第13回自句自賛 ― 家に居ながら海外の句を詠むことはできるのか
【課題】 「本日の季語・夜長」……立秋をさかいに短夜から夜長へ
【俳句ルールへのぼやき】
岸本葉子さんがおっしゃった「季語に導かれるようにして、記憶の底に眠っていた体験、あるいはその中の一場面や事物がよみがえり、詩情が生まれ、それを十七音にまとめる。そうした試みは、一度しかない人生を二度、三度生きるようなことではないか」という言葉に背中を押されて、僕は句作を始めた。
年齢的にもいいタイミングだった。人生はとうに半分以上が過ぎて、日々あっちが痛いこっちが動かないとなる体で、フットワーク軽く色んな所へ出かけてゆき新たな経験を積むことはむずかしい。でも頭の中で、思い出を旅して記憶の断片や感情のかけらを拾い集め、ためつすがめつすることならできる。それを句にすることが、いま・ここに湧き上がる感動を詠んだり、実景をそのまま写し取ったりする方法より劣るとは、僕は思わない。それぞれの句作法にそれぞれの意味があるのだと思う。
そのむかし、上嶋鬼貫という俳人が紀行文をでっちあげた。家に居ながらにして、大阪から江戸へ下る十三日間の旅日記を創作してしまったのだ。まあ、でっちあげたと言っても、タイトルが『禁足旅記(きんそくのたびのき)』(禁足とは、外出や旅行を禁じてひと所に留めおくこと)なので、はなからネタばらししてるんだけど。おまけにすべてが空想というわけではなく、四年前に東海道を旅した経験と名所ガイド本を参照して書かれたものと思われる。
本人は禁足の理由を、老いた両親がいるからと述べているが、どうだろう。事実、翌年に父親は亡くなっているものの、鬼貫は三男坊で惣領息子ではないし、それまでもそれ以降も、かなり自由にあっちへ行ったりこっちに住んだりしているのだし。やはり「こしかた見つくしたる所々、居ながら再廻のまなこをおよぼし」こそがこの本の眼目であり、架空の旅日記というアイディアの源なんじゃないだろうか。先ほどの人生を二度、三度生きるのとおなじ手法だ。
『旅記』は、地の文章の合間に発句が詠みこまるスタイルで、芭蕉の『おくのほそ道』と似ている。で、刊行されたのは『ほそ道』が書き上がる四年前だ。ならば芭蕉が鬼貫をまねたのかと言うと、そうじゃないんだよなあ。
鬼貫は、かなり変な人だ。蕪村が重要な俳人を数えて五本指の一人とし、大祇が「東の芭蕉、西の鬼貫」とベタ褒めしたことで、世間的評価は高いけれど、当の蕪村が言う通り「世に伝る句まれ」なのである。有名な句や良い句は、ちょっとだけ。ゴメンなさい、でもほんとのことだから。明らかに作られた評判、盛られた評価なんだもの。じゃあ、なんでそんなことになったのか。
鬼貫は、摂津伊丹に酒の蔵元の三男として生まれた。ちなみに芭蕉より十七下だ。
八歳から俳句を始め、二十歳ごろから句集を出すようになる。二十四歳のとき地元の俳諧仲間と編んだ本のタイトルが『かやうに候ものハA・B・鬼貫にて候(AとBは仲間の俳号)』だから、インディーズバンドが『鬼貫参上!』みたいな、こっちが赤面してしまうようなタイトルのレコードを自主製作して悦に入っているところを想像すればいいだろう。
そんな夢見る若者が親の説得にあうのは、今も昔も変わらない。おそらく、いっぱしの俳諧師気取りの鬼貫に、父親が「音楽で飯が食えるなんてのは一握りだ。まかりまちがって売れたとしても一瞬。人生は長いぞ」とでも諭したのだろう。二十五歳の鬼貫は、学問をしに大阪に出る。そこで二年ほど医術を学んだとも、ソロバン術を身につけたとも言われる。
以来、七十八歳で亡くなるまでのあいだに四たび大名家に仕官しているので、鬼貫は“士”だったとされるが、仕官先をそれぞれ二年・四年・四年・長く見積もっても六年、といった期間で辞めている。クビになった可能性も否定できない。だから士分だったのは、人生の五分の一ほどなのだ。
