【出家者の食事、その歴史➀】
お寺で食される精進料理は、生臭ものを避けることからヴィーガン(肉、魚、卵、乳製品をとらない)の一種だと紹介されることもある。
確かに見た目は同じだ。でも根底にある思想はどうだろう。重なるのかそれともズレがあるのか、考えてみたい。
まず仏教教団における食事の変遷を追ってみよう。
ブッダの時代、仏教教団では何を食べるかは重視されなかった。
食事に関する決まりは二つで、托鉢で施された物しか口にしてはいけない、午前中しか食べてはいけないというもの。
たった二つとは言え、施された物しか口にしないというのは重い決断だ。世間から施しを与える価値がないと判断されたら生きてゆけないところまで、自分たちを追いこんでいる。
そんな状況では選り好みする余裕はない。肉をさし出されれば肉を、魚を施されれば魚をと、なんでもありがたく頂いたのである。
肉食に関して、初期経典『スッタニパータ』にこんなやりとりがある。肉を食べるブッダの弟子に、異教徒が疑問を投げかけるのだ。
(問い)おいしい鶏肉と米飯を味わって食べながら、あなたは「私はなまぐさ者を
ゆるさない」と言う。あなたは、なにを「なまぐさ」だと考えるのですか?
(答え)生き物を殺すこと、盗むこと、嘘をつくこと、他人の妻に近づくこと、
これをなまぐさと呼ぶ。肉食することがなまぐさいのではない。
出家者にとって殺生は最大の罪だ。だから虫を殺さないよう布で濾した水を飲むとか、自分に施すために殺したと聞いた肉は食べてはいけないとか、食にまつわる殺生に関わることを避けようとした。でも、肉や魚を食べること自体が罪だという考えはなかったのである。