【出家者の食事、その歴史➀】


お寺で食される精進料理は、生臭ものを避けることからヴィーガン(肉、魚、卵、乳製品をとらない)の一種だと紹介されることもある。
確かに見た目は同じだ。でも根底にある思想はどうだろう。重なるのかそれともズレがあるのか、考えてみたい。

まず仏教教団における食事の変遷を追ってみよう。
ブッダの時代、仏教教団では何を食べるかは重視されなかった。
食事に関する決まりは二つで、托鉢で施された物しか口にしてはいけない、午前中しか食べてはいけないというもの。
たった二つとは言え、施された物しか口にしないというのは重い決断だ。世間から施しを与える価値がないと判断されたら生きてゆけないところまで、自分たちを追いこんでいる。
そんな状況では選り好みする余裕はない。肉をさし出されれば肉を、魚を施されれば魚をと、なんでもありがたく頂いたのである。
肉食に関して、初期経典『スッタニパータ』にこんなやりとりがある。肉を食べるブッダの弟子に、異教徒が疑問を投げかけるのだ。
(問い)おいしい鶏肉と米飯を味わって食べながら、あなたは「私はなまぐさ者を
    ゆるさない」と言う。あなたは、なにを「なまぐさ」だと考えるのですか?
(答え)生き物を殺すこと、盗むこと、嘘をつくこと、他人の妻に近づくこと、
    これをなまぐさと呼ぶ。肉食することがなまぐさいのではない。

出家者にとって殺生は最大の罪だ。だから虫を殺さないよう布で濾した水を飲むとか、自分に施すために殺したと聞いた肉は食べてはいけないとか、食にまつわる殺生に関わることを避けようとした。でも、肉や魚を食べること自体が罪だという考えはなかったのである。


2021年4月11日

安養院はほんとに小さくて貧しいお寺ですが、なんと、少し離れた場所に“山林”を所有しているのです。
まあ所有していると言っても、寺から離れていますし利用予定もないので、現地がどこなのか確認もせぬまま放置してきました。
でも、このコロナでアウトドアに目覚め自分専用のキャンプ場として山林を購入なさる方もいらっしゃると耳にして、にわかに興味が湧いたのでございます。正直に申せば、下心を持ちました。
で、古株のお檀家様に頼んで案内してもらいました。現地は山裾から少し上った場所で、広さは150坪ほど、整地してあって平らです。ただ平らは平らなのですが、天高く梢を伸ばした樹木が生い茂り、荒れ放題に荒れております。
そのどうにもなりそうもない藪を眺めて、「……なるほど」とひとりごち、目を伏せて踵を返そうとしたところ、一人の老婆が近寄って来るではありませんか。
聞けば、すぐ下の家に住んでいらっしゃって、屋根に覆いかぶさるように枝を伸ばした大木を見上げては、台風で折れて落ちてきやしないか、地震で崩れた崖もろとも樹に押し潰されるのではないかと日々、気をもんでいらっしゃるとのこと。
空を覆う樹々を見上げてまた、「……なるほど」と呟きます。
こうなったら仕方ありません。早速、業者に頼んで見積もり出してもらいました。
驚きました。樹木の伐採には、こんなにもお金がかかるものなのかと。重機を入れる道をつけ、樹をクレーンで吊って、寸断してゆきます。その費用ときたら数十万円です。
とはいえ、怯えるお婆さんをこのままにはしておけない。泣く泣く伐採をお願いした次第です。お陰様できれいな更地となりました。

これを機に、不要な山林の処分方法を調べてみたので参考までに載せておきます。
まず思い浮かんだのが、国や地方自治体に寄付してはという考え。財産が増えるのだからもろ手を挙げて歓迎されるものと思いきや、国だって市だって利用価値のないものを貰ったらりしないとのこと。そりゃそうですよ。今回のように出費ばかりかさむなんてことになりかねない訳ですから。
では売却は出来ないのか。山林買い取り業者のホームページで確認すると、もっと広い面積がないとお話にならないんだそうです。しかも材木になる樹が生えていたり、太陽光発電用地にできそうだったりと、何かウリがないと。こんな猫の額ほどの山では、とてもとても。
ならば独りキャンプ用地としてキャンパーに売るというのはどうか。それも炊事に便利な川が流れているなどの条件が整っていないと厳しいとのこと。なによりも自然を満喫するのが目的ですから、真下に民家の灯りが見える場所ではねえ。