注目すべきは、二度目の仕官のさなか人を殺めていること。狼藉をはたらく家来を咎めたら、向こうが刀を抜いてきたので一刀のもとに斬り倒した、という本人談が残っている。うーん。はたして剣術の腕前がそこまであったのかはさておき、家来をお手打ちにして、それを自慢げに吹聴するって……。いざ士になってみると、なんだろうこの高揚感は。自尊心が満たされると同時に特権意識が芽生える。そして武士らしくあらねばという強迫観念から、行き過ぎたふるまいに出てしまう。そんなことを想像してしまうのだが。
士をやったりやらなかったりしながら、生涯句作に励んだ鬼貫、その人物としての特徴はふたつある。ひとつは、ものすごい“自慢しい”だったこと。
先ほどの一太刀で切り倒した話もそうだけれど、まだ二十歳の駆け出し俳諧師だったころ、西山宗因という斯界の大ボスから「そなたは、ゆくゆく天下に名を知られん人ぞ」と予言されたと、七十七歳のときに語っている。宗因といえば、当時大スターだ。あの芭蕉でさえ、若いころ一度だけ句会に加わることができたくらいで、鼻もひっかけてもらえなかった。なのに鬼貫は激賞?
おまけに「芭蕉? おぉあいつはな、俺の詠んだ句で開眼したのさ。どんな句かって? おほんっ“おもしろさ急には見えぬ薄哉”。良い句だろう」と本人が吹いていたという証言が、死後刊行された句集にある。その句で蕉風開眼という話が本当だとしたら、いんな意味で俳句の歴史が変わる。
で、ふたつめの特徴だ。もうおわかりのように“やたら芭蕉にからみたがる”という点。もう芭蕉癖(マニア)と呼んでいいレベルで。
先の『旅記』は、脱稿から刊行までを二ヶ月で終えている。かなりのスピード出版だが、急いだのにはわけがある。
『旅記』が出たのが、元禄三年の十二月。その前年、ほそ道の旅を終えた芭蕉は、故郷の伊賀上野と行ったり来たりしながら義仲寺で年を越し、元禄三年は春から夏にかけて石山寺にほど近い国分山の庵にとどまって『幻住庵記』を執筆していた。
その芭蕉に、どうしても『旅記』を読んで欲しかったのだ。作中こんな箇所がある。
「この所(兼平塚)より道を右にのぼりて、
“石山のいしの形もや秋の月”
もどりに芭蕉がいほりにたづねて、
“我に喰せ椎の木もあり夏木立” 」
これを読んだ芭蕉は(きっと読んだはずだ)、ぞっとしたに違いない。
「石山の……」という句は、この四年後に完成する『ほそ道』の那谷寺の条に見える「石山の石より白し秋の風」という句の変奏だし、「我に……」という句にいたっては、妄想の中で幻住庵を訪ねた鬼貫が、翌年に出るはずの『猿蓑』に初出する「先たのむ椎の木も有夏木立」をもじって詠んだというしろもの。その内容ときたら、芭蕉の句が「才能も財産もなく、旅に疲れたわが身だけれど、ここに頼もしい一本の椎の木と、涼を与えてくれる夏木立がある」といったところなのに、「その椎の木ですけど、もう秋ですからね、うふふっ、どっさり実をつけたんじゃないすか? せっかくですから、ごちそうになりますかな。いただきやーすっ」なのだ。
「おまえ、誰やねん」
芭蕉はそうつぶやいて、そっと本を閉じ、こわごわ部屋の隅に放って、手を洗いにたったにちがいない。
どうやら鬼貫は、芭蕉が詠み溜めた発句や執筆中の俳文の内容を、之道という芭蕉のところに出入りしていた友人から入手したようだ。それをもとに『旅記』を書きあげ、得意満面だった鬼貫。どれだけ芭蕉に褒めてもらいたかったか。芭蕉先生の『ほそ道』は実際の行脚をもとにした紀行文になるみたいだけど、僕のは趣向を変えて妄想旅日記なんです。そりゃあ、他人の真似をして満足するような凡才じゃありませんからね、僕は。もちろん、先生へのリスペクトは絶対です。だって、先生のことならなんでも知ってるんだもの。未発表の句も、どこで何をしているのかも。って怖いわっ!
