2023年6月3日

日本で使われている漢字には、音(おん)と訓という二つの読みがあります。「犬」という字でいうと、ケンが音(おん)で、イヌが訓です。
音(おん)は、中国から入ってきた発音。訓は、その漢字にあてはまる日本語のオトですね。

そこで戒名ですが、戒名は音(おん)で発音します。
と言うものの、お墓やお位牌に刻まれた戒名、なんと読んだらよいのか迷ったことはありませんか?
たとえば「明成令山信士」なんて戒名があるとします。難しい字はひとつもないのに、その読みかたは「ミョウ・メイ」×「ジョウ・セイ」×「リョウ・レイ」×「セン・サン」の組み合わせなので……正確にはわかりませんが、とにかくたくさんあるのです。

このように日本で使われる漢字には、複数の音(おん)を持つものが多いことは皆さんご存知かと思われます。
では、なぜ複数あるのでしょう?
中国から入ってきた時代がちがうからです。
奈良時代までに入ってきた発音が“呉音”です。ほとんどの漢字にある読みで、「行」という字ならコウがそれにあたります。
奈良時代から平安時代にかけて、遣唐使たちが長安で学んだ中古漢語が“漢音”。すべての漢字にあって、「行」でいうとギョウ。
鎌倉時代から江戸時代にかけて入った“唐宋音”を持つ漢字は、ごくわずかです。「行脚」でアンと読ませるなどです。
そして“現代音”もありますが、「炒飯」のチャーとか「餃子」のギョウザなど数個です。
というわけで、呉音か漢音か、どちらで読むのか、それが問題なのです。

そもそも、仏教語は呉音で発音するという原則があります。
「遺言」は、呉音なら「ユイゴン」で漢音なら「イゲン」ですが、仏教関連のことばは呉音で「遺教経(ユイキョウギョウ)」だし「御遺告(ゴユイゴウ)」だし「遺骨(ユイコツ)」なのです。現代では、遺骨はイコツと発音しますが、昔はユイコツでした。たとえば『平家物語』では、鬼界ケ島に流された俊寛が亡くなっていたと知った召使の有王は「俊寛僧都の遺骨(ユイコツ)を頸にかけ、高野へのぼり」と演じられます。
ほかにも、久遠はキュウエンではなくクオンだし、帝釈天はテイシャクではなくタイだし、須弥山はシュミサンではなくセンです。

でもそれが、こと戒名となると、あてはまらない例もあるから厄介なのです。
まあ、呉音で読むことが多いのは、たしかなのですが。
臨済宗を開いた栄西は、エイセイではなくヨウサイ。浄土宗の祖師・法然は、ホウゼンではなくホウネン。栂ノ尾高山寺の明恵は、アキエ……いやメイケイではなくミョウエ。チベットに潜入した河口慧海は、ケイカイではなくエカイ。
ところが、弘法大師の師匠の恵果は、エカではなくて漢音のケイカ。芥川賞作家の玄侑宗久さんも、ソウクではなく漢音でソウキュウ。と、漢音派もいる。

そこで、高野山管長を務めた松長有慶さんの著書を参考に、過去の真言宗の僧侶名の読みを調べてみました。
空海亡き後の高野山をまかされた真然は、シンゼンで漢音。
おなじく東寺をまかされたのが実恵で、ジチエと呉音。
のちに弘法大師の諱号を下賜されたことを報告するため、入定なさった大師のもとを訪れた観賢のお供をした淳祐は、シュンニュウと漢音(ニュウの読みは慣用音か?)。
そして、平安末期に高野の復興に努めた行明は、ギョウミョウと漢音+呉音なのに、おなじころ中院を再興して、今につづく中院流を開いた明算は、メイザンと漢音なのです。