今後、跡を継ぐ人がおらず廃寺になるお寺がたくさん出ると言われます。そうなれば、こうして放置された地所や境内地の問題だけでなく、伽藍そのものが危険な老朽家屋となってしまうところも現れるでしょう。そうなる前にどう処分してゆくのか、それとも再建するのか、住職の責任が問われています。

 


2021年4月3日

【正しい食事法】

残念ながら、政府主導で進められた食事作法改善運動は、まちがっていたと言わざるを得ない。益よりも害のほうが、はるかに大きくなってしまったのだから。だまって食べることがあたりまえの時代には、ひとりで食事することになんの気兼ねもなかった。だがこの百二十年にわたるすりこみによって、みんなの頭に「食事は楽しく会話しながら食べなければならない」という観念がうえつけられてしまった。おかげで、ひとりで食事することが悪いことのようになってしまったのである。

もう一度言おう、私たちの先祖は六百年間ずっと黙って物を食べてきたのである。そして、それにはちゃんと意味があった。食材と、料理と、きちんと向き合って食べるという意味だ。これ以上、真摯に食と向き合う姿勢はない。おそらくそうした態度こそが、食事全般に対して「とことん考えぬく」という和食の伝統につながったのであろう。
実は、だまって食べる行為には仏道修行の側面もあることをご存知だろうか。

妄想は、苦しみを生む大きな原因だ。心が「いま/ここ」という現実から離れてしまい、連鎖的に想像を膨らませるのが妄想。「いま/ここ」を離れて未来へ飛んで行けば「不安」という苦しみが、過去へ飛んで行けば「後悔」という苦しみが生まれる。逆に「いま/ここ」にだけ心を置けば、自らの妄想で自らを苦しめてしまうことはなくなる。
でも、たとえその理屈がわかっても、どこかへ飛んで行こうとする心を制御することは至難の技。だからブッダはこう言ったのだ。

   修行僧たちよ。出て行く時も戻る時も、前を見る時も後ろを見る時も、腕を曲げる
   時も伸ばす時も、よく気をつけている。
   食し飲み咬み味わう時も、よく気をつけている。
   大小便をするときも、よく気をつけている。
   行き、住し、坐し、眠り、目覚め、語り、沈黙している時にも、よく気をつけている。
   修行僧はこのように実によく気をつけているのである(『大パリニッバーナ経』より)

この「気をつける」というのは、一つ一つの動作を注意深く、そして正しく行うことによって、不安定な心を「いま/ここ」という現実にあり続ける体に寄り添わせておくことにほかならない。
たとえば、テレビを見ながら食べる、会話をしながら食べるとしよう。すると心はテレビの方へ行ったり、会話の内容に行ってしまう。たしかめてほしいのだが、会話をしながら食べると十回も噛まないうちに飲みこんでしまう。食事から心が離れている証拠だ。
そこで坊さんが実践する正しい食べ方をお教えしよう。食べ物をひと口入れたら箸を置き、手は膝の上に置いて噛むのである。もちろん黙って噛む。すると口の中だけに心を置くことができる。ホウレンソウを食べていても、それが霜の降りた畑に植わっているところ、それを引き抜き、洗い、茹でる、そんな場面が思い浮かぶほど深く味わうことができる。
それは食材を観察するという食べ方だ。「観察」はインドのことばで「ヴィパッサナー」といって、仏道修行の基本なのである。
箸を置いて、だまってよく噛む。まず、どこでなにをどのように噛んでいるかを観察する。そして噛めば噛むほど食材の味が変わって行く過程を観察するのだ。たとえば、日本人が縄文時代から食べつづけてきたクルミなら、最初に感じるのは芳ばしさだ。しばらく噛みつづけると甘みが出てくる。そして二十回を越えると渋みがわっと広がる。そして三十回ですべてが混じりあった複雑な風味となる。

たしかに、みんなで話をしながら食べるというのは、楽しいし、良い食べ方だと私も思う。
でも、ひとりで黙って食べるというのも食事と向きあい、心を「いま/ここ」に置く実践修行をするという意味があって、それはそれで良い食べ方なのである。
その両方があるということを知り、両方を楽しむことができる、それが本当に豊かな文化なのではないだろうか。
事実、先人たちはハレとケと言って、お祭りなどのハレの日はみんなで楽しく食べ、ケである普段の日は黙って食べると、使い分けていたのである。
弧食は恥ずかしいことでも、望ましくないことでもない。もちろんウツになったりもしない。むしろ黙って集中して食べると、三十回でも四十回でも噛めるから、胃腸にかかる負担が軽くなり、かえって長生きできるかもしれない。だから、一日に一食でもかまわない、ひとりでだまって食べてみてほしい。