鬼貫は自身の著作の中で、しばしば芭蕉について熱心に語っているらしいが、芭蕉の側から鬼貫について語られたことはただの一度もない。そりゃそうでしょう。そっとしておくのが一番だもの。
と、かなり問題ある人だった可能性もあるが、鬼貫はこと俳句に関しては生涯、真剣に向き合い、工夫を怠らなかった。その事実は声を大にして言いたい。きっと、そうした真摯な姿勢や誠実な俳句論が後進らを励まし尻を叩いてきたからこそ、いまの評価があるのだと思う。やはり、大先達の一人なのである。
そこで僕も鬼貫先生にならって、むかし旅した記憶を呼び起こして句を詠んでみようと思う。そうだな、どうせならもう四半世紀もしていない海外旅行を題材にしよう。
考えてみれば、海外吟ってむずかしい。気候がちがうから、日本の風土に育まれた季語がマッチしにくい気がする。なにより、見るもの聞くもの刺激だらけの海外旅行中に、のんきに俳句を詠む余裕のある人なんているだろうか。まあ船旅なんてのは、のんびりしているから出来そうだけど。そうか船旅か。
逆巻く波をのり越えて、海外吟に挑戦しよう。
【俳句】 「夜長、星四(し)千年(せんねん)流す長江」
【句の背景あれやこれや】
二十一世紀に入ってまもなく、僕は中国を旅した。三峡下りを体験しに行ったのである。重慶でクルーズ船に乗りこみ宜昌まで、三日三晩かけて長江を行くのだ。
思いきってチケットを取ったわけは、三峡ダムができると聞いたからだ。長江をせき止めて、世界最大の水力発電所を建設するのだとか。完成したら上流の水位が上がって、多くの文化遺産が水没し、景観も変わってしまう。そうなる前に、本来の姿を見ておきたいと思った。
船はイメージしていたよりもずっと古く、思っていたよりゆっくりと大河を下った。流れるほどの速度だ。
夜も更けてラウンジの灯りも落ちたころ、甲板へ出てみる。年季の入ったエンジンのゴロンゴロンといううなり声が響き、秋気が頬をなでる。
と、墨絵のように真っ黒な峡谷の裂け目に、星が光った。見上げれば満天の星だ。そうか。李白が、杜甫が、劉備が、陸遜がこの河を下ったのか。にわかに実感したのは、昔のままの空と山と河しか見えぬ闇夜だったからだろう。
たぶん白帝城へ向かうときだったと記憶している。クルーズ船から木造の小舟に乗り換えて、支流に入った。渓流の両岸は切り立ち、まだ緑もみずみずしい木々の向こうに澄んだ青空が見える。
やがて小舟は綱をかけられ、河原を歩く男たちに曳かれて、流れをさかのぼり始めた。話でしか聞いたことのない曳き舟を、ここで体験できるとは。鬼貫先生も、こうして大阪八軒家から伏見まで淀川を上ったのだ。頭の中だけど。
遡上が終わり向きを変えた舳先に、ふたたび船頭が立って竿をふるうと、船は気持ち良くすべりだした。と、一陣の風がおこり、船頭の麦わら帽が飛ばされる。帽子は尾を引いて川面を飛ぶ。水に落ちる寸前、最後尾に座っていた僕がそれをつかまえた。手元にもどった帽子を、船頭は何事もなかったかのようにかぶり、また水底を竿でついた。そのとき僕は、渓流が本当に澄んで清らかなことに気づいた。なんときれいな水だろう。
そのとき訪れた史跡、町、景勝、どれも印象深いが、なににもまして長江を下ったこと自体がすばらしい体験だった。
ただ途中、うち捨てられた町をいくつも見た。無人の廃墟だ。あるいは、まさに引っ越しの最中という村もあった。ダムによって沈んでしまう両岸の人たちが、移住させられているのだ。水に飲みこまれる高さにある文化財や史跡を移動する現場も目にした。経済発展のためにはエネルギーがいる。それはわかるけれど。
