真言宗豊山派安養院(栃木県栃木市の寺院)

2021年1月17日

質問「戒名に使う漢字について教えてください」

回答「戒名をお作りする際、どんな漢字を使おうかといつも頭を悩ませます。故人のやさしい人柄を表すためにストレートに「慈」という字にしようか、それともやわらかな光にたとえて「月」という字をあてようかといった選択だけでなく、どういう字形を採るのかという問題もあるのです。つまり「壽」と「寿」、「眞」と「真」どちらの字を使うのかということです。
決断するには単に「旧字と新字」という認識だけでは不充分で、長く深く複雑な漢字の歴史を知らなければなりません。

漢字の母国である中国の国土は広大なので、放っておくと文字はどんどん形を変えてたくさんの異体字が生まれてゆきます。そこで国家統一を果たした王朝は、度量衡と同様に文字も統一しようとします。しかし、歴代王朝でそれを実行できたのはたった三つしかありません。なぜなら正字を定めるというのは、字義や歴史的考証にくわえて彫琢され進化を続ける字形からひとつを選び出すということで、その王朝の知識と見識、財力に熱意、そして美意識を総動員して取り組まねばならない大事業だからです。
ということで、正字の歴史をふりかえってみましょう。
モノの始まりはなんでも始皇帝。最初に文字を統一した秦は「小篆」を正字としました。のちに編まれた篆書字典『説文解字』は漢字の聖典です。
次は後漢で「隷書」を正字と定めました。
最後の唐が正字としたのは「楷書」です。そして唐王朝が編纂した『干禄字書』は、「禄を干む」つまり科挙合格のために必須という意味で、楷書のスタンダード化の切り札でした。でも、この『干禄字書』には問題がありました。編纂した顔家一族には、数百年かけて進化し初唐の三大書家が完成させた楷書を『説文解字』をもとに無理やり篆書に近づけようという目論見があったのです。
そして宋代からは木版印刷の時代に入ります。使われる活字の字形は「干禄形」で、篆書風の楷書が定着しました。
さらに十八世紀の清によって編まれたのが有名な『康熙字典』です。これがまた相当に問題のある字書だったのです。『干禄』以上に『説文』化を徹底した上に、随分とおかしな改変も行われました。「来」はヒトヒト形「來」に、「者」には余計な点がつき̪、「青」は月の中が丄の「靑」に、そして二点のシンニョウが現れます。その『康煕』が、日本を含む活字の正字となってしまったのです。

こうした字形の変遷をふまえたうえで、日本の事情を考えてみましょう。
いま私たちの選択肢となる字形は「旧字」と「戦後略字」と「その他異体字」の三つに分けられますが、今回は旧字と戦後略字にしぼって考えます。
旧字は昭和三十年代くらいまで新聞や雑誌などの印刷物で使われていた漢字で、先に述べた通り『康煕字典』の字形がもとになっています。
それに対して戦後略字というのは、手書きする際の略体をもとに作られた新字形です。だれが作ったのかというと、文部省の役人と漢字を廃止しようとする勢力です。当用漢字、つまり漢字を全廃するまでの間「当分用いる」という言葉がすべてを物語っています(廃止後はローマ字、カナモジ、英語、フランス語など意見は様々)。

以下は私見ですが、問題の『康煕』がもとになっているわけですから旧字が絶対良いとは思いません。しかし、過去の王朝が厖大な労力をかけて行ってきた正字の選定を、きわめて低い見識のもと戦後のドサクサに乗じて行った戦後略字は、見るも無残な字形だとと言わざるをえません。多すぎる欠陥の一例として「教」の字をあげます。なぜ教えるという字に孝行の孝が入っているのか不思議に思うでしょう。その通り、元の字形は「敎」で左側は「孝」ではなく「メナ+子」だったのです。「敎」も「學」も「覺」も「メナ」部は「まじわる」ことを表します。その字形だからこそ、教えるのも教わるのも、学ぶのも、覚るのも全てコミュニケーションなのだと納得できるのに。
そういうわけで、ご遺族とコミュニケーションをとりながら一字一字、吟味して漢字を選んで作られるのが戒名なのです」



2021年1月10日

安養院の本堂は、先々代の時に焼失してしまいました。以来、ご本尊は仮本堂にお祀りしております。
ただ、簡素で設備も整ってはいませんが、お檀家様の暖かなお気持ちの詰まった良いお堂なのです。
たとえばお寺の本堂につきものの天蓋。インドで貴人にさしかけられる日傘が元になった仏具で、豪華な彫り物やきらびやかな装飾のついた蓋を本堂の天井から吊るします。このように→