2021年3月28日

【黙って食べる歴史】

今の“あたりまえの感覚”を手放しに信用してはいけない。それが常識であればあるほど疑ってみた方がよい。
現代の社会通念では、食事は楽しく会話をしながらすることが望ましいとされる。ランチメイト症候群を患うのも東大チームが「弧食はウツになる確率が上がる」という研究をしようと考えたのも、そんな感覚がベースにある。だが、むかしからそうだったわけではない。
八百年前、道元は出家者は「黙って食べる」と決めた。黙ってかみしめながら食べるのは、食材に対する敬意と施しを与え料理を作ってくださった方々への感謝を表現している。よそ見をしながら、あるいはだれかと談笑しながら仏を拝む人がいないのとおなじように、大切なものだからちゃんと向き合うのだ。
昔はいまのように豊かではなかった。一粒の米もおろそかにできない時代がつづいた。だから道元の食事に対する姿勢は共感を呼び、お寺の外でも皆が食材の来歴を考えながら「いただきます」と拝み、きちんと向き合うために黙って食べて、手間と労力を思いやる「ごちそう様」で終えるという食事作法を実践するようになったのだろう。

それが変わったのはいつか?
道元から三百年後、織田信長や豊臣秀吉と間近に接する機会を持った宣教師ルイス・フロイスが、当時の宴席の様子を記録している。
イエズス会の巡察師との面会を終えた関白・秀吉は、食事を用意させたので食べてゆくようにと言って自分は奥に下がってしまう。そこで、宣教師一行は、毛利輝元をはじめとする諸侯たちと食事を共にする。

   間もなく食膳が運ばれた。一人一人の前に四角い膳が置かれる。
   食事をすることも給仕をすることも、きわめて静粛に行われた。
   宴会も終わりになり、食膳が下げられるのに先立って、普段着に着替えた関白があらわ
   れ、巡察師と親しげに話を始めた。関白は種々の質問をし、満面の笑みを作った。
   (『フロイス日本史』より一部抜粋)

戦国の世でも食事は黙って行われていたのだ。特筆すべきは秀吉のふるまいで、聞きたいことが山ほどあったとみえて、膳が下げられるのを待ちきれずにあれこれ質問を始めている。逆に言えば、食事が終るまで待っていたということになる。つまり最高権力者であっても、会話で相手の食事をさまたげないという食事作法を守っていたのである。
またフロイスは、一人一人に膳が置かれたと書いている。いわゆる「銘々膳」と呼ばれる形式だ。
道元は『赴粥飯法』の中で、各自が「鉢単」と呼ばれるランチョンマットのような敷物を用いるよう指示している。それが「ひとりで食べる」ということだ。たとえ大勢でならんで食べたとしても、その結界によって、自分と料理に一対一の関係が生まれるのである。
銘々膳は隅々まで行き渡り、江戸後期に越後と信濃の国境にある秘境・秋山郷を訪ねた鈴木牧之の記録にも、山人家族が各々、栃の木で作った膳で食事をする様子が描かれている。
余談になるが、時代劇でよくテーブルに徳利や小鉢のならぶ小料理屋を見かけるが、あれはありえない。江戸時代の料理屋では、蕎麦屋でも鰻屋でも一杯飲み屋でも、畳に各自の膳や盆を置いて、その上に料理をのせて食べた。
そんな銘々膳と食事中の会話の有無には、深い関係がある。国立民族学博物館の研究グループが、食卓の変遷と食事作法の変化を関連づけた調査を行っている。
明治に入っても銘々膳や箱膳で食事をしていた時代は83%の家庭で、会話厳禁だった。道元の食べ方は六百年後も続いていたのである。
ところが、明治も半ばになると、こんなことを言う人が出てくる。

