自句自賛9

2024年6月12日

第9回自句自賛 ― それ捏造ですけど、なにか?


【課題】 「本日の季語・秋」……秋はもう、どう転んでも秋の季語


【俳句ルールへのぼやき】
 この企画は、季語を見て何が浮かぶのか、そこにどんな感情が動くのかを詠むというもの。なので、課題の季語が「桜」で時が春ならば花見に出かけることだってできるけれど、季節が違えば過去の記憶を呼び起こして語り直すしかない。そこで、こんな疑問がわいてくる。
 経験していないことを詠んでもいいのだろうか?
 小説のようにドラマを創作することはゆるされるの?

 その人は怖い顔になって、「俳句ってのはね“いま・ここ”に生まれた感動を詠むものなんだよ」と、僕をにらんだ。
 わかったようなわからないような顔で「はぁ」とこたえると、肩をつかまれて「だからあ、その目ん玉で見たまんまを写生するしかないんだって。空想を遊ばせて作るなんて、ぜったいにゆるさんからな」と、首がガックンガックンなるほど揺さぶられるのだ。
 とまあ、実際にそんなことされたわけじゃないけど、俳句本やネット情報を読んでいると、それに近い気分になってくる。俳句の指導者って、なんか怖い。だいたい仲間の集まりをどうして“結社”なんて呼ぶのだろう。血判でも押さなきゃ入れてもらえなさそうじゃないか。けどそうして敷居が高いわりには、結社はよく分裂して、いがみあうみたいだ。趣味人どうし仲良くすればいいのに。くわえて、くだんの「いま・ここの感動を詠めっ」である。
 でも僕は、たとえ権威の言うことでも鵜呑みにはできないヒネた人間なのだ。
 で、調べてみると“俳句いまここ論”の根拠は正岡子規の「写生説」にあるらしい。それは子規の唱えた俳句の方法論で、西洋絵画のように実景をありのままに写し取ること、と説明されるけれど……そこからして違うんじゃないかな?
 子規の写生説って、映画にたとえれば「ドキュメンタリーを撮ろう」ということだと思う。それも、うんとカメラポジションにこだわって、研ぎ澄まされたショットを連ねたやつを。
 子規に言わせれば、それまでの俳句はフィクション作品だったのだ。芭蕉の『奥の細道』に代表される、歌枕を訪ね史跡をめぐり先達ゆかりの地を踏んで詠む手法は、過去の物語やコンテクストの上に石を積むようなものだ。それはともすれば、ハリウッド三幕法にのっとった型通りの娯楽作品や、予定調和のエンディングを迎えるヒーロー活劇のようにマンネリ化、図式化におちいりかねない。いや、芭蕉から二百年たった明治の時代では、実際そうなっていたのだろう。子規が不満に感じたのは、リアリティの欠如だった。もっとひしひしと、ヒリヒリと、生々しく!
 そんなとき、西洋に学んだ坪内逍遥らの小説が出る。そこには、それまでの芝居脚本や草紙にはない、語りかけるような文体と、生き生きとした人間のリアルな会話が描かれていた。子規は、俳句でもそれをやろうと思ったんじゃないかなあ。芝居臭さを排除して、ありのままを写しとるのだと。そう言えば、新聞「日本」紙上で死にゆくわが身におきる出来事を日々レポートした『病牀六尺』は、まさにドキュメンタリーだったじゃない。
 ただし、ドキュメンタリー映像だって現実そのものではない。たとえ作り手が己の価値判断を持ちこまないという意志でのぞんだとしても、カメラの方向によって主張は偏り、編集によって物語は作られる。だから天に唾することになりかねないので、フィクション作品を否定するドキュメンタリー作家などいないのだ。なのに俳句界だけが、どうしてこうもフィクションに不寛容なのだろう。
 本家本元の子規は、その俳句論『俳諧大要』の修行第二期の項でこう言っている。
「俳句をものするには空想によると写実によるとの二種あり」
 なんだい、先生だって空想で作ることを否定してないじゃないか。そりゃそうでしょう、たとえフィクションだろうと、そこに一片のリアリティさえあれば心を動かされるんだから。
 そして、先生はこう続ける。
「初学の人おおむね空想によるを常とす。空想尽くる時は写実によらざるべからず」
 頭の中からひねり出そうとしても、すぐにネタは尽きちゃうだろ。だから大いに観察して取材して経験しないとね、というわけだ。
 ということは、ネタが浮かぶうちは空想で詠んでもいいわけだ。
 と、先生のお墨付きを得たところで、完全なるフィクション句を。


【俳句】   「元カレとボート漕ぐ秋おと澄みて」


【句の背景あれやこれや】
 秋の日。
 陽は傾いて、光は淡く柔らかになる。
 不忍池でボートに乗る、あなたとわたし。
 こうしておしゃべりしてると、やっぱり楽しい。三年前に別れてるのにね。
 え? 待って、どういうつもり?
 急にそんなこと言うから、何も言えなくなっちゃうじゃない。
 悲しげな空の青さが、水面に映る。
 押し黙ったままの二人。
 と、あなたのオールがたてた波紋に水鏡は割れる。
 白さを増した秋に、水音は澄んでゆく。
 ねえ、わたしたち……。
 ※本句はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

 いま・ここを詠む句には、ライブでしか生まれない味わいがある。
 そしてフィクション句には、計算された緊張感やドラマがある。
 やっぱ創作って楽しいな。


【弁解あるいは激賞】
 最後の「澄みて」は「澄みてをり」の省略のつもりなんだけど、そこで切ってしまうことが許されるのだろうか。あまり自信がない。
 ちなみに「~てをり」は、継続を意味する文語的表現で、「いずれは終わりが来るかもしれないけど、今はまだ……」という意味あいなんだとか。この句のラストシーンにぴったりじゃない。
 そしてまた今回も、「秋」と「ボート」が季重なりの季違いになってしまった。
 けど、どうしても「ボート」を夏に限定することに賛成できないんです。
 だって「波乗」がそうだったように、貸しボートにも春夏秋冬それぞれにドラマがあると思うから。春の千鳥ヶ淵は花見、夏の軽井沢は夕涼み、秋の嵐山はデート、それから江戸川放水路のハゼ釣りも、冬の芦ノ湖はワカサギ釣り、と盛りだくさんなんだもの。