2021年6月12日

唐突だが、私は伝統芸能の能を愛好している。能の公演があると聞くと飛んで行くし、謡も習った。能が好きな理由は、能楽師の所作の見事さも大きな楽しみだが、なによりも能とは時間をテーマにした演劇だと感じるからだ。
能の筋立てはだいたい同じで、物語の進行役は旅のお坊さん。舞台前半、坊さんは旅先で不思議な老人や子どもや女と出会う。そして後半、くだんの人物が坊さんの夢枕で本性を現す。それは幽霊や亡霊や神など、すでにこの世を去った人あるいはうつつならざるもので、生前に体験した恋愛や合戦や栄華や恨みや後悔を、舞い謡いながら現前させる。まあそのリアルなことと言ったら。例えば『頼政』では、宇治橋の橋桁を落として待ち構える頼政が、馬もろとも激流に飛び込んでこちら岸に攻め寄せる敵方の猛者に狼狽する表情にドキリとさせられる。つるりとした能面に、焦りと苦悶がありありと浮かぶのだ。次々と倒れる郎党一族。頼政は観念し自害を決意する。見事な舞をまいながら頼政はゴロリとまなこを向け、こちらを睨みつける。そして問いかけてくるのだ「お前は現実か?」と。
リアルな亡霊にお前は現実かと問われると、本当に返答にこまってしまう。過去は妄想なのか? 現在だけが現実なのか? いや今この空間では、たしかに過去と現在と亡霊と現実がひとつながりとなっているではないか……能は時間の芸術である。

と、ここでようやくタコについて話せる。
タコは運動能力がずば抜けて高い。骨がないので、ニュルニュル、ウネウネと体全体を自在に動かすことが出来る。敵から逃げるために海藻やカサゴなどに形を変えたり、色を変えたりだってお手の物。腕についた吸盤の数は約1600個あるから、千手観音のように千の手を操ることが出来るのだ。
そしてタコは相当に賢い。ニューロン(脳神経細胞)の数は5億個。人間の1000億個に比べればだいぶ少ないが、犬くらいはある。顔なじみのところには寄って来て、遊びやいたずらをしかけてくる。
が、特筆すべきはタコのニューロンの多くは腕の中にあるということだ。言うなれば顔があちこちにある十一面観音のようなもので、まさに体全体で思考しているのである。もちろん脳が指令を出して腕を動かすこともあるが、それぞれの腕が独自の判断で動くことも出来る。これは人間にはちょっと想像できないシステムだ。脳から腕へというのは、原因があって結果がある因果のシステム。そして脳と腕がバラバラに働くのは、それまで原因と結果と思われていたものが同時に存在するシステム。その二つが並列しているのだ。ということは、タコは私たちと全く違う時間、流れる時間と流れない時間が同時にある時間を生きているということになりはしないだろうか。私たちの感じる時間だけが時間ではないのかもしれない。
タコの寿命は1~2年。本来、膨大なコストがかかるニューロンは、学習によって経験が蓄積され、それを利用することを前提に配備される。費用対効果から言って2年ではとても割に合わないのだ。やはりタコと私たちとは時間の感覚、ひいては種としての在り方自体が違うのだろうか。

坐禅の目的は、私たちを縛りつけている強固な思いこみから離れることにある。
まさに時間の感覚がそうだ。相反すると考えるのも、矛盾していると感じるのも、人間の思いこみに過ぎないかもしれない。
禅に壺中日月長しという言葉がある。坐禅中は普段と時間の流れが違うと言うのだ。人間の時間だけではない、タコの時間だってある。そのことに気づくために坐る。あたりまだと思ってきたこと、知っていると思ってきたこと、そういう常識や知識を捨てる。善悪、貧富、好き嫌い、幸不幸、既成の観念を手放す。つねに生まれ変わるために坐るのである。
そして供養という儀式の意義も同じかもしれない。時空の隔たりを超えて、故人をそこにありありと感じるために行うのが供養なのではないだろうか。


