自句自賛4

2024年5月7日

第4回自句自賛・季語「雲雀」

解説:「雲雀」は春の季語。
鳥のさえずりは前奏曲だ。庭でツピツピ、裏の竹藪からホケキョ、畑にピチュルピチュルと聞こえたら、なにもかも春めいてくる。
……知らなかった、俳句では「小鳥」は秋の季語なのだとか。秋に渡ってくる鳥を指すそうな。恥ずかしながら、私は傍題の「小鳥来る」を春の訪れとして鑑賞していた。そうやって一度しみついたイメージを消し去るには大変な労力がいるので、知らない言葉に出会ったら面倒がらず調べること、と言われてきたんだけどなあ。ついでに白状すると、“おっとり刀”とは、のらくらと刀を腰にさし鼻歌交じりにぶらぶら歩いてのんきな顔で現れる様だと思っていた。
気をとり直して一句。

  「ひばり宣り続け 凡夫は草むしる     陽高」

田んぼのまん中に、区画にして二十にも満たない外墓地がある。それこそ「草刈」「草取」「草むしり」は夏の季語などとのんきなことを言うけれど、雑草との戦いは四月からとうに始まっているのだ。
小さな墓地とはいえ、入口をふさぐ草むらを刈り、空き区画にかぶせたマルチシートを張替え、あちこち伸びてきた雑草を抜いていたら、半日はかかってしまう。
体力の衰えを実感する今日このごろ。ひと叢抜いては休み、またひと叢、抜いては休む。猫の背丈ほどの高さの擁壁に腰かけて、ぼちぼち起こし始まった田んぼの向こうに晃石山を望む。小林康彦著『日本百低山』にも選ばれたこの山には、桜がひつじ雲のように群れかたまっており、春と秋はことのほか目を楽しませてくれる。
そこに降ってくるのがピチュルピチュルというさえずりだ。見上げれば、雲雀が激しく羽ばたきながら空の高いところにとどまって、声をふりしぼっている。……。ずっと鳴いてる。そのひたむきな姿に背中を押されるように私も立ち上がり、草取りに戻るのだ。
やがて日は傾き、抜いた草を袋に詰め帰り支度が済んでもまだ、さえずりはやまない。そうして雲雀は春の野を鳴き通すのである。

余談だが、除草剤は使わない。無邪気にまとわりつくモンシロチョウにあまりにも無防備なハナアブ、触っただけで破れそうなイモムシや逃げ惑ってばかりのヤスデ、そこに毒薬はかけられない。
そんなのは、わずかな範囲でたまにしかやらないから言えることだ、とお叱りを受けるかもしれない。おっしゃる通りだ。
でも、埼玉県・小川町で五十年前から有機農業を始め、近隣農家へと輪を広げ、地域の核となる産業にまで育てあげた金子美登さんには、その批判は当たらない。農薬も化学肥料も一切使わない金子さんが大事にするのは、土づくり。虫や微生物が喜ぶフカフカの土を作るのだ。腐葉土が自然に出来る、つまり微生物が落葉を分解するのを待っていたら、百年がかりで一㎝がやっと。それを人の力で五~十倍に早めてやるのである。こうした地球環境からの収奪ではない、恵み与える活動にこそ、政府は分配を厚くするべきではないか。


句を褒めよう。
まず「宣(の)る」をどうとらえるか。学研の古語辞典によると、宣るとは言霊信仰を背景にした語で、まじない・のろいの力をもった発言や、むやみに口に出すべきでない事柄を明かす発言、重要な意味をもった正式の発言などにいう、とある。つまり雲雀が、自然の摂理につていか、命の実相か、はたまた恋愛指南か知らないが、とにかく大切なことを一生懸命に説いているという意味になる。演説をぶつでも、高説を垂れるでもなく、宣ふているのである。天高くより降ってくる声だから“高説”もありそうだが、述語選びが難しいので不採用。
また、句またがりが効果的だ。上五から中七へとはみ出すことで、やむことのないさえずりが響いてくるようではないか。
そのあと一文字あけて、読み手に明確な休止をうながす演出があって「……凡夫は」と来るので、視点は落雲雀のように下界へと戻される。そこには、雲雀の必死の訴えなど聞き流して草と格闘する寄る辺なき衆生の姿が、対比的に映し出されるのである。
さらに言うと、この句のテーマは上田敏訳のロバート・ブラウニング『春の朝』への応答である。有名な「揚雲雀なのりいで 蝸牛枝に這ひ 神、そらに知ろしめす すべてこの世は事も無し」という詩だ。それに気づくと、「凡夫」という宗教用語がにわかに輝き始める。
ちなみに上田訳の「なのる」は「名宣る」だ。名前とはみだりに口にしてはならないものだったのである。雄略天皇の古歌の「家聞かな 名宣らさね」つまり名前を尋ねることが求婚を意味したように。