真言宗豊山派安養院(栃木県栃木市の寺院)

2021年2月28日

ぎっくり腰になりました。健康のために始めたラジオ体操中。しかも第一で。せめて第二ならまだ格好がついたのに。
痛くて寝返りがうてない。朝になっても起き上がれない。壁を伝い、杖をつきつき整形外科へ行きました。でも全く良くならない。そりゃそうです、痛み止めと湿布じゃこの激痛に太刀打ちできるはずありません。
こりゃひと月は寝たきりかと、泣き伏していたところに朗報が。一発で治る薬があると。半信半疑でしたがこちらは藁にもすがる思いです。落ち武者のような歩みで件のクリニックに出向きました。で……本当に治ってしまったのです。
治療はハイドロ(筋膜)リリースという注射を打っただけ。なんでも痛みは、傷ついた組織から出たネバネバ物質で筋肉が癒着してしまうから起こるのだとか。そこで患部に生理食塩水もしくは乳酸リンゲル液を注射して洗い流すイメージなんだそうです。
ウソではなく、注射したとたんパッと立ち上がれました。即効性があり、しかも生理食塩水なので副作用の心配もない、さらに一本五百円くらいと値段も安い。これは画期的治療法です。
肩こり、寝違え、むちうち、腱鞘炎、ヘルニアなどの神経痛にお悩みの方はお試しになることをお勧めします。

※痛みは劇的に改善しますが、ストレスなく歩けるようになるには一週間から十日はみておいて下さい。


2021年2月21日

質問「お塔婆って何ですか? どんな意味があって建てるのですか? の続き」

回答「前回は柱(塔婆)を建てるという行為に込められた意味についてお話しましたが、今回はお塔婆のお塔婆たるゆえん、板に入るギザギザの切れこみの意味についてお話します。
ちなみに塔婆はその切れこみによって、下から四角形、丸、三角形、半月、宝珠と、串に刺したおでんのような形をしています。

ご存知のように、卒塔婆とは仏塔を意味するストゥーパの音写です。
仏塔の起源は、遊行に出たブッダの代わりにその髪を納めて拝んだ塔だと言われます。そして涅槃後は遺骨を納めた塔が造られました。そのように塔とは空間的または時間的な隔たりを飛び越えてブッダにまみえるための装置であって、墓標というよりブッダそのものでした。
やがて『涅槃経』が成立するころになると“自らが仏塔のようになるべきだ”と説かれるようになります。そうやって舎利を拝むことから内なる仏性を発現させるための実践重視へと意識が変化するのにともなって、仏塔は修行のシンボルとなっていったのです。

一方、真言宗を開いた空海は“多宝塔”なるものを創出します。
多宝塔とは宇宙を意味する五輪を立体的に表現すると同時に、宇宙と一になる悟りに到った人を表した塔です。元になったのは、密教経典『大日経』の“自らが五輪となることを観想せよ”という実践行ですが、五輪と悟りの姿と仏塔とを結びつけるという発想は空海のオリジナルでした。
そして多宝塔を石塔に写したのが五輪塔です。ちなみに多宝塔と五輪塔との相似ですが、一階部分が方形、亀腹と二階円筒部分が円形、屋根が三角形、二階屋根下の組物が半月形、相輪が宝珠形にあたります。
やがて鎌倉時代以降から、悟りのシンボルであった五輪塔が墓標として建立されるようになります。更にそれを板の平面におきかえたのが五輪塔婆なのです。

というわけで、インドでも日本でも仏塔とは心を鍛える実践修行のシンボルでした。
真言宗中興の祖である覚鑁は、五輪塔に行者の身体を重ね合わせた図を示しています。それをもとに塔婆を読み解いてみましょう。
四角形は五輪では地にあたり、身体では結跏趺坐を組んだ行者の脚に相当します。まるで大地のように揺るがぬ禅定です。外一切善悪の境界において心念おこらざるを坐、内自性を見て動ぜざるを禅となす。
丸形は五輪では水にあたり、身体では布袋和尚のような太鼓腹にあたります。呵呵大笑が理知の壁を溶かして、自我や正誤と分けごとをする癖を和らげる。そんな澄んで平らかな心には相手の月(慈心)が映りまたそこには自分の月も重なって見える、水月の道場が現れてくる。
三角形は五輪では火にあたり、身体では燃えるような発心を抱く胸にあたります。修業には常に初心で臨む。
半月は五輪では風にあたり、身体では何事もどこふく風の涼やかな顔。風吹けども動ぜず天辺の月とばかりに、毀誉褒貶に惑わされないこと。
宝珠は五輪では空にあたり、身体では空っぽの頭にあたります。考えること、分けようとする思いが止む時、廓然無聖、秋の空のように澄んでどこまでも高く広々とした境地に至る。
このような小難しい理屈は忘れても、涼やかな顔、水のような腹とイメージすることは容易いでしょう。そんな身体を目指して修行する誓いであり手引きとなるのが、お塔婆なのです」