   食卓上の礼儀は西洋諸国に於て特に重んずる所ろなり、凡そ、彼の国にては、食事の
   間を甚だ楽しき時間となし……面白き談しを為て、互ひに喜び合ふ事と致せば……然る
   に我国にては、元来食事の際に物言ふを禁じ、何事も、ただ厳密に制御して、反って
   窮屈に思ハするの趣きあり。(明治二十年発行『通信女学講義録』より一部抜粋)

事程左様に、明治とは日本人が身も心も西洋人になろうとする運動だったのである。お雇い外国人ベルツの日記には、当時の空気がよく表れている。

   またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと「われわれ
   には歴史はありません。われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しまし
   た。(『ベルツの日記』明治九年十月二十五日より)

ご一新の明治の世を生きる人々には、それまでのすべてが無価値に思えた。そして西洋はきらきらと輝くあこがれだった。だから西洋人の食べ方を目にした人は、これこそが文明的なマナーであって、日本の食事作法は遅れていると卑下してしまったのである。ただ、そのころの西洋が実際にどうだったのか別だが。それは後述するとして、食事作法改善運動は明治の末とうとう学校教育に取り入れられる。当時は「修身」といって、道徳や立ち居振る舞いを教えこむ科目があった。その教科書の「食べ方」の項目を見ると、挿絵入りなので変遷がよくわかる(以下は表真美先生の研究による)。
明治二十五年の『尋常小学校修身』の教科書では、銘々膳での食事風景が描かれている。上座にはいかめしい顔つきの父親が座る。ひげなどはやして、いかにも家父長然とした態度だ。父に見下ろされる形で子どもたちが座っている。父親近くに兄、その次が妹の順だ。二人ともうつむきかげんで、黙ってご飯を口に運んでいる。なんともつまらなそうな食卓である。
ところが明治三十八年の『尋常小学修身書』になると、がらりと変わる。ちゃぶ台をみんなでかこんで座っている。上下関係は曖昧で、父のそばに妹がおり、兄は父親と対面する位置にいる。そしておどろいたことに「今日学校でこんなことがありました」と嬉しそうに話す兄に、「ほう、それは愉快だね」と父親が目を細めて応えている。楽しくにぎやかな食卓に変わっているのである。この「楽しい食卓像」は、大正、昭和、そして戦中まで一貫して掲げられた。
黙って食すことから会話する食事へ、その流れは明治半ばの平等主義者の啓蒙活動に始まり、政府が学校教育に取り入れたことで広まってゆく。
断っておくが、政府は子どもたちのためを思ってそうしたわけではない。国家を構成する最小単位として家族を想定した政府にとって、家族内がばらばらになって統制が取れなくなることが一番こまる。そこで、家族の精神的結びつきを強める手段として食卓を利用しただけのことだ。
そしてそれを可能にしたのが、「ちゃぶ台」の普及という空間的要素と、都市部のサラリーマン家庭に「主婦」が生まれたという人的要素だった。
だが、政府が考える「楽しい食卓」の実現には、けっこう時間がかかった。戦前は、自由に話をすることがゆるされた家庭は37%にとどまる。32%は、それまで通り黙って食べ、残りの家では静かになら良いとか、必要なことなら良いとか、なんらかの制限がついた。半分以上の家では、静かに食事をしていたわけだ。
だが戦後になると教育の定着、高度成長による中流家庭の拡大、テーブルの普及、そしてアメリカのテレビや映画の影響によって「楽しい食卓」は急速に広まる。七十年代には食事中に会話をしない家庭は天然記念物的存在で、黙って物を食うのはそれこそ寺か監獄くらいしかなくなってしまった。もはや会話のない食事は、苦行か懲罰なのである。

ところが、理想の食卓は三十年も続かなかった。生活の個別化が思ってもみないスピードで進んだからだ。一九八二年のNHK特集「こどもたちの食卓/なぜひとりで食べるの」という報道をきっかけに、「弧食」が問題視される時代に入る。
そこでまた政府の出番だ。そんな〝社会統合の失敗〟につながりかねない家族の分裂を見過ごすわけにはいかないとばかりに、新しい教育プログラムを組む。
中央教育審議会は、一九九八年の答申以降何度も「家族一緒の食事の大切さ」を訴えてきた。提言の要点は「子どもの肉体的かつ精神的発育に、食事は大きく影響する。食事に関して中心的役目を担うのは家庭だ。親は、栄養があってバランスの良い食事を与え、食卓で豊かな会話をして子どもたちに安らぎを与えねばならない。そして食を通じて、礼儀作法と多くの人への感謝の心を教えるのだ」といったところ。その前提にあるのが「生活行動の多様化によって、家族が共に食事をし団欒の時を過ごす機会が減少している」という、良き伝統がくずれてしまうことへの危惧なのである。だがそれは、幻想と誤解をもとにした議論だと言わざるをえない。
会話のない食卓に家族に団欒はなかったのだろうか。もちろん、そんなことはない。前述した鈴木牧之の『秋山紀行』に、こんな記述がある。

