質問「戒名に使う漢字について教えてください」
回答「戒名をお作りする際、どんな漢字を使おうかといつも頭を悩ませます。故人のやさしい人柄を表すためにストレートに「慈」という字にしようか、それともやわらかな光にたとえて「月」という字をあてようかといった選択だけでなく、どういう字形を採るのかという問題もあるのです。つまり「壽」と「寿」、「眞」と「真」どちらの字を使うのかということです。
決断するには単に「旧字と新字」という認識だけでは不充分で、長く深く複雑な漢字の歴史を知らなければなりません。
漢字の母国である中国の国土は広大なので、放っておくと文字はどんどん形を変えてたくさんの異体字が生まれてゆきます。そこで国家統一を果たした王朝は、度量衡と同様に文字も統一しようとします。しかし、歴代王朝でそれを実行できたのはたった三つしかありません。なぜなら正字を定めるというのは、字義や歴史的考証にくわえて彫琢され進化を続ける字形からひとつを選び出すということで、その王朝の知識と見識、財力に熱意、そして美意識を総動員して取り組まねばならない大事業だからです。
ということで、正字の歴史をふりかえってみましょう。
モノの始まりはなんでも始皇帝。最初に文字を統一した秦は「小篆」を正字としました。のちに編まれた篆書字典『説文解字』は漢字の聖典です。
次は後漢で「隷書」を正字と定めました。
最後の唐が正字としたのは「楷書」です。そして唐王朝が編纂した『干禄字書』は、「禄を干む」つまり科挙合格のために必須という意味で、楷書のスタンダード化の切り札でした。でも、この『干禄字書』には問題がありました。編纂した顔家一族には、数百年かけて進化し初唐の三大書家が完成させた楷書を『説文解字』をもとに無理やり篆書に近づけようという目論見があったのです。
そして宋代からは木版印刷の時代に入ります。使われる活字の字形は「干禄形」で、篆書風の楷書が定着しました。
さらに十八世紀の清によって編まれたのが有名な『康熙字典』です。これがまた相当に問題のある字書だったのです。『干禄』以上に『説文』化を徹底した上に、随分とおかしな改変も行われました。「来」はヒトヒト形「來」に、「者」には余計な点がつき̪、「青」は月の中が丄の「靑」に、そして二点のシンニョウが現れます。その『康煕』が、日本を含む活字の正字となってしまったのです。
こうした字形の変遷をふまえたうえで、日本の事情を考えてみましょう。
いま私たちの選択肢となる字形は「旧字」と「戦後略字」と「その他異体字」の三つに分けられますが、今回は旧字と戦後略字にしぼって考えます。
旧字は昭和三十年代くらいまで新聞や雑誌などの印刷物で使われていた漢字で、先に述べた通り『康煕字典』の字形がもとになっています。
それに対して戦後略字というのは、手書きする際の略体をもとに作られた新字形です。だれが作ったのかというと、文部省の役人と漢字を廃止しようとする勢力です。当用漢字、つまり漢字を全廃するまでの間「当分用いる」という言葉がすべてを物語っています(廃止後はローマ字、カナモジ、英語、フランス語など意見は様々)。
以下は私見ですが、問題の『康煕』がもとになっているわけですから旧字が絶対良いとは思いません。しかし、過去の王朝が厖大な労力をかけて行ってきた正字の選定を、きわめて低い見識のもと戦後のドサクサに乗じて行った戦後略字は、見るも無残な字形だとと言わざるをえません。多すぎる欠陥の一例として「教」の字をあげます。なぜ教えるという字に孝行の孝が入っているのか不思議に思うでしょう。その通り、元の字形は「敎」で左側は「孝」ではなく「メナ+子」だったのです。「敎」も「學」も「覺」も「メナ」部は「まじわる」ことを表します。その字形だからこそ、教えるのも教わるのも、学ぶのも、覚るのも全てコミュニケーションなのだと納得できるのに。
そういうわけで、ご遺族とコミュニケーションをとりながら一字一字、吟味して漢字を選んで作られるのが戒名なのです」