というわけで、戒名の読みは、それを付けた和尚にしかわからない、というのが真相でした。
なので、戒名授与の際は、読みかたも明記しなければならないのです。


2023年5月19日

わたしたちが暮らす社会は、どんどん複雑になって、日に日に大事なところが見えにくくなってゆきます。
とうに社会インフラとなっているインターネット、その核心であるアルゴリズムときたら、一ミリも理解できないし、ほぼ毎日つかう車や家電製品を制御しているICチップの中身だって、さっぱりわからない。社会を支える肝心かなめの部分は、ブラックボックスになってしまいました。
それでも、それぞれの専門家がちゃんとやってくれているのだろう、という期待と思いこみで世の中はまわっているのだけれど、どうもそうじゃないらしいぞと、首をひねらざるをえない出来事が頻発しています。原発事故しかり、コロナ対応しかり、最近、明るみになったマイナンバーの入力ミスは、ここまでダメだったの? と、皆に衝撃を与えました。ただし、日本だけがダメなわけではなく、旧Facebook社やTwitter社など巨大テック企業の、あまりの身勝手さ、無責任さを見るにつけ、それが人類共通の課題であることがわかります。
まあ、そりゃそうです。ものごとが見えなくなると、どうしたって、秘密を握っている専門家が権威をふりかざして威張るようになり、いいかげんなふるまい、利己的なふるまいをするようになってしまう、それが人間の性なのです。
宗教だって例外ではありません。宗教改革や分派という運動は、そうしたものへの反発として起こるのですから。

だから、わたしも常に心がけるよう肝に銘じます。けして威張らないこと、誠実であること、そして相手に見えるよう丁寧に説明すること。
というわけで、今回は皆様がお上げくださるお塔婆には、何が書いてあるのかを明らかにします。みんながお塔婆を読めて、意味がわかるように。
梵字については、ネットにも出ているので省略して、日本語の部分にしぼって解説します。


真言宗の一般的なお塔婆は、表に「爰寶塔者為○○信士○○回忌菩提也」と書きます。
文字を文節ごとに区切って、意味を説明します。
「爰 → ここ」  あまり見ない字ですが“ここ”という宣言です。
「寶塔 → 仏塔」  塔は、ブッダにまみえる場から修行装置そして供養装置へと変遷。
「者 → ~は」  のちほど説明します。
「為 → ため」  そのままの意味です。
「○○信士○○回忌 → 供養の内容」  〃
「菩提 → 悟り・冥福」  〃
「也 → です」  〃

皆さんがひっかかりを感じるのは、「者」をなぜ「は」と読むのか、ではないでしょうか。
そこで問題です。
お蕎麦屋さんの暖簾に、妙な文字が書かれています(フォントがないので、実物は省略)。
あれは「きそば」と読みますが、なぜこんな変てこりんな文字なのでしょう?
正解は、各々の漢字をくずした変体仮名だからです。
「そ ← 楚」
「ば ← 者+˝」
では、そもそも、どうして楚をソに、者をハにあてたのか?

かつて日本には、文字がありませんでした。もちろん、日本語はありましたが、それを表記する文字はなかったのです。そこで、漢字の音や意味を日本語にあてはめる万葉仮名を編み出しました。
例として、『万葉集』の柿本人麻呂の歌をあげます。
読みは「おおきみはかみにしませばあまくもの……」で、表記は「皇者神二四座者天雲之……」とされました。で、対応は、「皇(おおきみ)」「者(は)」「神(かみ)」「二(に)」「四(し)」「座(ませ)」「者(ば)」「天(あま)」「雲(くも)」「之(の)」です。
このように、万葉仮名では、「者」は「は」と読みます。なお、日本語は濁音字を作らなかったので、ハとバは同じ表記です。それをお塔婆や、お蕎麦屋の暖簾に使ったというわけです。

余談になりますが、歌川広重『木曽海道六十九次 関ケ原』には江戸後期の茶店が、そして『江戸府内 絵本風俗往来』には幕末の蕎麦屋が描かれています。それぞれの看板表記は「そばきり」と「きそば」と「生蕎麦」ですから、おそらく変体仮名の暖簾は、戦後あたりから始って、一気に広まったのではないかと推測されます。


