真言宗豊山派安養院(栃木県栃木市の寺院)

2025年2月19日

皆さんは「主人公」という言葉をご存じだろうか?
そう、物語の中心となる人物で、その人を軸に話が展開する、それが主人公。知らない人は、まずいないだろう。
でも、この言葉がそういう意味で使われるようになったのは明治時代以降だという事実は、それほど知られていないのではないか。
明治18年、坪内逍遥先生が『小説神髄』という本を出版なさった。それまでの日本のフィクション作品は、江戸戯作文学に代表されるように、人の心の内側をのぞきこみその動きを写実的に描写するということはしてこなかった。そんな日本の人たちに、西洋の小説はこんな風になっているということを紹介したのがこの本だ。その中で、近代小説には必ず主人公というものが存在すると説明したのが、この言葉が今のような意味で使われるようになった嚆矢なのである。

それ以前の「主人公」は、かなりマイナーな仏教用語だった。
禅の公案集『無門関』に、中国は唐の時代にいた瑞巌師彦という禅僧のエピソードが出てくる。その瑞巌和尚、悟ったのちもひたすら石の上に坐り続けた。ただ、時折カッと目を見開いて何事か叫ぶことがある。よく聞いてみると、自身に向かって「主人公っ?」と問いかかけていたのだ。それに自ら「ハイっ」と答える。続けて「ちゃんと見えているか?」と尋ね、「ハイっ」と返す。さらに「他人に惑わされていないか?」と糺し、「ハイっ」とうなずく。日々これを繰り返した。いや、それだけしかなさらなかった。これが元々の「主人公」なのだ。
 私はもとより、瑞巌和尚の「主人公? ハイ!」の意味も分からなければ、坪内先生がその言葉を拾ってきた意図も理解できずにいた。坪内先生は、いったい何を考えてそんなことをなさったのだろう?
明治期、西洋から様々な文物が入ってきた。すっかり西洋化の完了した現代では、コンプライアンスでもサステナビリティでも、カタカナ英語でそのまま取り入れることが多いが、当時は漢字の文字面から推察できるよう新たに造語して輸入したのだ。たとえばベースボールというスポーツには野球という新語を作って当て、デモクラシーという政治制度は民主主義と翻訳したように。同様にメインキャラクターに対してだって、いくらでも造語できたはずなのに、どうしてそんなカビ臭い禅語を引っ張ってきたのか。首をかしげたくなるのは私だけではないはずだ。

 そんな中、昨年のお正月のこと。起き抜けに異変を感じて熱を測ってみると、三十七度五分ある。ただの風邪であって欲しいと祈りつつ市販薬を飲んではみたが、熱はおさまらず、昼過ぎには八度を超えてしまった。
 つらくともそこは元日、病院は開いていない。また、コロナの可能性もあったので、人を呼ぶこともできない。独り布団をかぶって横になるしかなかった。
 熱はさらに上がってゆく。日は落ち、部屋は暗くなる。不安はどんどん膨らんでゆく。結論から言うとインフルエンザA型だったのだが、それまで私はインフルエンザにもコロナにもかかったことがなかったので、自分の体がどうなっているのか見当もつかなかった。
 普段はそうして不安が湧くと、私は呼吸法で対処している。たかが呼吸とあなどるなかれ、ブッダが「入出息念定(呼吸によって悟りに至ることもできる)」とおっしゃった通り、呼吸は大事なのだ。だからその時も、腹式丹田呼吸によって息を整え瞑想し妄想をふり払うべく、横になったままだが身体をまっすぐにして静かに深く息を吸いこんだ……とたん、すでに気管が荒れていたらしく「ゴホホッ」とむせてしまった。これはいけない、もっと静かに行わなければと、絹糸のイメージで吸いこんだところ、さらにむせ返り、喘息のように咳が止まらなくなってしまった。
のたうつこと十分間。ようやくおさまり、くたくたになってまた横になった。ところが、今度は普通の呼吸すら出来なくなってしまった。うまく息が吸えていないように感じる。息苦しい。今から思えば、半分パニックをおこしていたのだろう。
呼吸が苦しくなると、人の頭にはすぐに“死”が思い浮かぶ。このままどうにかなってしまうのでは? まったくもって追い詰められてしまった。
その時思ったのが、ここで自分に何かあったとしても、世界は変わらず回り続けるのだろうな、という哀しみを含んだあきらめだった。子どものころ学校を休んだ日、クラスのみんなが教室で楽しそうに遊んでいるところを想像したようなものかもしれない。
そんな風に、こことは違うところで世界が回っているという感覚を、誰しも抱いてはいないだろうか。今ならトランプ大統領がそうだ。お会いしたこともないし、今後お会いすることもないだろうに、毎日これだけニュースで見聞きしていると、トランプの世界が精緻なリアリティをもって立ち現れ、回り始めるのだ。それは、他人の気持ちを想像することができる「共感」という能力の一部でもあるのだが、妄想の根源ともなってしまう諸刃の剣で、まあその時も、今こことは別の世界が回るという幻想が浮かんだわけである。
 だが次に、こう思った。そうだとしても……やはり自分にとって本当に現実の世界は、自分の目を通して見て、心を通して感じる、今ここにある世界なのではないか。世界とは自分が生まれたときに始まり、死ぬとき幕を下ろすものなのだ。それは当たり前のことなのだけれど、心の底から実感したのだ。
 すると、不思議なことにスッと気持ちが落ち着いた。
 おそらくだが、人間の心は常に外へ外へと向かってゆく。ところがその時は、完全に内側だけを向いていた。世界の始まりであり、全てである自分というものに気づき、正面から見つめることができた。今目の前だけに集中し、余計なことを考えなかった。だから体はつらくとも、心は安らかになったのだろう。