   秘境・秋山郷を旅する牧之は、寒村には珍しい塗り壁の家を見つけて、ひと夜の宿を
   お願いする。山人は遠慮がちに、「ようこそおいでなさいました。ただ、わが家には
   米がありません。粟飯ときのこ汁でよければ、お出しできないこともありませんが」
   と、答えた。
   牧之は、「いえいえ、私どもは米も味噌も野菜も持っております。本当に宿さえ貸して
   くださればそれでけっこうです」と、上がらせてもらう。
   外見はある程度の家かと思われたが、入るとやはり貧しい。それにひどく寒かった。
   牧之と、案内人として同行した桶屋は、先に食事を始める。鍋に湯を沸かし、鰹節をつ
   かみ入れ、そこに舞茸と味噌漬けを入れる。これが、すこぶる美味かった。白米を炊い
   てもらったら、慣れぬせいかぐじゃぐじゃにしてしまい、ため息をつく。と、そこへ
   「お菜にどうぞ」と、汁椀を出してくれた。里芋と大根の細切りが入った味噌汁で、
   底に小判型の餅のようなものが入っている。あとで聞いたら秋山名物の粉豆腐というも
   のらしいが、硬くてまずくて咽を通らない。
   牧之たちが食事を終ると、炉の向こう側で家族の食事が始まる。まん中に大きなお櫃を
   置いて、そのまわりに家族が輪になる。脇には煮物の鍋が置かれた。
   彼らは大きな椀で、粟と稗とわずかな小豆を入れた飯をうまそうに食う。また牧之が食
   えなかった粉豆腐も、うまいうまいと味わっている。その楽しげな様子は、とても里人
   のおよぶところではない。

当然のことながら、ごはんを食べるというのはそれだけで楽しみなのである。食事中、牧之たちの間に、そして山人家族の間に会話があったのか特に記述はないが、おそらくなかったのだろう。たとえば牧之は、おそろしく不味い豆腐の正体を翌日隣村へ向かう道すがら桶屋に聞いて知る。いまならその場で豆腐をつまみあげて「これなんだろね」と尋ねるにちがいない。いかに当時の人が黙って物を食べたかがこのエピソードからもうかがい知れる。
もちろん団欒もあった。食事のあと、囲炉裏をかこんで会話をしたのだ。おそらく昔の人に意見をもとめたら、食事と団欒を一緒にすませてしまおうという発想は、両方に対して不誠実なのではないかと首をかしげるのではないか。
中教審は「生産者への感謝の心を育てる」と言うが、ろくに味わいもせずに感謝が生まれるだろうか。昔から教師は、ラジオを聞きながら勉強する〝ながら勉強〟はいけないと咎めてきた。意識が分散すると、どちらも等閑になってしまうからだ。なのにおなじ口で、話ながら食べることを推奨するのはおかしいではないか。むしろ子どもたちに食材の知識や生産者の情報を伝えたうえで、黙って味わうことを勧めるべきではないだろうか。

ところで、明治の日本がモデルとした欧米の食卓は、実際にはどうだったのだろう。
なんのことはない、五十歩百歩だったのだ。食卓を囲む団欒が始まったのは十九世紀後半、ビクトリア時代のイギリス中流家庭においてとされる。ところが労働事情、住宅環境、男女差別もあって、新世界アメリカでさえそれが広まることはなかった。アメリカで「楽しい食卓」が実現したのは、戦後それも五十年代に入ってからだった。
ところが日本と同様、すでにそれは崩壊している。たとえ家族そろって食べたとしても、みながテレビの方を向いて食べる、あるいはスマホをいじりながら食べるというのが一般的な食事風景なのだから。アメリカでもフランスでもオーストラリアでも、「家族の食卓の崩壊」を憂える言説があとをたたない。


