【正しい食事法】
残念ながら、政府主導で進められた食事作法改善運動は、まちがっていたと言わざるを得ない。益よりも害のほうが、はるかに大きくなってしまったのだから。だまって食べることがあたりまえの時代には、ひとりで食事することになんの気兼ねもなかった。だがこの百二十年にわたるすりこみによって、みんなの頭に「食事は楽しく会話しながら食べなければならない」という観念がうえつけられてしまった。おかげで、ひとりで食事することが悪いことのようになってしまったのである。
もう一度言おう、私たちの先祖は六百年間ずっと黙って物を食べてきたのである。そして、それにはちゃんと意味があった。食材と、料理と、きちんと向き合って食べるという意味だ。これ以上、真摯に食と向き合う姿勢はない。おそらくそうした態度こそが、食事全般に対して「とことん考えぬく」という和食の伝統につながったのであろう。
実は、だまって食べる行為には仏道修行の側面もあることをご存知だろうか。
妄想は、苦しみを生む大きな原因だ。心が「いま/ここ」という現実から離れてしまい、連鎖的に想像を膨らませるのが妄想。「いま/ここ」を離れて未来へ飛んで行けば「不安」という苦しみが、過去へ飛んで行けば「後悔」という苦しみが生まれる。逆に「いま/ここ」にだけ心を置けば、自らの妄想で自らを苦しめてしまうことはなくなる。
でも、たとえその理屈がわかっても、どこかへ飛んで行こうとする心を制御することは至難の技。だからブッダはこう言ったのだ。
修行僧たちよ。出て行く時も戻る時も、前を見る時も後ろを見る時も、腕を曲げる
時も伸ばす時も、よく気をつけている。
食し飲み咬み味わう時も、よく気をつけている。
大小便をするときも、よく気をつけている。
行き、住し、坐し、眠り、目覚め、語り、沈黙している時にも、よく気をつけている。
修行僧はこのように実によく気をつけているのである(『大パリニッバーナ経』より)
この「気をつける」というのは、一つ一つの動作を注意深く、そして正しく行うことによって、不安定な心を「いま/ここ」という現実にあり続ける体に寄り添わせておくことにほかならない。
たとえば、テレビを見ながら食べる、会話をしながら食べるとしよう。すると心はテレビの方へ行ったり、会話の内容に行ってしまう。たしかめてほしいのだが、会話をしながら食べると十回も噛まないうちに飲みこんでしまう。食事から心が離れている証拠だ。
そこで坊さんが実践する正しい食べ方をお教えしよう。食べ物をひと口入れたら箸を置き、手は膝の上に置いて噛むのである。もちろん黙って噛む。すると口の中だけに心を置くことができる。ホウレンソウを食べていても、それが霜の降りた畑に植わっているところ、それを引き抜き、洗い、茹でる、そんな場面が思い浮かぶほど深く味わうことができる。
それは食材を観察するという食べ方だ。「観察」はインドのことばで「ヴィパッサナー」といって、仏道修行の基本なのである。
箸を置いて、だまってよく噛む。まず、どこでなにをどのように噛んでいるかを観察する。そして噛めば噛むほど食材の味が変わって行く過程を観察するのだ。たとえば、日本人が縄文時代から食べつづけてきたクルミなら、最初に感じるのは芳ばしさだ。しばらく噛みつづけると甘みが出てくる。そして二十回を越えると渋みがわっと広がる。そして三十回ですべてが混じりあった複雑な風味となる。
たしかに、みんなで話をしながら食べるというのは、楽しいし、良い食べ方だと私も思う。
でも、ひとりで黙って食べるというのも食事と向きあい、心を「いま/ここ」に置く実践修行をするという意味があって、それはそれで良い食べ方なのである。
その両方があるということを知り、両方を楽しむことができる、それが本当に豊かな文化なのではないだろうか。
事実、先人たちはハレとケと言って、お祭りなどのハレの日はみんなで楽しく食べ、ケである普段の日は黙って食べると、使い分けていたのである。
弧食は恥ずかしいことでも、望ましくないことでもない。もちろんウツになったりもしない。むしろ黙って集中して食べると、三十回でも四十回でも噛めるから、胃腸にかかる負担が軽くなり、かえって長生きできるかもしれない。だから、一日に一食でもかまわない、ひとりでだまって食べてみてほしい。