 そして、額に「主人公」という言葉が降ってきたのだ。
 瑞巌和尚の言う「主人公」とは、大事なものは全部内側にあるという意味だったのではないか。どうしても外側に楽しいこと、良いことがあるように思い、人はいつもあちこち探し回っている。でも自分こそが世界の始まりであり全てであるならば、世界を体験する主体である自分の心をいかに深めてゆくか、大事なことはそれだけではないか。それは、そもそも自分とは何かとか、自分がどうありたいかなども含めて。
「惺惺著」 そのことを、その身体で、その心で実感しているか? いつも見えているか?
「他時、異日、人の瞞を受くることなかれ」 そのためには、心が今ここを離れていけない。未来へ飛べば不安という苦しみが、過去へ飛べば後悔が生まれる。他人のほうへ飛んでゆくと、嫉妬や妬み怒りが起こる。常に自分こそが世界の主人公でなければならない。

 そして、坪内先生がそれを引いてきた理由も分かる気がした。
 くだんの『小説神髄』には「主人公こそが、小説中の眼目となる人物なり」とある。眼目とは、重要なという意味もあるが、文字通りまなこという意味がある。その人の目を通して世界が体験される。皆がそれぞれの世界の、それぞれの物語の主人公なのだ。決して他人に乗っ取られてはいけない。そんな意味で先生はこの言葉を使ったのではないだろうか。
 ちなみに原文は「主人公とは何ぞや。小説中の眼目となる人物是れなり。或ひは之れを本尊と命(なづく)るも可なり」となっている。私などは、どうしても主人公=本尊とおっしゃるところに目が行ってしまう。そこに「天上天下唯我独尊」の解釈にも通じる思想を感じるのだ。
 昨今、世の中を動かすのはSNSだ。だが、あれは他人の情報にさらされ続ける装置なのだ。その恐ろしさを皆、分かっているのだろうか。

 さて、瑞巌和尚の「主人公! はい!」の実践として「拝む」ことはどうだろう。
 普段、私たちは、ああしようこうしようで生きている。それを叶えようとして一生懸命がんばっているわけだ。でも、少なくとも拝む時だけは、ああしようこうしようと外へ向かう心を抑えて、腰を折るように自分というものを折り畳んでしまう。そして手を合わせるように拝む対象と心を合わせるのだ。何度も何度もそうしているうちに、やがて自分を超えた大きなものを実感するようになる。そう、自分の心を深めてゆくと無我へと至る。不思議なことだ。