2022年12月13日

笑福亭仁鶴師匠の歌に『大発見やァ!』という名曲がありましたが、私も思わずそう叫んでしまったほどの発見があったのでご報告いたします。
で、皆さんに質問です「南禅寺は、なぜ南禅寺と言うのでしょうか?」。
いやいや、「知るか!」なんておっしゃらずに考えて下さい。私は長年、首をひねってきたんですから。だって京都五山の中で、南禅寺はたいして南ではないんですもん。天龍寺や相国寺よりは南東に位置するけれど、建仁寺よりは北だし、南の禅寺と呼ぶなら、南都奈良へ下るとば口にある東福寺や万寿寺の方がふさわしいはず。ねっ難問でしょう?
でも、ようやく解決したんです。
南禅寺の北には永観堂というお寺があります。紅葉の名所かつ見返り阿弥陀仏で有名です。ただし永観堂というのは通称で、正式名称は禅林寺なんです。そしてその昔、禅林寺の寺領は広大で、いまの南禅寺の境内地まで含まれていたと言われます。
やがてそこに南禅寺が建立されると、禅林寺を(北)禅林寺、南禅寺を南禅林寺と呼ぶようになり、それが縮まって南禅寺となったのだとか。
いやぁ長年の疑問が解決するって、刺さっていた小骨がとれたようでほんとに気持ちが良いなあ。というわけで、さっそく知り合いに話してみたのですが、さほど興味も示さず感心もしないどころか、こう返して来たのです。「じゃあ東寺はなんで東寺なの? 全然、東じゃないのに」と。ぐっ……。
また喉に小骨が刺さった気がします。


2022年12月11日

臨済宗の大本山である円覚寺は北鎌倉にあって、若き日の漱石が参禅し、開高健のお墓があって、小津安二郎の映画『晩春』内で茶会の会場となった(実際の映像は壽福寺)という、かなりカルチャー度の高いお寺です。
私も幾度となく坐禅会でお世話になりましたが、本当に良いお寺でした。僧堂の雲水さんたちが皆、まじめでひたむきに修行なさっているにもかかわらず、おだやかでおやさしいのです。往々にして修行に没頭すると、悲壮感が漂うほどピリピリして、周囲への配慮が薄れてトゲトゲしくなりがちなのですが、そういう気が全くありません。
ひとえにそれは、管長をお務めになられる横田南嶺老師のご指導のたまものと推察されますが、そのご老師が大変に興味深いお話をなさってらっしゃったのでご紹介いたします。

昨年、横田老師と雲水さんたちは、近藤瞳さんの主催する『地球46億年を感じる旅』というイベントに参加なさいました。それは4.6キロの道のりを地球が誕生してからこれまでに見立てて歩くというもので、わずか一歩が50万年に当たるのだとか。ただ46億年だの50万年だの数字を並べてもピンとこないので、実際に歩いて体験しようというのです。
さあ旅の始まりです。一歩踏み出します。生まれたての地球はマグマに覆われた熱々の球ですから、1000度を超える地面に足を置くと思って下さい。
200メートル進みました。誕生から2億年たってようやく冷えた地球に海ができます。
スタートから800メートル。8億年で海に動きが出ました。微生物が生まれたのです。生命の誕生です。
そのまま歩き続け、中間までもう少しという2200メートル地点まで来ました。新しく生まれた光合成を行うバクテリアが、さかんに酸素を吐き出し始めます。さらにその酸素を元に、有害な太陽光を防いでくれるオゾン層が出来あがります。
気がつけば既に4キロ歩いています。そして4060メートル地点でようやくアンモナイトや三葉虫など複雑な構造を持つ生物が生まれます。いわゆるカンブリア紀の生命大爆発と呼ばれる進化が起こったのです。
4200メートルで、陸に上がって生活を始める生物が出ます。
4250メートル。マラソンならばもう競技場に入っています。大森林に覆われた地球に昆虫がうじゃうじゃ蠢くようになります。
4370メートル。残りわずか230メートルのところでようやく哺乳類が生まれます。
そして最後の一歩が弧を描き着地する寸前、ゴールの20㎝手前でようやく人類・原始人が生まれるのです。
そんな長い長い時間をたどる体験を終えた横田老師はこう思われた、「今を生きることが、自分が存在することが、どれだけ奇跡に溢れているのか、それを実感できた」と。そして「我々は、いのちの長さを何十年と数えるが、実際には四十六億年の歩みの上の数十年なのだ」と。