その後、三峡ダムは無事完成し、長江流域の景観は一変した。
【弁解あるいは激賞】
この句は「夜長、」と始まるが、単に“秋の夜長に”とだけ言っているわけではない。“人生は無明長夜である”ことも指し示しているのだ。
ただ、無明の人間社会は絶えず騒乱・動乱にみまわれ、混乱におちいるけれども、小室直樹先生が「世が乱れると、人が輝く」とおっしゃったとおり、それを乗り越えて人は生きる。混乱の極みと言うべき三国鼎立時代に、綺羅星のごとき英雄たちが現れ躍動したように。地獄と化したガザで、パレスチナ人を救おうと命懸けで尽力する方々が途切れぬように。
だから句意はこうなる。
秋の夜長、数えきれぬほどの星影が長江を流れて行く。その悠々たる大河は四千年にわたり、無明長夜に輝く星のような英雄や詩人たちを運んできたのだ。
おことわりしておくが、ここはシセンネンであって、けっしてヨンセンネンと読んではいけない。
日本語の数のかぞえかたには二系統ある。ひとつは和語の「ひ、ふ、み、よ、い、む、なな、や、ここのつ、とう」。もうひとつは中国語がもとになった「イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、ク、ジュウ」だ。
その使い分けだが、数える対象が和語ならば和語の数詞「ひ、ふ……」を使い、字音語や硬い響きの言葉は漢語系の「イチ、ニ……」でかぞえる。
ではどうやって和語か字音語か見分けるのかというと、その言葉が訓読みなら和語で、音読みなら字音語なのだ。
たとえば“度”を訓読みで“たび”と読めば、「ひとたび、ふたたび、みたび、よたび……」となり、音読みで“ド”と読むと、「イチド、ニド、サンド……」という具合だ。
ちょっと待って、その説明は怪しいぞ。「サンド」のあとも続けてみなよ、「シド」なんて言わないじゃないか、と思われるかもしれない。
ところがどっこい、真言宗の行者が最初にする修行は四度加行と書いて「シドケギョウ」と読むのだ。つづけて「シド、ゴド、ロクド、シチド……」。シチドも違和感を覚えるかもしれないが、上方落語に「七度狐(シチドギツネ)」という噺がある。「シチド、ハチド、クド(三々九度のクドだ)、ジュウド」でおしまい。
で、いま問題にしている「千年」だが、“ちとせ”ではなく“センネン”なのだから、漢語系で「シセンネン」とかぞえねばならない。だいたい「センエン、ニセンエン、サンゼンエン、ひとつとばしてゴセンエン、ロクセンエン……」なのに、四だけ「よんせんえん」と和語にするほうがおかしいでしょう。だから本来は、あるいは正しくは、中国よんせんねんの歴史ではなく、中国シセンネンの歴史なのです。
もちろん言葉は時代とともに変わる。昭和天皇は玉音放送で「米英支蘇四国(しこく)に対し……」と言ったが、タモリの往年のネタは「四ヶ国(よんかこく)麻雀」だ。明治まで銀座四丁目という町名表示は「GINZA SICHOME」とローマ字ルビをふられたけれど、志村けんが歌ったのは「東村山よんちょうめ」。謡曲小袖蘇我では「時しもころは建久四年(しねん)」と発音しても、小学館の学習雑誌は「小学四年(よねん)生」だ。それはそれでかまわない。
でもこれからも、小袖蘇我が「建久よねん」と謡われることはないし、四度加行が「よどけぎょう」になることはない。それとおなじく文語表現の力を借り、ゆかしい季語を使う俳句においては、昔ながらの発音は揺らがず守るべきところなのではないだろうか。