  私は僧侶になってすぐ、守山祐弘大僧正に付いて三年間学んだ。本当にたくさんのことをご教授賜っただけでなく、折に触れ、お位牌やお塔婆を書く際に墨をする端渓の硯、錫の音が美しい五鈷杵、大切な法会でつける七條袈裟と、僧侶として必要な仏具や得体のほとんどを頂戴した。そのご恩に対して、今はもう感謝するよりほかない。ほかないといのは言葉のままで、守山先生は本山・長谷寺の執事をお努めのさなか、五十代の若さで遷化なさったので、直接恩返しすることがかなわないのだ。
 その守山先生が住職を務め、私が通ったお寺を常楽院という。
 実を言うと、私はその「常に楽しい」という寺名にどうしても馴染めなかった。もちろん涅槃の四徳「常楽我浄」から取ったのであろうことも、「法楽」という仏教用語も知ってはいたが、仏道とは真面目に取り組むものという浅薄な考えにとらわれていたので、山号額に踊る「楽」という字に、知床岬に建つ健康ランドくらいの違和感を覚えてしまったのだ。
 あれから三十年。自分の「楽」に対する見方がどう変わったのかお話ししたい。

他の動物とくらべて、人間は豊かな感情を持つとされる。確かに、犬はちょっと撫でればオーバーリアクション気味に喜ぶし、猫は少しでも気分を害すと深刻に拗ねてみせる。でも人の感情は、それらとはくらべものにならないくらい複雑で、目まぐるしく変化するのだ。他の動物からしたら、さぞ情緒不安定な生き物に見えることだろう。
で、その感情を指して、ひと口に「喜怒哀楽」と言う。だが、よく考えると「喜怒哀」と「楽」は一括りにはできないのではないか。
なぜなら、自分にとって良いと思うことが起こった時、自分の願い通りにものごとが運んだ時に生まれ感情が「喜」。逆に思い通りにならなければ「哀」となる。そして、その度合いが強ければ「怒」が生ずるわけだ。そのように「喜怒哀」の中心には自分というものがドーンと構えている。
ところが「楽」はちょっと違うのだ。例えばスポーツ選手が「試合を楽しめた」と言うことがある。誰しも試合に臨んで目的とするのは、勝つことだ。ところが楽しいと感じている最中は、勝ちたいという自分の意志はどこかへ行ってしまっている。だからまれに、試合に負けたとしても「楽しめた」と思うケースさえ出てくるのである。
あるいは音を楽しむと書く音楽を思い浮かべてほしい。流れてくるメロディやリズムに自然と体が動き出してしまう、そんな時が一番楽しいはずだ。それは、自分の価値判断や情報分析を止めて、音に身を任せている状態なのである。
音楽評論家の吉田秀和の著書に『之を楽しむに如かず』というエッセー集がある。そのタイトルは『論語』からの引用で、孔子は「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず(ものごとを理解し知る人は、それを好きだとう人には及ばない。ものごとを好きだという人は、それを心から楽しむ人には及ばない)」と言う。たとえばそれが学ぶということなら、「知る」は知識として記憶すること。「好む」はもっと知りたいという意思が芽生え、盛んに読み聞き学ぶこと。ゆえに知識欲などという言い方がある。そして「楽しむ」は自らの意思を越えて、呼吸するのとおなじくらい学ぶことが自然な営みとなっている状態だ。
 そのように自分が中心となる「喜怒哀」と違って、「楽」とは自らの意志を超えたところに生ずるものなのである。
 たしかに喜怒哀という感情などひょいと飛び越えて、ただ楽しくいることができれば……まさに常楽だが、それほどの幸せはないかもしれない。
でも、そんなことができるのだろうか?

実はあの良寛さまが、日々心安らかに楽しく暮らす秘訣を説いていたのだ。こんなありがたい話はないので、是非とも紹介したい。
念のため記しておくが、良寛は江戸時代の僧侶で、自らの人生を「生涯、身を立つるに懶し」と表現したくらい、上手に世渡りすることに背を向けて生きた人だ。
そんな良寛が作った『起上り小法師』という漢詩がある。ちなみに起上り小法師とは、おもちゃのダルマのこと。
「人の投げるにまかせ、人の笑うにまかす。さらに一物の心地(心の本性)に当たる無し。語を寄す、人生もし君に似たらば、よく世間に遊ぶに何事か有らむ」
「おもちゃのダルマは、人に投げられても投げられたまんま。笑われたら笑われたまんまで、それに対して何の感情や妄想も起こさない。人もそのように生きることができれば、何の苦労もなくなるはずだ」
 ポイントとなるのは、何の感情も妄想も起こさないということ。
 ふつうは鼻で笑われたら、悲しい、悔しい、恥ずかしい、といった感情がわく。そして、あの人は絶対に悪い人だ、いつか自分もおなじ目にあうだろう、なんならやり返してやろうか、などと現実にはない妄想をどんどんふくらませる。それらが一切湧いてこないと言うのだ。そんなことが出来るだろうか?