2021年3月21日

【和食の歴史】

和食は世界に誇れる食文化だと言われる。ところが千年前の日本では「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と得意の絶頂だった藤原道長でも、あまり美味い料理は食べていなかったようだ。
平安貴族は、正月と大臣就任時にお祝いの大宴会を開かなければならなかった。その際には山海の珍味を集め、上等な食器をそろえて、専用の料理所を設けたうえで何日も前から料理を始める。なんと正客には二十八皿、下級役人でさえ十二皿の料理が供されたという記録が残っている。
ただ、いくら品数が豊富で、雲丹に鮑に蟹に雉と豪華食材がならぶと言っても、調理法はきわめて簡素で味はほとんどついていない。各自の膳に塩と酢と醤の小皿が置いてあり、それをふりかけ各自が味つけをして食べたのだ。膳の中心は刺身や膾などの生食で、調理というより食材を美しく切ることが料理だったのである。
実は、そうした意識は現代の料理界にも連綿と受け継がれている。「なぜ割烹料亭では複雑な煮炊きを若手にやらせて、真板さんはただ魚を切るだけのお造りを受けもつのだろう」と疑問に思う人が少なくないが、“割主烹従(刺身が上で煮炊きは下)”は飛鳥時代からの伝統なのである。

調理法が未成熟だった和食を進化発展させたのは、道元らが伝えた中国禅林の精進料理だった。彼らは、日本に“出汁を取る”という発想と新しい調理技術をもたらした。
精進料理には、鳥獣肉や魚介から出る脂のうまみが決定的に欠ける。それを補うために中国の典座(禅林における調理担当者)は、うまみの粋ともいえる出汁を利用することを思いついた。そして、その技法を学んだ日本では昆布、椎茸、かんぴょう、干大根、鰹節、煮干と、ことさら出汁を意識し探求するようになった。日本の食には悲しくなるほど油脂が不足していたからである。戦後しばらくまで庶民は、ほぼ米と野菜だけの料理を常食とした。全国民が精進料理を食べていたようなものなのだ。それをなんとか美味しく食べようとする努力が、今の出汁文化へとつながったのである。
また中国精進料理には、肉や魚に似せたモドキ料理を作るという特徴がある。生麩を豚肉に見せかける、山芋を海老に見せかける、きのこをイカに見立てる、大豆で出来たハムなど、姿かたちだけでなく味や食感も近づけることに腐心した。そのため典座は、油や香辛料を駆使しながら煮る・炒める・揚げるといった調理技法のかぎりを尽くしたのである。
中国から新たな調理技術を導入することによって、日本の禅林の料理は格段に進歩した。それが葬儀や法要などの際、大勢で精進料理を作ることで伝播と伝承がなされて、家庭料理を豊かにしていったのである。

料理を食材や調味料や技法といった面から見ると、各国の料理はそれぞれに個性的だ。だがトータルの食事として捉えた場合、日本料理のユニークさが際立ってくる。和食においては、食材の旬、その形状、引き立てあう取り合わせ、調理法は当然として、料理が映える器と彩の良い盛りつけ、供すタイミング、食べ方など、食事全体に心をくだく。料理を総合的な食事の一部として捉え、とことん考えぬくというのが和食の特徴で、どんな田舎料理にだって研究をつみ重ねた跡が見られる。
そんなふうに生真面目に食事と向き合う態度がいつごろ芽生えたのかはわからないが、はっきりと意識化し浸透させたのは、まちがいなく道元がものした『典座教訓』と『赴粥飯法』の二編なのである。
たとえば「菜や汁を煮る準備は、飯を炊く合間にせよ」というアドバイスは、何を当たり前のことをと思うかもしれないが、料理は手順とそのための段取りが大切だと明言した嚆矢にちがいない。あるいは「給仕の際、速すぎると相手があわててしまうし、遅すぎると長時間坐ることになって疲れてしまう」など鼻で笑う人も多いだろうが、その通りしようと思ったらどれだけ動きを考えて熟達せねばならぬことか。日本料理の「作り方」の基礎を築いたのは、まちがいなく道元なのである。
そして「食べ方」を決めたのも道元だった。いまでも続く、食べるまえに「いただきます」と手を合わせ、食べ終えると「ごちそう様」と頭を下げる習慣は、道元が広めた『食事五観の偈』が元になっている。そして道元がのこした最大の遺産は、ひとりで黙って食べるという食べ方だった。