天蓋

でも、それが安養院となると……

天蓋がなければ寂しかろうと、お檀家さんが千代紙と厚紙で作って寄贈して下さいました。
こんなに心のこもった立派な天蓋は見たことがないと、私は思っております。


2021年1月3日

質問「ちかごろ葬儀のやり方がだいぶ変わってきました。どう思いますか?……の続き」
回答「葬送法は時と共に変わってゆくものです。でも、守ってゆきたいことはあります……の続き」
理由「故人とお別れするにあたり、弔いの儀式を行うのは意味あることだと思います。
 かつて米国人のアン・リンドバーグは『日本語のサヨウナラは珍しい言葉だ。そして美しい言葉だ』と書きました。
 どこが珍しいのか? 世界中に別れの言葉はあまたあるが、だいたい三つに分類できる。➀グッドバイ=神は常にそばにいてくださいますよ➁再見・シーユー=またお会いしましょう➂フェアウェル・安寧ヒゲセヨ=お元気で、である。ところがサヨウナラ・サラバ=そうであるならば……という接続詞なのだ。まったく私たちのご先祖は何を考えていたのだろうか、“だから、けれど、それにしても”なんて接続詞で人と別れるなんて。
 では何が美しいのか? ③は別れそのものについては何も語っていない。親の肩を揉みながら元気でいてね、そんな別れとは無関係の場面でも使える言葉だ。➁は別れはふまえているもののまた会えるという希望で悲しみを打ち消そうとしている。①は神様に丸投げだ。ところがサヨウナラは、別れを正面から受け止めた上でソウデアルナラバ私はどうする……というその人の意思が入ってくる。だから美しいのだと。ふむ、なるほど。
 では、別れを受け止めた上でどうするのか? ひとつの方法が弔いではないでしょうか。“とむらふ”は二つの“とふ”が合わさって出来たと言われます。故人の元を訪いお会いする。そして故人に問いかけ対話する。そして故人から聞いた話を一つの物語りとして作り上げる。それが弔いです。
 人間には物語が必要です。物語がなければ人は恋愛することも喧嘩することもできない。人は物語によって流儀を学び、かようにも面倒くさい恋愛や喧嘩をするようになる。日本では『源氏物語』が珍重されてきました。それはきっとあの本が、出会いの物語りであり別れの物語りだったからでしょう。人はこうして出会い別れるのだとみんな学んだのではないでしょうか。
 だから物語を聞き作り上げる大事な機会である弔いの儀式は、今後も守ってゆきたいと思うのです」


2020年12月27日

質問「ちかごろ葬儀のやり方がだいぶ変わってきました。どう思いますか?」

回答「葬送法は時と共に変わってゆくものです。でも、守ってゆきたいことはあります」

理由「例えばお墓の形式は、世につれどんどん変化します。
 古来より、土葬が多かったこともあって、個人ごとに埋葬しその塚の上に塔婆や石碑を立てる形が一般的でした。それは明治時代まで踏襲されます。例えば正岡子規のお墓は、真ん中に子規の細い石碑が立ち、その左手にお母さんの細い碑が、右手に妹と郷里より移した先祖を祀る碑と、三本の石碑が並んで立っています。
 その後、大正時代くらいから“○○家の墓”と刻んだひと棹の下に家族が眠る形が流行し、現代に至ります。
 最近は“樹木葬”といって石の代わりに樹を植える形が広まってきましたが、実は大変に古い形がリバイバルしたと見ることもできるのです。奈良時代の律令に“これ以降、塚に樹を植えてはならない”という変てこな法律が出てきます。というのも、日本でも中国でも大昔は樹木葬が一般的だったからです。
 同じく葬送法も変わります。例えば現在の葬儀では棺をお花でいっぱいにする“お花入れ”という儀式を行いますが、それが始まったのが明治時代。先ほどの正岡子規は随筆に書いています、郷里の松山では座棺(座って入る棺)で、中の遺体が動かぬようおが屑を入れた紙袋をすき間に詰めたと。ところが東京に出て友人の葬儀に立ち会ってみると、おが屑の代わりに樒を詰めた紙袋だった。さすが東京はあか抜けたことをする、と感心しています。それから二十年ほどたって夏目漱石が知人の葬儀に出た際は、寝棺(現代の寝て収まる棺)の中に菊を供えたとあります。そして「有る程の菊投げ入れよ棺の中」と詠みました。西洋の風習を真似たお花入れのはしりですね。
 ただそれとても、五万年ほど遡ったネアンデルタール人は埋葬した遺体の脇に花を供えていたそうですから、古い古い形が復活したと見ることもできなくはないでしょう。
 このように葬送法は時と共に変わります。でも変えずに守りたいこともある。そのお話はまた次回」


2020年12月21日

質問「数え年って“満年齢に、お母さんのお腹の中にいた一年を足したもの”だって聞きました。本当ですか?」

回答「明らかな間違いです!」

理由「日本に満年齢が入ってきたのは明治時代、欧米で用いていた太陽暦と共にです。
ということは、千年以上前から使ってきた数え年の中に、明治になって入って来た満年齢の概念が入っているなんておかしいですよね? 満年齢に一歳を足すだなんて。
満年齢は誕生日ごとに歳を取りますが、日本で使っていた太陰太陽暦ではその誕生日というやつが厄介な存在だったのです。
太陰太陽暦は約三年に一度は閏月がありますし、何月が大の月(30日)で小の月(29日)なのかも毎年ランダムに変わりました。だから月末に生まれた人などは、いったい何年後に誕生日が来るのやら、それすらおぼつかなかった。そんなわけであまり誕生日を意識することがなく、新年を迎える際みんな一緒に歳を取るというイメージでした。そういう暦の制約と、モノは一からかぞえ始めるという慣習から(リンゴがゼロ個あるとは言わない。それは無いと言う。だから生まれているのにゼロ歳なんて道理に合わないという考え)必然的に数え年になったというわけです。
数え年とは、その人が過ごした年を全部数えます。令和元年12月31日の生まれなら、過ごしたのがたとえ一日だとしても令和元年からカウントします。
あぁそうでした、亡くなった方の数え年ですが、満年齢と比較した場合“亡くなった年に誕生日が過ぎている方は満年齢+一年(満年齢ではゼロ歳としてかぞえない生まれた年を加える)”となり“亡くなった年に誕生日が来ていない方は満年齢+二年(生まれた年と、満年齢では誕生日が来ていないということで切り捨ててしまう亡くなった年を加える)”となります」