そもそも、どうしてそんな感情や妄想が湧くのだろう。
自分のことを大事に思うからだ。それをして自我と呼ぶ。植物には自我がほとんどない。昆虫も小さい。動物はしっかり存在する。だが、それだって人間の自我とくらべたら無いに等しい。それほど人間の自我意識は強烈なのだ。
そんな自我の観点から、さきほどの「喜怒哀」という感情を説明するなら、自分で自分を祝福し、褒めてあげるのが喜び。自分を慰めるのが哀しみ。自分を守るため他を非難し、攻撃するのが怒りだ。そうやって自我を守ろうとするから、様々な感情や理屈や妄想が湧いてくるのである。
ところが実際は、自分を守るためにしたことが逆に苦しみを何度も呼び起こし、心を乱し、自分を追い詰めてしまう結果になってはいないだろうか。時に人は、自死という選択をしてしまうことがあるが、それはこれ以上自分が傷つかぬよう自らを守ろうとして導き出される答えなのだ。

 では尋ねるが、そこまでして守ろうとする自分とは何なのか?
 私も含めてみんな、よく分かっていない。
それなのに自分、自分で生きている。それが実情なのだ。

現実を直視すれば、思い描いているような「決まった形をした自分」などないと分かる。
年齢を重ねると身に染みるが、体は刻々と変化してゆく。昨日の体と今日の体は、あきらかに別物だ。アンチエイジングなどとて若さを人工的に保とうとしても、叶うものではない。
そして心も刻々と変化する。
諸行無常、すべては変化する。だからブッダのおっしゃる通り「無我」なのである。
無我を実感するなら、感情や妄想が湧いてきても素通りさせることができるようになる。すると、先ほどのスポーツや音楽や論語のように楽しみの世界が開けてくる。良寛さんは、そう説いているのだ。

 いやいや、なんの感情も味わえない無味乾燥な人生なんてつまらないし、降りかかる出来事に自分の意志を持つことなく身を任せているだけなら生きる意味がないだろう、と思うかもしれない。
 でも、「執着すべきものは何も無い」と自覚し、自分をひいきして身勝手にふるまうことがなくなれば、相手の立場になって考えられるようになる。他人を思いやり、行動するようになるのだ。
 そして、なによりも人生を恐れることがなくなる。
 その点では、私たちは犬や猫を見習わなければならないだろう。面倒見ていた野良猫が病を得て、さんざん苦しんだ後、死期を悟って家を出てゆく際の毅然とした態度には、いつも頭が下がる。あのものたちは決してうろたえることなく、すべてを受け入れ、堂々と行くのだ。
 植物も昆虫も動物たちも、みんな日々楽しく暮らしている、きっと。なのに人間だけが……。

 ならば自分もと、無我を実感し自我への執着を断とうとしても、頭で理解するだけでは足りない。体解するプロセスが必要なのだ。坐禅でもいい、礼拝することでもいい、呼吸法でもいい、とにかく日々実践することだ。
 やがて自我の執着がはげ落ち、心が軽やかになって来る。そこにはきっと「楽しい人生」が待っていることだろう。最後の一文は南禅寺・田中寛州老師の受け売りです。


