自句自賛2

2024年4月25日

第2回自句自賛・季語「おでん」

解説:「おでん」は冬の季語。初回の「鹿」はずいぶんと古雅だったので一転、下世話なお題で。
木枯らし吹く季節の温かい食べ物と言うと、「湯豆腐」などは酒井抱一や久保田万太郎の名吟があるけれど、「おでん」を詠んだ句にパッとしたものがないのはどういう訳だろう? 言葉の響きのせいかしら? ユドウフ、は川風のようにサラリとして、胃にも優しい感じがするのに、オデン、となると古沼のようにドロッと淀み、お腹をこわす心配さえ出てきそう。ともに冬の人気メニューで調理のた易さが特徴なのに、詩というまな板に乗せると、一方のおでんは鮟鱇のようにさばきにくい素材になってしまうのかもしれない。
そんな難敵に果敢に挑んだのが次の句である。

「ソロおでん三日目 裸のちくわよけ    陽高」

自炊は面倒だ。かと言ってコンビニ弁当はもう体が受けつけないし、町中華や牛丼屋ばかりでは栄養が偏ってしまう。そこでやむなく自炊にかえってくるわけだが、献立を考える手間や調理する時間はできるかぎり減らしたい。となると必然的に、寸胴鍋で大量に作ったものを数日間、食べ続けるはめになってしまう。
そうした“セルフ炊き出し料理”の中では「けんちん汁・カレー・すいとん」の三品が、歌手で言うと「橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦」、時代物俳優なら「阪妻・千恵蔵・嵐寛」、猛毒キノコ界における「ドクツルタケ・タマゴテングタケ・シロタマゴテングタケ」にあたる。
断っておくが、たかが作り置き料理とあなどってはいけない。けんちん汁とくれば、里芋・大根・人参・ごぼう・レンコン・椎茸・しめじ・こんにゃく・豆腐・鶏肉と入るのだから、味わい、食べ応え、栄養バランス、すべてに申し分のない堂々たる一品なのだ。
そのけんちん汁、家ごと店ごとに入れる具材や味つけの違いがあるが、大きくは二つに分かれる。ポイントは、豆腐を油で炒めるかどうか。私は断然、炒める派だけれど、ゴマ油は感心しない。香りが強すぎる。そして極力みりんを使わずに仕上げたい。そうしてできた汁は、里芋こそがこの椀の主役であることを雄弁に語ってくれるのである。
すいとんもまた地方や家庭によって差があり、それこそ、けんちん汁かと見まごうばかりの具だくさんもある中、私は茄子とミョウガしか入れない。味つけは出汁と少しの醤油。そこに小麦と卵をゆるーく混ぜた生地を、ダンゴにして入れるのだ。コツは、混ぜた生地をすぐには茹でず、常温で数時間寝かせること。舌触りが段違いに滑らかになって、ダンゴの一番美味しいところ、あの周りに付くべろべろした尾ひれはひれが一層おいしくなるのである。
このところのカレーブームはすさまじい。個性的なカレー専門店が次々とオープンして大いに興味をそそられるのだが、私は断然、家のカレーが好きだ。なぜなら、いくらでもおかわりできるから。ご飯を出来る限りひかえめに盛って、ルーを次から次へと注ぎ足して二リットル平らげるなどという芸当は、お店ではとてもできまい。
くわえて、私は出来たてのフレッシュなカレーが好きなのだ。ほぼスープのような。付け合わせは、刻んだピーマンでいきたい。何度も温め直しているうちに、さらさらだったルーがもったりしてくるのはちと残念だが、そうなったらなったで汁を張ったうどんにかければよいのだから、なにも嘆くことはないのである。
そこへいくとおでんは、大根以外、スーパーで買ってきた具材を「紀文・汁の素」に入れるだけなので、自炊というより中食に近い存在だ。それでも、ドーンと作って何日も食べ続けるという点では、やはりセルフ炊き出し料理のひとつに数えてよいだろう。

それはそれとして。
おでん種を選ぶのは楽しい。玉ねぎ揚げ、紅しょうが揚げ、ごぼう巻き、ウィンナー巻き、シュウマイ巻き、餅入り巾着……と、カゴに入れて考えこむ。これじゃ茶色過ぎるな、と。色味が良くない。そこでグレーのこんにゃく、まっ白なハンペンと買い足して、同じく白いちくわの前でハテと首をひねるのである。ちくわの磯辺揚げは好きだ。讃岐うどんをの脇には是非、置いておきたい。でも、おでんのちくわは、ちっとも美味しいと思わないのだ。思わないけれど、この形状を捨てるのはしのびない。○△□で構成されるおでんの中にあって、まさかの筒状は、きっと食事のリズムに変化をもたらしてくれるにちがいない(昆布巻きもちくわぶも嫌いなのだ)。というやりとりを経て、いつもちくわがカゴの一番上にのることになるのだが……。
まぁ食べない。具を注ぎ足し、注ぎ足しして三日目。すでに数十回、煮たくられたちくわは、いつの間にかガサガサしたガワが外れてどこかへ行ってしまい、鳥肌のストローのようになっている。そんなナリでは余計、口に運ぶ気がおこらず、箸で脇へ押しやられて、また鍋の海を所在なさげに漂うのである。


句の寸評を。
一人でおでんをつつくという情景を「独りおでん」と表現しても「ぼっちおでん」と詠んでも字余りだ。そこを「ソロおでん」と五文字できっちりフレージングしたところが心憎い。
また、「ソロおでん三日目」は句またがりであるが、あえて調子を崩すことで、ひとりで三日続けておでんを食べ続けているという、うんざり感や悲しみが強調される。
そして「裸のちくわ」という観察眼にもうならされる。みんな一度は目にしたことのあるガワの外れたちくわを、こう表現するとは。それを「よけ」てしまうのだから、三日たってもまだ食べてもらえないちくわもまた、悲しい。