2021年6月5日

坐禅に最も適しているのは雨の日である。雨滴声を聞きながら坐るのだ。
脚を組んで坐り、腰骨を立て、体をまっすぐにさせたら軽く顎を引く。そして目を落として視界をうすぼんやりさせる。視覚が制限されると、代わって聴覚が鋭くなってゆく。
ザアザアザア。あぁ雨が降っている。篠突く雨だ。ピシャッ……雨粒がつくばいを打ち、パッとはじけるところまで脳裏に浮かぶ。シャー……車が水柱を立てて走り過ぎた。キーッ……ヒヨドリが一声をあげて木陰に飛びこむ。カチャカチャカチャリ……お寺の庫裡では食器を洗いだした。そして妄想は膨らむ。あの車はスピード出し過ぎだな。こちらの夕食はなんだったんだろう。
と、ここで呼吸を使ってでもなんでもよいのだが、ありったけの集中力を以て意識を内側に向けるのである。あちこちへ飛んで暴れ回る心を、常に“今ここ”にある体にピタッと寄り添わせる。すると、音は聞こえても雨音だ、鳥の声だ、瀬戸物の音だと情報分析にかけることがやむ。響きの中に坐っている感覚だ。さらに雨だれが心地良いとか、洗い物がうるさくて不快だとかいう価値判断も止める。好き嫌いをいったん置くのだ。
すると雨音がスーッと遠くへ遠くへ広がってゆくような、数キロ先の雨音まで聞こえてくるような気がしてくる。
この、意識が内側に向かって集中しているにもかかわらず外側に拡散してゆく精神状態というのは、実に不可思議だ。集中と拡散という相反する二つが同時に行われる、非常に矛盾した状態なのである。
頭でっかちな生き物である人間は、矛盾を嫌う。しかし坐禅中は、そんな矛盾状態にあっても心地悪いどころかなんとも言えぬ満ち足りた気分なのである。

同じ頭でっかちでもAIには決してできないのが、この相反する命令を同時に行うことだ。だから人間を考えるうえでこの“矛盾”という観念は重要なキーワードになる。
もう一つのキーワードが“時間”である。人間の心には「自己が特別で一貫した存在だ」という意識が根底にあるという。前半の「自分が特別だ」はミミズにだってある。自分という意識がなければ、土中を進みながら頭部に感じる抵抗を、自分で意識的に前進しているのか流されているのか判断がつかない。だが後半の「一貫した存在」は、おそらくミミズにはない。それは昨日、今日、明日ずっと自分は同じということなので、時間が流れるという感覚を前提にするからだ。
そうした時間の在り方については、先端物理が熱心に研究している。2019年に量子コンピューターを使った実験で「時間が逆転する現象」が初めてとらえられた。そして最先端の理論物理学を提唱するイタリアのロヴェッリは、時間という概念の存在さえ問い直そうとしている。どうやら時間とは何かが、宇宙の謎を解く鍵でもあるらしい。

時間には二通りの在り方がある。ひとつは過去、現在、未来と流れる時間だ。おなじみの原因があって結果があるという説明は、そうした流れる時間がもとになっている。
そしてもう一つは流れない時間だ。過去も現在も未来もすべてが同じ地平の上にある。ユングの言う共時性(シンクロニシティ)もこの一つとみなしてよいだろう。
さて、これから考えようとするのは、この流れる時間と流れない時間という矛盾する二つが同時にそこにあることが可能だろうかという問いだ。つまり矛盾した時間だ。


2021年5月30日

先日の第93回アカデミー賞で『オクトパスの神秘』というタコ映画が長編ドキュメンタリー賞をとった。主役は映像作家とメスダコ。人生に疲れた男が南アフリカの海辺に建つ家に戻り、毎日潜るうち一匹のタコと親しくなる。いや、親しくなると言うより恋をする。だが男には妻子がある。タコは……タコだ。その恋の顛末をつづっている。恋をすると相手のことが知りたくなる。たくさん知りたくなる。という訳で、悲しいラブストーリーを鑑賞しながら同時にタコの生態まで分かってしまうという所がミソなのである。
私はタコ映画が受賞したと聞いて、世間もようやくタコの凄さに気づいてくれたのかと、心底うれしかった。実は私、タコにぞっこんなのである。事実、タコと植物と粘菌の研究に多くの時間を費やしてきた。残念ながら、成果らしい成果はほとんどあがっていないが。
なぜそんなにタコが面白いのかお話するには、まず坐禅について語らねばならない。

みなさんは坐禅を体験なさったことがあるだろうか?
感想をうかがうと、「気持ちがすっきりした」「心が落ち着いた」「足が痛かった」といったコメントと共に「どうしても無になれなかった」という反省もしくは失望が聞かれる。
私はこの“坐禅=無になる”という固定観念が人々を坐禅から遠ざけていると思うのだが、どうだろう。また余談ながら“坐禅=叩かれる”という思いこみも一度リセットした方がいい。坐禅会に参加すると、最初から最後までパンパンパンパンと警策の音が鳴りやまない。おそらくみなさん「せっかく坐禅するのだから、棒をもらって精神を叩き直してもらわないと」とお考えなのだろう。しかし、警策はアントニオ猪木の精神注入ビンタではない。それを事前によ-くお伝えしておくべきではないだろうか。
余談はこれくらいにして、ではこの坐禅、一番よく坐れるのはどんな時だと思いますか?
払暁、白昼、薄暮、深夜、暑い日、寒い日、さあどれ?