2021年2月14日

質問「お塔婆ってどんな意味があって、何のために建てるのですか?」


回答「お塔婆って何ですか?と質問されて、故人への手紙ですと答えるお坊さんが多いと聞きます。
たしかにお塔婆は表に宛名(戒名)があって裏には差出人名(施主名)がある、形式は手紙と同じです。うまい回答を考えたなと思うものの、それだけで終わらせてしまってはもったいない気がします。お塔婆には手紙的要素もありますが、実践修行の誓い及び手引きという意味合いも大きいのですから。
では、手紙的側面からお話しましょう。

塔婆は木の板棒ですから、柱の一種と見ることができます。だから塔婆を建てるとは、柱を建てるという行為と重なるのです。
そして古来より神事で重要なのは、柱を建てることでした。
諏訪大社のお祭り“オンバシラ”がまさにそれ。氏子たちが柱にまたがって急な坂を滑り落ちる“木落とし”が見せ場となっていますが、祭りの核心はそうやって長い距離を引いてきた柱を社の四方に建てることなのです。
あるいは伊勢神宮の本殿の床下には“心の御柱”という小さな柱が建っていると言われます。それこそが真の御神体で、表に見えている鏡や幣以上に大切なのだと。
柱は“はし”に通じます。橋が端と端をつなぐように社に建てた柱には天と地を、人と神をつなぐ働きが期待されるのです。
同じく塔婆を建てるという行為にはこの世と浄土、施主と故人をつなぐという意味が込められていると考えられます。確かにそれをして手紙と捉えることもできるでしょう。
ただ……お塔婆はただの板棒ではありませんよね。上部にギザギザと妙な切れ込みが入っています。あれこそがお塔婆のお塔婆たる所以なのです。という訳で、もう一つの意味については次回お話ししましょう。


2021年2月7日

安養院は三方を竹林に囲まれています。さらさらと竹の葉をゆらしながら吹き抜ける風ほど清々しいものはない。

などと風流にひたってばかりもいられません。この孟宗竹、切っても切っても生えてくる。本当に苦労しているのです。特に斜面地は厄介です。

もし、みなさんのお住まいの周りに放置竹林があったら地域で話し合ってすぐに伐採管理して下さい。竹は一度、管理を怠ると手がつけられなくなります。
どこを見ても入りこんでいない山はないというくらいはびこっている孟宗竹ですが、意外と歴史が浅いことに驚きます。
江戸中後期の風俗を記した『塵塚談』には「孟宗竹。近頃は江戸に大なる竹藪、諸所に出来たり。明和のころは、皆ひと珍しく思いし竹にてありしなり」とあります。つまりここ二百年ほどで全国を席巻した、恐ろしいまでの繁殖力を持つ植物なのです。
このままでは日本中が孟宗竹に占領されてしまいます。なんとかしなければ。


2021年1月31日

質問「墓石の脇に、埋葬者の氏名や戒名を彫った石が建っています。
   そこには“墓誌”または“墓碑”と銘打たれていますが、どう違うのですか?」

回答「墓碑が正しい名称で、墓誌と彫るのは間違いです」

理由「墓誌というのは、それが誰でどんな人物だったかを記し遺体と共に埋める石です。あの世へ持ってゆく紹介状ですね。地下に埋めるので持ち去られたり壊されたりする心配がないかわり、誰も読むことができないのが難点。
そこで皆が読めるよう地上に建てたのが墓碑なのです。だから墓石の脇に建てるなら墓碑と刻まねばならず、墓誌と刻んだなら埋めなければいけません。
土中に眠り続ける墓誌は、のちのち貴重な資料となります。たとえば2004年に西安近郊で古い墓が見つかった際、埋葬者が1300年前に36歳で亡くなった日本人留学生・井真成であることがわかったのは墓誌が一緒に掘り出されたからです。あるいは、奈良で発掘された太安万侶の墓誌によって『古事記』序文の偽書疑惑が晴れた例もあります。
そんな風にけっこう役に立つ墓誌ですが、あらゆることを中国に倣う時代が過ぎると日本ではほとんど作られなくなりました。でも墓碑はちょいちょい建てられ、そこに銘が刻まれることもしばしばでした。銘とは故人をほめたたえる韻文で、銘までついているものを墓碑銘・墓誌銘と呼びます。
銘を作ることを“銘を撰す”と言って、有名人に依頼するケースも多く見られます。夏目漱石の『吾輩は猫である』には、苦沙弥先生が親友だった曽呂崎(天然居士)の墓碑銘に頭を悩ますシーンがあります。それは初め「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食い、鼻汁を垂らす人である」だったものが推敲され「空間に生まれ、空間を究め、空間に死す。空たり間たり天然居士あぁ」に落ち着く。このように銘は他人が書きます。そりゃそうです、本人は亡くなっているのですから。
でも正岡子規は生前、自分で作っておきました。銘の最後は「……享年三十□月給四十円」と結ばれます。彼が心血を注いだ俳句研究については一切ふれていませんが、西洋のリアリズムを取り入れて江戸俳諧と決別したという短絡的な解釈をその滑稽味においてしりぞけ、病に苦しみながらも“平気で生きた”生涯が淡々とした語りに滲む名文です」