亡き母を思い出すたび、あの夜の電話がよみがえり、心底、自分にがっかりする。
連れ合いを亡くして二年がたったころ、ひとり暮らしの母は、写経を始めた。テキストは、定番中の定番『般若心経』だった。
そんなある夜、八時半は回っていたと思う、母から電話があり、こう尋ねられた。
「色即是空はわかるんだけど、そのあとの空即是色がよくわからないの」
私は思わず苦笑した。そして聞き返した。
「色即是空はわかるの?」
「……なんとなくだけど」
すでに感じが悪い人になっているのに、さらに意地悪を言う私。
「じゃあ意味を言ってみて」
「えーと、あらゆる物や現象には、固定的な実体がない」
「なにか解説書を読みあげたでしょ」
「ち、ちがうよぉ」
「叱ってるわけじゃないよ。次の空即是色は、どう説明しているの?」
「すべては関係性の中で変化し続ける。だから縁起して、あらゆることが現象してくる。別の言いかたをすると、あらゆる現象には自性がないため、特定の色として現れるしかない」
「うん。その通りだね。わかるじゃない」
「わかんないよ」
「どうして?」
そこで母は、鋭く言い放った。
「色即是空の即って、イコールとは違うじゃない」
「ん? イコールでしょう」
「だって英語でShe is a teacherって言うとき、彼女と先生は同じじゃないでしょ。先生は属性って言うかカテゴリーって言うか、彼女より大きな括りだもの」
「英語のisはそうかもね」
「色即是空だって、色より空のほうが大きくない? 宇宙の実相であり、全体性なんだから」
「……うーん」
「だったら、ひっくり返して先生とは彼女ですって言えないのと同様に、空とは色であるって言えないでしょう」
「そうかな? いや、だけど、さっきの解説にあったように、全体性が絶え間ない縁起の中で特定の色として像を結ぶって、その通りじゃない」
「今言った説明は、前の色即是空の説明、あらゆる現象には固定的実体がないとは、非対称だよね?」
「えっ?」
「どうして非対称なんだろうって考えたら、空とは色であるとは言えないんで、表現方法を変えてごまかしてるとしか思えないの。だからモヤモヤするのよ」
母の理屈には、筋が通っている。それにしても、相当テキストを読みこんだのだろう。なんと深い問いなのだ。いやいや、感心している場合ではない。このままでは、僧侶を名乗っているにもかかわらず、上っ面の理解しかしていなかったことが露見してしまう。私はあせった。
「ちょっと待って下さいね。原典を見ながら、頭を整理するから」
私は経本を探すふりをして、書棚をあさった。何かの本に同じようなやりとりがあったことを、思いだしたからである。どこだったかな? そうだ! 芥川賞作家の玄侑宗久先生とテーラワーダ仏教のアルボムッレ・スマナサーラ師の対談本だ。
本をひっぱり出して、急いで当該箇所を探す。あった。スマナサーラ師は般若心経をこう論難する、「色即是空は良いが、空即是色は受け入れられない。間違っている」と。やっぱり、母親と同じようなことを言ってる。それに対して玄侑先生はどう反論したのか。えっ? まさかのスルー。それはないでしょう。私はどうすればいいのですか。
で、ごまかすことにした。
「色即是空、空即是色……やっぱり問題ないね」
「さっきの解釈通りなら、空即是色って表現を変えなきゃいけないんじゃない?」
「玄奘法師の翻訳が間違ってるなんて、そんなたいそれたことを言っちゃだめでしょう」
「だからこそ納得させて欲しいのよ」
「今日はもう遅いし、やらなきゃならないこともあるから、一旦切るよ。また今度、説明するから」
と言って、私は電話を切った。そして、以降、空即是色から逃げまくった。そうこうするうちに、母は大動脈解離であっけなく逝ってしまったのである。
以来、私の心には空即是色というトゲが刺さったままだ。今なら何と答えるだろうと、いつも思う。
ちなみに、今現在の答えを言おう。
母の言う通り、色即是空では空のほうに比重がある。そして空即是色では色のほうに比重がある。そこに母はひっかかりを感じたのだ。宇宙の実相、全体性よりも、個々の現象のほうが大きいなんてことはないだろうと。だが、それでよいのだ。なぜなら、個々の色には、名づけによって型に押しこまれてしまうという特徴がある。男、女、蝶々、猫、机……。でも目の前にいるのは、ミーという三色まだらの、尻尾の長い、毛におおわれた、やわらかくてかわいらしい生き物なのであって、猫と呼ぶことで、それそのものにしかない尊さから遠ざかってしまう。そうした個々の色の尊さを表すのが、空即是色なのではないだろうか。
そして色即是空空即是色と続けることで、また別の世界が開けてくる。色はニワトリで空はタマゴだとすると、まさにニワトリが先かタマゴが先か、どっちの見方もできるわけで、同様に“因果の時間”と“共時”という二つの在り方が混在する世界がそこに展開されるのではないだろうか。その八文字の連なりで、ダイナミックな運動性と時間観を提示している。それが今の実感なのである。
あの夜の母は、もちろん疑問を解消したかったのだと思う。でも、それだけではないようにも思える。きっと夜中に一人でさびしかったのだ。もっと話したかったろうに、私は電話を切ってしまった。
せっかく重要な問いを投げかけてくれた母に、僭越にも私は答えを与えようとしてしまった。一緒に問いと向かいあい、考えを深める機会を放棄してしまったのだ。
母の死以降、私は問いに対して偉そうに答えたくなる気持ちを抑えこむようにしている。それが、母の最期の教えだと思うからである。


