生真面目に食事と向き合う態度がいつごろ芽生えたのかはわからないが、はっきりと意識化し浸透させたのは、まちがいなく道元がものした『典座教訓』と『赴粥飯法』の二編なのである。
たとえば「菜や汁を煮る準備は、飯を炊く合間にせよ」というアドバイスは、何を当たり前のことをと思うかもしれないが、料理は手順とそのための段取りが大切だと明言した嚆矢にちがいない。あるいは「給仕の際、速すぎると相手があわててしまうし、遅すぎると長時間坐ることになって疲れてしまう」など鼻で笑う人も多いだろうが、その通りしようと思ったらどれだけ動きを考えて熟達せねばならぬことか。日本料理の「作り方」の基礎を築いたのは、まちがいなく道元なのである。
そして「食べ方」を決めたのも道元だった。いまでも続く、食べるまえに「いただきます」と手を合わせ、食べ終えると「ごちそう様」と頭を下げる習慣は、道元が広めた『食事五観の偈』が元になっている。そして道元がのこした最大の遺産は、ひとりで黙って食べるという食べ方だった。