唐突だが、私は伝統芸能の能を愛好している。能の公演があると聞くと飛んで行くし、謡も習った。能が好きな理由は、能楽師の所作の見事さも大きな楽しみだが、なによりも能とは時間をテーマにした演劇だと感じるからだ。
能の筋立てはだいたい同じで、物語の進行役は旅のお坊さん。舞台前半、坊さんは旅先で不思議な老人や子どもや女と出会う。そして後半、くだんの人物が坊さんの夢枕で本性を現す。それは幽霊や亡霊や神など、すでにこの世を去った人あるいはうつつならざるもので、生前に体験した恋愛や合戦や栄華や恨みや後悔を、舞い謡いながら現前させる。まあそのリアルなことと言ったら。例えば『頼政』では、宇治橋の橋桁を落として待ち構える頼政が、馬もろとも激流に飛び込んでこちら岸に攻め寄せる敵方の猛者に狼狽する表情にドキリとさせられる。つるりとした能面に、焦りと苦悶がありありと浮かぶのだ。次々と倒れる郎党一族。頼政は観念し自害を決意する。見事な舞をまいながら頼政はゴロリとまなこを向け、こちらを睨みつける。そして問いかけてくるのだ「お前は現実か?」と。
リアルな亡霊にお前は現実かと問われると、本当に返答にこまってしまう。過去は妄想なのか? 現在だけが現実なのか? いや今この空間では、たしかに過去と現在と亡霊と現実がひとつながりとなっているではないか……能は時間の芸術である。
と、ここでようやくタコについて話せる。
タコは運動能力がずば抜けて高い。骨がないので、ニュルニュル、ウネウネと体全体を自在に動かすことが出来る。敵から逃げるために海藻やカサゴなどに形を変えたり、色を変えたりだってお手の物。腕についた吸盤の数は約1600個あるから、千手観音のように千の手を操ることが出来るのだ。
そしてタコは相当に賢い。ニューロン(脳神経細胞)の数は5億個。人間の1000億個に比べればだいぶ少ないが、犬くらいはある。顔なじみのところには寄って来て、遊びやいたずらをしかけてくる。
が、特筆すべきはタコのニューロンの多くは腕の中にあるということだ。言うなれば顔があちこちにある十一面観音のようなもので、まさに体全体で思考しているのである。もちろん脳が指令を出して腕を動かすこともあるが、それぞれの腕が独自の判断で動くことも出来る。これは人間にはちょっと想像できないシステムだ。脳から腕へというのは、原因があって結果がある因果のシステム。そして脳と腕がバラバラに働くのは、それまで原因と結果と思われていたものが同時に存在するシステム。その二つが並列しているのだ。ということは、タコは私たちと全く違う時間、流れる時間と流れない時間が同時にある時間を生きているということになりはしないだろうか。私たちの感じる時間だけが時間ではないのかもしれない。
タコの寿命は1~2年。本来、膨大なコストがかかるニューロンは、学習によって経験が蓄積され、それを利用することを前提に配備される。費用対効果から言って2年ではとても割に合わないのだ。やはりタコと私たちとは時間の感覚、ひいては種としての在り方自体が違うのだろうか。
坐禅の目的は、私たちを縛りつけている強固な思いこみから離れることにある。
まさに時間の感覚がそうだ。相反すると考えるのも、矛盾していると感じるのも、人間の思いこみに過ぎないかもしれない。
禅に壺中日月長しという言葉がある。坐禅中は普段と時間の流れが違うと言うのだ。人間の時間だけではない、タコの時間だってある。そのことに気づくために坐る。あたりまだと思ってきたこと、知っていると思ってきたこと、そういう常識や知識を捨てる。善悪、貧富、好き嫌い、幸不幸、既成の観念を手放す。つねに生まれ変わるために坐るのである。
そして供養という儀式の意義も同じかもしれない。時空の隔たりを超えて、故人をそこにありありと感じるために行うのが供養なのではないだろうか。