2023年6月3日

日本で使われている漢字には、音(おん)と訓という二つの読みがあります。「犬」という字でいうと、ケンが音(おん)で、イヌが訓です。
音(おん)は、中国から入ってきた発音。訓は、その漢字にあてはまる日本語のオトですね。

そこで戒名ですが、戒名は音(おん)で発音します。
と言うものの、お墓やお位牌に刻まれた戒名、なんと読んだらよいのか迷ったことはありませんか?
たとえば「明成令山信士」なんて戒名があるとします。難しい字はひとつもないのに、その読みかたは「ミョウ・メイ」×「ジョウ・セイ」×「リョウ・レイ」×「セン・サン」の組み合わせなので……正確にはわかりませんが、とにかくたくさんあるのです。

このように日本で使われる漢字には、複数の音(おん)を持つものが多いことは皆さんご存知かと思われます。
では、なぜ複数あるのでしょう?
中国から入ってきた時代がちがうからです。
奈良時代までに入ってきた発音が“呉音”です。ほとんどの漢字にある読みで、「行」という字ならコウがそれにあたります。
奈良時代から平安時代にかけて、遣唐使たちが長安で学んだ中古漢語が“漢音”。すべての漢字にあって、「行」でいうとギョウ。
鎌倉時代から江戸時代にかけて入った“唐宋音”を持つ漢字は、ごくわずかです。「行脚」でアンと読ませるなどです。
そして“現代音”もありますが、「炒飯」のチャーとか「餃子」のギョウザなど数個です。
というわけで、呉音か漢音か、どちらで読むのか、それが問題なのです。

そもそも、仏教語は呉音で発音するという原則があります。
「遺言」は、呉音なら「ユイゴン」で漢音なら「イゲン」ですが、仏教関連のことばは呉音で「遺教経(ユイキョウギョウ)」だし「御遺告(ゴユイゴウ)」だし「遺骨(ユイコツ)」なのです。現代では、遺骨はイコツと発音しますが、昔はユイコツでした。たとえば『平家物語』では、鬼界ケ島に流された俊寛が亡くなっていたと知った召使の有王は「俊寛僧都の遺骨(ユイコツ)を頸にかけ、高野へのぼり」と演じられます。
ほかにも、久遠はキュウエンではなくクオンだし、帝釈天はテイシャクではなくタイだし、須弥山はシュミサンではなくセンです。

でもそれが、こと戒名となると、あてはまらない例もあるから厄介なのです。
まあ、呉音で読むことが多いのは、たしかなのですが。
臨済宗を開いた栄西は、エイセイではなくヨウサイ。浄土宗の祖師・法然は、ホウゼンではなくホウネン。栂ノ尾高山寺の明恵は、アキエ……いやメイケイではなくミョウエ。チベットに潜入した河口慧海は、ケイカイではなくエカイ。
ところが、弘法大師の師匠の恵果は、エカではなくて漢音のケイカ。芥川賞作家の玄侑宗久さんも、ソウクではなく漢音でソウキュウ。と、漢音派もいる。

そこで、高野山管長を務めた松長有慶さんの著書を参考に、過去の真言宗の僧侶名の読みを調べてみました。
空海亡き後の高野山をまかされた真然は、シンゼンで漢音。
おなじく東寺をまかされたのが実恵で、ジチエと呉音。
のちに弘法大師の諱号を下賜されたことを報告するため、入定なさった大師のもとを訪れた観賢のお供をした淳祐は、シュンニュウと漢音(ニュウの読みは慣用音か?)。
そして、平安末期に高野の復興に努めた行明は、ギョウミョウと漢音+呉音なのに、おなじころ中院を再興して、今につづく中院流を開いた明算は、メイザンと漢音なのです。