【ヴィーガンとは?】

ヴィーガンとは徹底した菜食主義のことで、肉や魚だけでなく卵も乳製品もとらない。
そんな食生活、とてもではないが単に健康のためとか流行りのライフスタイルといった軽い気持ちで始められることではない。
修行僧でもなければ誰かに強制された訳でもない普通の人たちが、なにゆえそれほどまで厳しい制限を自らに課すのか?
そこには資本主義に対する嫌悪、反抗、異議申し立てといった強い意志があるのだ。

スーパーで売っている卵は、狭い檻に閉じこめられた鶏が超ハイペースで産まされたものだ。
鶏たちはぎゅうぎゅう詰めでストレスがたまり、隣同士でつつきあう。だからヒヨコのうちに嘴を切り落としておく。そして産ませるだけ産ませたら、熱湯で殺してドッグフードにする。
牛乳は、歩けないくらい大きな乳房に改造された牛から搾り取る。出が悪くなったら百円バーガーだ。
そうした工場式畜産の裏にあるのは、人間は動物より強くて賢いのだから彼らを自由に利用してよいという思想。
ヴィーガンを選ぶ人は、それにノーを突きつけるのである。

際限なく作り出し際限なく消費させるという工場式畜産を回すのは、資本主義経済システムである。
資本主義は、常に外部を必要とする。労働力や資源を途上国という空間的周辺から掠め取り、放射性物質や気候温暖化がひきおこすツケを次世代という時間の向こう側に回す。
もう強者が弱者を支配し搾取するのはやめよう、そんなメッセージをヴィーガンは発信している。

ヴィーガンに向けられる批判でよく見られるのが、工場式畜産ではなく広々として健康的な農場で育てられた肉ならば食べても良いのではないか、むしろまともな農家を応援するために食べるべきではないのかというもの。そしてもうひとつが、資本主義にあらがおうとしても、その意見や思想自体がネットでも本でも資本主義システムの中で“消費”されてしまうのだから自己満足にすぎないというもの。
後者の指摘に対抗する新しい思想が紹介されたので、次回はそのお話を。なんでもかんでもからめとってしまう資本主義とはまことに恐ろしいものなれど、いい加減なんとかしなければ。



 
 




【出家者の食事、その歴史➁】
肉でも魚でも施されたものならなんでも食べたブッダの時代から数百年後。
インド社会では、菜食主義を標榜する宗教者が評価されるようになっていた。「平気で肉を食べる仏教者より、菜食のジャイナ教やヒンドゥー教の方が立派ではないか。美味追求の欲を抑え、自らを律しているのだから」と。
そこで仏教者の間でも、肉食をやめようという意見が出始める。

出家者は、瞑想修行に専念するため生産活動を一切行わない。現代的な言い方をすれば、生産性ゼロの人間たちである。
それでも存続できたのは、競争社会とは別の視点を提示することで心を癒すという機能に加えて、社会から外れても生きられるというセイフティネットの機能も期待されていたのだろう。
そうしたロールモデルはリスペクトされる存在でなければならない。だから肉食が軽蔑されるのであれば、やめねばならなかったのだ。

やがて肉食を禁ずる内容が盛り込まれた経典が見られるようになる。
たとえば『楞伽経』には、鳥獣は輪廻転生した父母かもしれないから食べてはいけないとある。もはや肉食自体が罪となったのだ。
中国に伝わったのは、そうして完全菜食主義になった仏教だった。
さらに中国の禅宗において、食事は独自の展開をみせる。
禅宗では、土中の虫を殺してしまうという理由でブッダが禁じた農耕を行い、自給自足を始めた。それにともない修行という概念の大転換が図られる。正しい心でのぞむなら、農作業だろうが諸々の雑役だろがすべての行為が修行になると説いたのである。
そこで禅林では、畑仕事、食材の管理、調理、食べ方、後片づけなど食事全般に目を配るようになった。精進料理の始まりである。