そこで老師は、仏教の示す「劫」という時間について説かれます。
劫とはどれくらいの長さかというと、ほぼ永遠と言っても良い。「未来永劫」と言うように、それは終わりのないくらい長い歳月で、仏教が考える時間の中で最も長い単位が「劫」、最も短いのが「刹那」なのです。
余談ながら、「劫」はサンスクリット語の「カルパ」の音写です。カルパであってカルパスではない。カルパスはサラミのおつまみなので。
また「劫」とは、ざっと43億2千万年くらいだとも言われます。地球が誕生したのが46億年前ですから、かなり近い長さです。
そしてご老師は、「仏教がなぜこのような極めて長い時間を示したのか」という問いに答えて「それは皆のいのちの長さを表しているのだ」とおっしゃいました。
たしかに、各々のいのちの長さを四十六億年の歩みの上の数十年だと考えると、それが本当に尊いものだということが実感されます。


2022年10月22日

 子どものころは一日中、テレビばかり見ていました。70年代のテレビは本当に面白かったのです。
 今はなき二時間サスペンスも、母親が好きだったので、見るとはなしに見ておりました。すると劇中、刑事がよく「犯人は犯行現場に戻ってくる」と言うんです。で、本当に戻って来たり、現場の写真に写りこんでいたりして捕まってしまう。それを見るたび、そんなことある? と疑問に思ったものです。だって誰が考えてもリスクが大きすぎますもん、戻るなんて。
 ところが私は近ごろ、しきりに拝むという行為について考えるようになりました。僧侶にとって礼拝は原点ですから、出家してかれこれ四半世紀、出発点に立ち返る時期がきたのかと思ったりして、なんとなく犯人の気持ちがわかりかけた今日このごろです。
 そんな中、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の朗読を耳にして、この詩もまた拝むという視点から味わうことができると気づいたのです。
 あの詩には賢治の願いが込められています。要約すると「体は頑健であって欲しいが、あとは全く世の中の役に立たない人でいたい」となります。詠んだのは亡くなる約一年前で、すでに病に倒れ遺書までしたためたあとですから、丈夫な体が欲しいという思いが切実だったのと同じく、役立たずでいたいというのも心からの願いだったと推察できます。
「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」
 この詩自体は教科書にものっているので皆が知っていますが、賢治がなりたがったデクノボーにモデルがいたことは、それほど知られていないのかもしれません。

 賢治は熱心な仏教者でした。そしてこの詩も仏教の教えが下敷きになっています。
 たとえば詩中の「欲ハナク 決シテ瞋ラズ …… ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」は、仏教が説く“貪瞋痴”という苦しみの元となる三つの毒をふまえたものです。貪はもっともっとと、欲望が際限なくふくらんでゆく心の働き。瞋は思い通りにならないことを憎み、怒りが抑えられない状態。痴は真実が見えず、本当のことを見ようとせず、苦しみを抱えてあてどなく闇をさ迷うこと。賢治はそれら三毒を超克したいと願ったのです。
 そしてデクノボーのモデルは『法華経』の中にある常不軽菩薩ではないかと言われています。どんな菩薩かと言うと、相手の年齢がいくつだろうと、男でも女でも、貴賤貧富の差なく、誰に対しても「あなたを敬います」と礼拝する。でもそれだけしかしない。教えを説くことも、人を助けることも、読経も瞑想もせず、ただひたすら礼拝する。そして自分をバカにする人も、眉をひそめる人も拝むので、神経を逆撫でされた相手に棒でぶたれたりする。するとツーっと逃げて、また礼拝する。向こうはよけい腹をたて、石をぶつけてくる。すると石が届かないところまで逃げて、また礼拝する。相手は地団太踏んで「この役立たずのデクノボーっ!」と罵る。と、声が聞こえないところまで離れて、また拝むのです。
そして拝むたびに語りかけます、「私はあなたを敬います。皆があなたを悪く言ったとしても拝みます。あなたが私を傷つけたとしても拝みます。あなたが絶望し、何も信じられなくても拝みます。なぜなら、あなたは今、仏となる道を歩まれているからです」と。