というわけで、戒名の読みは、それを付けた和尚にしかわからない、というのが真相でした。
なので、戒名授与の際は、読みかたも明記しなければならないのです。


2023年5月19日

わたしたちが暮らす社会は、どんどん複雑になって、日に日に大事なところが見えにくくなってゆきます。
とうに社会インフラとなっているインターネット、その核心であるアルゴリズムときたら、一ミリも理解できないし、ほぼ毎日つかう車や家電製品を制御しているICチップの中身だって、さっぱりわからない。社会を支える肝心かなめの部分は、ブラックボックスになってしまいました。
それでも、それぞれの専門家がちゃんとやってくれているのだろう、という期待と思いこみで世の中はまわっているのだけれど、どうもそうじゃないらしいぞと、首をひねらざるをえない出来事が頻発しています。原発事故しかり、コロナ対応しかり、最近、明るみになったマイナンバーの入力ミスは、ここまでダメだったの? と、皆に衝撃を与えました。ただし、日本だけがダメなわけではなく、旧Facebook社やTwitter社など巨大テック企業の、あまりの身勝手さ、無責任さを見るにつけ、それが人類共通の課題であることがわかります。
まあ、そりゃそうです。ものごとが見えなくなると、どうしたって、秘密を握っている専門家が権威をふりかざして威張るようになり、いいかげんなふるまい、利己的なふるまいをするようになってしまう、それが人間の性なのです。
宗教だって例外ではありません。宗教改革や分派という運動は、そうしたものへの反発として起こるのですから。

だから、わたしも常に心がけるよう肝に銘じます。けして威張らないこと、誠実であること、そして相手に見えるよう丁寧に説明すること。
というわけで、今回は皆様がお上げくださるお塔婆には、何が書いてあるのかを明らかにします。みんながお塔婆を読めて、意味がわかるように。
梵字については、ネットにも出ているので省略して、日本語の部分にしぼって解説します。


真言宗の一般的なお塔婆は、表に「爰寶塔者為○○信士○○回忌菩提也」と書きます。
文字を文節ごとに区切って、意味を説明します。
「爰 → ここ」  あまり見ない字ですが“ここ”という宣言です。
「寶塔 → 仏塔」  塔は、ブッダにまみえる場から修行装置そして供養装置へと変遷。
「者 → ~は」  のちほど説明します。
「為 → ため」  そのままの意味です。
「○○信士○○回忌 → 供養の内容」  〃
「菩提 → 悟り・冥福」  〃
「也 → です」  〃

皆さんがひっかかりを感じるのは、「者」をなぜ「は」と読むのか、ではないでしょうか。
そこで問題です。
お蕎麦屋さんの暖簾に、妙な文字が書かれています(フォントがないので、実物は省略)。
あれは「きそば」と読みますが、なぜこんな変てこりんな文字なのでしょう?
正解は、各々の漢字をくずした変体仮名だからです。
「そ ← 楚」
「ば ← 者+˝」
では、そもそも、どうして楚をソに、者をハにあてたのか?

かつて日本には、文字がありませんでした。もちろん、日本語はありましたが、それを表記する文字はなかったのです。そこで、漢字の音や意味を日本語にあてはめる万葉仮名を編み出しました。
例として、『万葉集』の柿本人麻呂の歌をあげます。
読みは「おおきみはかみにしませばあまくもの……」で、表記は「皇者神二四座者天雲之……」とされました。で、対応は、「皇(おおきみ)」「者(は)」「神(かみ)」「二(に)」「四(し)」「座(ませ)」「者(ば)」「天(あま)」「雲(くも)」「之(の)」です。
このように、万葉仮名では、「者」は「は」と読みます。なお、日本語は濁音字を作らなかったので、ハとバは同じ表記です。それをお塔婆や、お蕎麦屋の暖簾に使ったというわけです。

余談になりますが、歌川広重『木曽海道六十九次 関ケ原』には江戸後期の茶店が、そして『江戸府内 絵本風俗往来』には幕末の蕎麦屋が描かれています。それぞれの看板表記は「そばきり」と「きそば」と「生蕎麦」ですから、おそらく変体仮名の暖簾は、戦後あたりから始って、一気に広まったのではないかと推測されます。