 賢治がなりたかったデクノボーとは、いったいなんだったのでしょう?
 世の中の役にたたないということは、逆に言えば世間的に役に立つ様々な力、たとえば権力や財力や腕力や能力などを持っていない、持たない、拠り所にしないというです。では、何を拠り所にして生きようというのか? それを考える際、良い補助線となってくれるのが茶の湯です。
 茶の湯の祖・村田珠光は、お茶の極意は「痩せて冷えて枯れた」ものの中に美を見出すことだと言いました。随分とひねくれたことを言いますよね。だって、みんな痩せたものより豊かなものを好むんですから。冷えたものより温かなものを、枯れたものより生命力の強いものに惹かれる。そう、力が欲しいのです。
 でも、考えてみて下さい。薫風にそよぐ新緑はやがて木枯らしに散り、温かなお茶はいつの間にか冷めて渋くなり、月は欠け、人は老いる。なぜなら、あらゆるものの本質は弱くて脆くてはかないからです。ゆえにうつろう。だからそのうつろいそのものを愛でようというのです。満開の桜や澄んだ空に登る満月といった一部ではなく痩せ冷え枯れまでふくめた全体、自然という大きなものをまるごと味わう。そう、それが自然ではないかと。それが茶の湯なんだと。

 デクノボーも同じではないかと思うのです。
 拝むというのは、腰を折るように自分というものを小さく折り畳んでしまい、手を合わせるように拝む対象と心を合わせひとつになることです。すると向こうに大きなものを感じる。そして自分はその大きなものと常につながっていること、その一部であること、そのものであることに気づく。そうした大きなものを仏と呼ぶのではないでしょうか。
 自分を傷つける相手を拝むと、相手が大きなものと一体化して、自分もそこに重なる。だからみんなが一緒に仏となる道を歩んでいると思える。
 ああしたいこうしたいだけではなく、全体を受け容れる。

 この社会において自分の思い通りに生きよう、偏った見方という注意書きは必要ですが、良い生活より良い生活をしようとするならば、様々な力が必要です。いつ頃からか書籍のタイトルに『聞く力』だの『悩む力』だの『断る力』だの、中には『段取り力』や『老人力』なんてのもあるほど、やたら力という言葉が付くようになりました。それは国力が衰えつつある日本において、皆が不安をふり払おうと力を求めていることのあらわれなのかもしれません。
 ちなみに近代資本主義と近代組織の原型となったアメリカ・マサチューセッツ社会の基本デザインは「純潔・力・自由(ピュリティ・パワー・リバティ)」でした。他の権力からの自由と信仰の純潔を守るには強い力がいる、というわけです。
 でも、それでは次々とわき起こってくる不安に抗えないこともまた事実です。たとえば、強大な権力を手にした独裁者が疑心暗鬼に駆られて粛清を繰り返し、権力の座にしがみつき、孤独で怯えたまま亡くなることがよくあるように。不安は、権力や財力や腕力ではおさえこめないのです。
 だから力だけを求め、すがるのではなく、大きなものを拠り所とすることも大事なのだと思います。 私もまだまだ様々な不安や苦しみを克服することはできません。でもきっと常不軽菩薩がそうなさったように礼拝を繰り返すことで、大きなものをありありと感じることができるようになると信じて今日も手を合わせます。